第5話
コートに一歩足を踏み入れて、知美は一つ息を吐く。休めていた体を試合をするための状態に移行するための一動作。一つ前の試合から一時間経過していたため、ちょうど気怠さが出てきたところ。それを汗腺から押し出すかのように軽く汗を流していた。
(ここまで……来たなぁ)
ネットを挟んで向かいに移動してもらった菊池からシャトルを打ってもらい、ドロップとヘアピンを交互に繰り返す。
そのうちに隣にも相手が入ってきて、同じように準備運動を始めた。
今村と今北。ほぼ半年前――まだ一年の時に一度破った相手。
知美と菊池が同学年のダブルスとして初めて一位となった時の、最後の対戦相手だ。
自分達と同じタイミングで準決勝の試合だったために、試合内容は見ていないが、見てきてくれた後輩の話だと二点しか取られていなかったらしい。本当に、順当に決勝へと駒を進めてきたということだ。
(考えてみれば、学年別の時もギリギリ……偶然に近い勝ち方だったし。向こうの方が上って思っても当たり前だよね)
過去の直接対決を思い出す。
終始、押されっぱなしだったが何とか食らいついていた。それでも体力も精神も限界に近く、知美は正直なところ、最後の何点かはどういう内容で得点したのか試合が終わった直後でも忘れていたほどだ。
そんな状況の中で最後のラリーで咄嗟に出したラケットがシャトルにぶつかって相手コートに返った。そのシャトルがコートに落ちた時、知美と菊池の勝利が決定したのだ。
その経緯からも知美自身、勝てたのは実力だとは思っていない。あくまで運が良かっただけだろう。その時からどれだけ成長したのか。今度こそ実力で勝つことが出来るのか。考えれば考えるほど不安がつのるが、知美は一度全部振り払う。
(やってみないと分からない。例え相手の実力が上でも、頑張って越えないと)
視線を移した時に客席が目に入る。そこには、浅葉中の部員が知美達に視線を送っていた。
応援している面々は準決勝と同じ。その中に、朝比奈の姿も見える。タイミング的に先にダブルスの試合のコールがかかったために客席にいた朝比奈もまた、難なく決勝に駒を進めていた。いずれ試合をしにフロアに降りることになるだろう。
自然と肩に力が入る。知美は腕を回して固くなった部分をほぐした。
「それでは、試合を始めます」
審判は協会役員。決勝ということで準決勝で負けた選手による敗者審判は行われない。ラインズマンはそれぞれの中学から出されていた。
十面作られていたコートもテープが剥がされて残り四面。男女のダブルスの決勝が先に行われ、タイミングをずらして男女シングルス決勝が行われる。視線をコートに移すと、隣では男子ダブルスの決勝が行われていた。
竹内と田野が目の前に立つ翠山中のダブルスへと向かっている。藤本と小笠原という学年一位ダブルスがシングルスに回り、その分繰り上がった形だ。順当にいけば、負けないはず。
(がんばって)
心の中で声援を送り、知美はネット前に出た。今北も今村もそれまでの緩んだ表情は消して、集中した顔で知美と菊池を見返している。それに臆さず、ネットを越えて握手を交わした。そのままじゃんけんでサーブ権を取り、サーブ位置に足を運ぶ知美。立ち止まって深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
「トモ。まず、一本」
「うん」
菊池の言葉に頷いて、サーブ姿勢を取った。向かう先の今北は通常の前傾姿勢よりも更に体を落とし、一本の槍のように前に出ようとしている。その様子を見て知美はサーブの選択に迷いが出た。
(どっちがいい? あからさまに前に出るってアピールだけど……これで後ろ打つのは読まれてる気がする)
あまり時間もないため知美は逡巡した後、最初に決めていたサーブを選択した。
丁寧に、読まれても打てないくらいの軌道を意識してショートサーブを放つ。シャトルは小さい音を立ててネットへと向かった。
そこで今北のラケットヘッドが素早く動き、シャトルコックがネットを越えた瞬間に打ち込まれた。速度はないが、知美と菊池の間に落ちるような際どいコース。結局、二人とも触れられないままにシャトルはコートに落ちていた。
「サービスオーバー。ラブオール(0対0)」
あっさりとサーブ権を奪い返されて知美は菊池へと謝った。菊池はしょうがないというニュアンスを含んだ笑みで知美を労う。
「あれはさすがに無理。プッシュがいい所に行き過ぎだよ」
「そう……だよね」
今回はたまたまだと頭の中を切り替えてシャトルを拾う。いくら強打ではなくてもラケットで打たれたシャトルにはダメージが溜まる。少し乱れた羽を揃えてから今北へと渡すと、自然と相手の顔が見えた。
今北の顔が勝ち誇った笑みに変わっているのを見て、知美は内心穏やかではなくなった。
(もう勝ったって思ってるのかな……負けてられない)
自分が打たれたならば次のサーブでやり返せばいい。今北がサーブの構えを取ったタイミングで知美も身構える。今北ほどではないが、前に飛び込めるような姿勢。
今北が「一本!」と声を出し、ラケットが動いた。知美は打たれた瞬間に前に飛び出してプッシュでシャトルを打ち込もうとする。シャトルはネット前ぎりぎりを飛んでいく。いいサーブ――というよりも、飛距離が短すぎた。
(!?)
ラケットを止められず、明らかにアウトとなる軌道のシャトルを打ってしまう。プッシュ自体は成功し、コートに落ちようとしていたが、それを今村がすくい上げた。それを見て反射的に前中央へと移動する知美。後ろから菊池のスマッシュを予想しての動き。スマッシュで打ち込まれたシャトルが返された所でインターセプトしようとラケットを掲げる。
だが、菊池はハイクリアを打った。思惑が外れて知美は一瞬、動き出すのが遅れる。移動しやすかった右後方への移動中に、今村から知美へとスマッシュが放たれた。シャトルは胸部へと向かってきて、後ろに動いていたこともあってラケットが間に合わなかった。結果、シャトルはラケットのフレームに当たりコート外へと飛んでいった。
「ポイント。ワンラブ(1対0)」
審判が冷静に言って、コートの外に落ちたシャトルを取りに行く。菊池の方に視線を向けると申し訳なさそうな顔をして知美の側へとやってきていた。
「ごめん。スマッシュ打てなかった」
「どうしたの?」
「なんか……ね……」
煮えきらない菊池に続けて尋ねようとした知美だったが、時間がきてしまい慌ててレシーブ位置に戻る。今度は菊池が今北のサーブを受けることになる。菊池が言いかけたことが何か分からないが、今は一本を止めることが大事だ。
「ストップ!」
背後から菊池へと激励を送る。それに答えるように菊池も「ストップ!」と声を出す。今北はラケットを鋭く動かしてドリブンサーブを放った。シャトルは菊池の掲げられたラケットヘッドへ向けて放たれる。反応が遅れた菊池は、シャトルがぶつかった勢いで後ろに押されてしまった。コントロールできずにネット前に落ちようとしたシャトルはチャンス球。そのまま今北がプッシュで押し込んでいた。
「ポイント。ツーラブ(2対0)」
審判の言葉が終わると共に互いにハイタッチして喜び合う今北と今村。二人を見ながら呆然とする知美。その構図が、如実に自分達と相手との実力差を示しているように思えて、知美は弱気が頭をよぎる。それを頭を振って霧散させてから菊池へと振り返り、言う。
「ストップだよ。ここで!」
「ん……うん」
煮えきらない返事のまま、菊池は拾ったシャトルを相手に返す。さすがに放ってはおけず、どうしたのかと尋ねると、菊池は重たい口を開いた。
「なんかね、打とうとした瞬間に『どこに打っても取られる』ってイメージが出てくるんだ。それで上手くシャトルが打てなくなるの」
「……それだけ今北達が強いんだろうね」
自分が気づいていないのは上手く受け流しているのか意識しないようにしているのか。あるいは攻撃を菊池に任せているからかもしれない。知美はどちらかと言えば相手のショットを返すなど防御に回ることが多い。実際にスマッシュなど強く攻めていくのは菊池の役割だ。
だからこそ、知美には感じないプレッシャーを菊池は感じているのかもしれない。
「それでも、打たないと始まらないよ。一発で決まるって思わないで。どこに打っても取られるなら取られない場所を作るように攻めていこ!」
「……分かった」
険しかった表情が緩んだことで、知美も安堵して視線を前に戻した。しかし、自身の顔は菊池には見せていないが険しい。菊池の感じているようなプレッシャーはないとはいえ、相手が自分達のショットを拾ってくるのは想像がついていた。今の会話は自分にも言い聞かせるためのものだ。
(なんだろ……学年別の時より戦えてる気がするけど)
知美は今のラリーの中で違和感を持った。全く見えないが、そこに存在している。自分の考え通りのように思えてそうではない。何か得体の知れないものが暗やみに紛れているような、そんな感覚。それも探しながら戦っていくしかないのだが。
「ストップ!」
思考を一度断ち切ることと自分を鼓舞するために、大きな声で今北達に気合いを向ける。だが、サーバーの今北は涼しい顔で構え、間髪入れずにサーブを打った。
「はっ!」
ネット前に来たシャトルが少し浮いたのを見て、知美は少し強くプッシュした。相手が格上な以上、ミスを逃さずに打ち崩すしかない。
しかし、知美が打ったシャトル軌道の先には今村のラケットが待ちかまえていた。
「やっ!」
完全にタイミングを合わせられ、プッシュをドライブ並の力で弾き返された。知美はプッシュをしたことで体勢を立て直しきれず、菊池がラケットを伸ばしてぎりぎりシャトルへと届く。しかし、ラケットの端に当たったシャトルはコート外へと出ていってしまった。
「ポイント。スリーラブ(3対0)」
連続して加わるポイント。空気が震えるような緊張感は、無い。しかし、知美も。そして菊池も気づき始めていた。
今村と今北は、自分達が思っているよりも強いのだと。
派手さはない。特に際だった武器というものは相手は持っていない。ドロップやスマッシュ、ネット前のショットなどは、自分達が見てきた先輩やそのライバル達と比べても劣るだろう。しかし、だからこそフットワークやショットの正確さなどダブルスとして、プレイヤーとしての地力の差がこの連続ポイントに現れている。
「ストップ。とにかく、ストップ」
ストップとしか言えない自分に、頷くことしかできない菊池。打開策を考えようにも、特に変哲のないプレイをされると逆に突破口が見えなかった。
「一本ー!」
今北が高らかに言ってサーブ姿勢をとる。それに合わせて構えるが、ドライブ気味のサーブを打たれて知美は空振りしてしまった。
「ポイント。フォーラブ(4対0)」
簡単にポイントを許したこと。特に気負いもせず、淡々とポイントを重ねていく今村と今北。
ふと視線を観客席に向けた知美は、すでにそこから消えていた朝比奈のことを頭に浮かべた。
(どう……しよう。どうしよう)
知美の内心の焦りを余所に、試合は淡々と流れていく。
鹿島杯女子ダブルス決勝。
4対0で今村・今北ペアリード
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