剣豪交歓。
「私のことはいい、それよりあいつを介抱してやれ。鼻血とはいえ、出血をしているのだからな」
十兵衛は近寄ってきた門弟たちに言った。
「十兵衛さま、何を言われますか。あんな無法者のことなど放っておけば……」
「そうつれないことを言ってやるなよ、爺。同門のよしみじゃないか……」
「同門の……?」
怪訝な顔をする助九郎と門弟たちを
「どうだ……鼻血は収まったか?」
「……同情するなよ。敗者には何もくれてやるな、それが義理というものだろう」
「そうか、可愛くないやつだな」
「抜かせ」
菊山は鼻を押さえながら、十兵衛を忌々し気に見上げる。
「で……、気づいていたのか?」
「ああ、もっとも、私も先ほどまですっかり忘れていたがな……」
「……ふん」
菊山はそれきり黙って、十兵衛から目を逸らす。
「十兵衛さま、これはいったいどういう……」
「そうだな、まずは私から説明しようか」
十兵衛は語り始めた。
「そう……私がまだ七郎と呼ばれていた頃、江戸の柳生道場には、確かに服部丑之助と呼ばれる兄弟子がいた。当時の丑之助は柳生道場の将来有望な弟子の一人で、この七郎の打太刀を務めたこともあった男だった……」
門弟たちは息を呑んだ。
「……で、では、十兵衛さま!」
「……ああ、この男の我流・新陰流は、確か柳生新陰流を本としたと言っていた。ただの新陰流なら他にもたくさんあるが、柳生新陰流というからには、これはかつて柳生一門と関わりのあった人物であったと考えるのが自然だろう」
「……」
十兵衛は菊山が試合前に言った『この俺に見覚えがあるか』という言葉を思い出していた。
あの言葉ははじめ、伊賀上野の茶屋での一件を指しているのかと十兵衛は思っていたが、菊山が言っていたのはそれよりももっと昔のことを言っていたのだ。
「だが、私の記憶では、服部丑之助はいつの間にか柳生道場からいなくなっていた。なぜ、服部丑之助は道場を辞したのか、なぜ、こうして牢人となり、こうして正木坂道場の道場破りにやってきたのか……その先は私にもわからん。となれば、本人に聞くしかあるまいな……」
「……」
道場内の視線が集中して、菊山又右衛門は渋々と語り始めた。
「……自ら辞したのではない、破門されたのだ。他ならぬお前の親父にな……」
***
菊山又右衛門――幼名・服部丑之助は慶長三年、伊賀の国一ノ宮敢国神社からほど近い山田郡荒木村に生まれた。
丑之助の生家は徳川家康に仕えた服部半蔵正成とは遠縁にあたる間柄で、武士である以前に代々忍びの術を遣ってきた家系であったという。
実父は淡路の池田忠雄に仕官した服部平左衛門だが、丑之助は十二歳の時に本多家に仕えた服部平兵衛の養子となった。丑之助が江戸の柳生道場に入門したのもこの後のことである。
丑之助は幼い頃から常の子供に比して骨太で身体が大きく、自然に勇ある子供であったらしい。だが、肉体が大きさは兵法者としては有利であっても、陰の世界に生きる忍び者としては適格とは言い難い。
それゆえ義父の服部平兵衛は丑之助の将来を案じて忍び者としての道を諦めさせ、丑之助に兵法者としての道を歩ませることを決めたのだという。
この時に平兵衛が相談を打診したのが、かの三代服部半蔵正就であったらしい。
「半蔵さまは、その頃には既に忍び者の行く末を案じておられた。戦国の世が終わり、天下泰平となった
だからこそ、半蔵さまは服部家がまだ健在であるうちに、俺の父親たちのように武士として仕官しておらぬ一族の者どもを真っ当な武士に転身させ、伊賀の忍び者を裏の世界から表の世界へ解き放とうと尽力しておられたのだ。
だが、そうした半蔵さまの考えは残念ながら一族に受け入れられず、結果的に伊賀同心との軋轢を生むこととなった」
服部丑之助の柳生道場入門は、そうした三代服部半蔵の推挙活動の数少ない一例であった。丑之助は半蔵の大きな期待を双肩に背負って、将軍家の天下の御流儀たる柳生新陰流を学んだ。半蔵は丑之助が柳生新陰流の剣士として輝かしい実績を残せば、伊賀同心たちの心境も変わると見込んだのだ。
だが、ある日丑之助が稽古中にとある門弟の打太刀を務めた際に、不意に長尺の太刀を用いた妙手を思いついてしまったことが、丑之助の運命を大きく変えることになった。
「俺は――この長尺の太刀を用いた剣術を隠れて独自に研究し、その成果を『我流・新陰流』の一巻として纏めていた。
時を経てこの研究が完成したとき、師匠――つまりお前の親父の柳生宗矩にこれを提出すれば、その功績を認められて柳生道場の四天王に列席するのも夢ではないと思った。だが、俺のこの隠れた研究は、完成する前に師匠に露見した。
それでも俺は、まさか師匠が俺の研究をまるで評価しないなどとは思わなかった。
だが、結果はこのザマだ。俺は師匠の逆鱗に触れて柳生一門を破門され、すごすごと故郷に帰ることになった」
それで困ったのが服部家である。一族の代表として鳴り物入りで柳生新陰流に入門した丑之助が、まさか柳生道場を破門されたとあっては服部家の名誉に関わる。
結果として服部家は丑之助が柳生新陰流を学んでいた頃の経歴を抹消し、丑之助は父や叔父から中条流、神道流の剣術を習ったのだという偽の経歴を作り上げた。
――だが、服部丑之助の剣は紛れもなく新陰流の剣であったのだ。
「俺はその後、
俺は師匠に恨みを持っていた。天下の御流儀などと言って世に憚っているが、その実態は俺の研究に恐れをなして破門にする程度の臆病者の剣だ。それを隠して天下一を気取るなど高慢も甚だしい。柳生一族は忍び者にも劣る外道だと思った。
俺は研究が完成した頃を見計らって牢人し、江戸の柳生道場に挑戦することに決めた。菊山姓を名乗り始めたのはこの頃のことだ。
本多家を離れることなどは何も怖くなかった。俺が柳生宗矩を打ち倒せば、俺こそが天下一の兵法者になれる。
そうすれば、大阪の陣に散った半蔵さまも浮かばれるはずと思ったのだ。
だが――」
だが――菊山又右衛門は再び宗矩に裏切られることとなる。
江戸の柳生道場は天下の御留流を理由に他流試合を一切受けないと突っぱねた。当然、菊山は激しく抗議したが、あまりに暴れるなら町奉行に訴え出ると恫喝されては、引き下がるほかなかった。
かくして菊山は完成した『我流・新陰流』を試すことなく無仕官の牢人に身を堕とした。かつては一族の代表として期待の星であったはずの菊山は、今となっては武士でも忍び者でもなくなってしまったのだ。
当然、伊賀の一族の間でも菊山は鼻つまみ者にされ、矢も楯も堪らなくなった菊山は武者修行と称して故郷を逃げ出した。そんな折に、あの柳生道場の高札を目にしたのだ。
「俺は、これを二度とない好機だと思った。なるほど柳生道場は天下の御留流かもしれないが、しかし武者修行中の嫡男ならば、御留流の例外となるのではないかと思ったのだ。
そこで俺は伊賀上野で十兵衛を待ち伏せして、さらにそれを尾行して正木坂道場を挑発し、無理矢理他流試合を求めた。ここで仮に柳生者が暗殺の邪剣を遣おうとも、幼い頃に僅かに習った忍び者の心得があればどうにかなると思った。そこから先は、貴様らも知る通りだ……」
***
「……よいか。お前たちがこの男を正木坂道場にあげたことは不問にする。その代わり、今この男が語ったことは一切他言無用じゃ。この事件は沢庵和尚と十兵衛さまと、それから拙者とお前たちだけの秘密とする……」
助九郎が言うと、門弟たちはおずおずと肯いて帰っていった。
「……爺」
「十兵衛さま、私はたとえ殿がどのような方であろうと、私が柳生家に仕える気持ちは一切変わりがありません」
十兵衛の言葉を制して、きっぱりと助九郎はそう言った。
「……そうか。それなら私も何も言うことはない」
「ええ。それでは、私もこれで……」
助九郎もまた、沢庵と十兵衛に礼をして自分の寝所に戻っていった。
助九郎が去ってしばらくして、沢庵が口を開いた。
「……ふむ、お前の話は分かった。どうやら但馬の奴に問いたださねばならぬことがまた増えたようじゃな……じゃが、お前の言う『我流・新陰流』とやらが、果たして今も但馬に通じたかどうかは、些か疑問じゃな」
「……なんだと」
「わしは彼奴のことは誰よりもよく知っている。但馬も、あれで兵法家として天賦の才に恵まれた男じゃ。己の流派を越える剣理があると知れば、自身これを研究してその弱点を補う剣理を既に編み出しているかもしれぬ。いや、きっとそうであろう。……彼奴はそういう男じゃ……」
沢庵が言った。
「まあ、私はそんなものを親父に習った覚えはないがな」
沢庵の言葉を十兵衛は混ぜっかえす。
だが、そのとき十兵衛は、ひょっとするとこの菊山が自分に挑戦してくることさえ、宗矩の計算のうちだったのではないかという、厭な想像が頭をよぎった。
(……バカなことを。いくらあの親父でも、まさかそこまでは……)
その厭な考えを振り払うように、十兵衛は菊山の方を向いて口を開いた。
「まあいい。さて菊山、あんたがたとえ私の兄弟子だろうと、柳生一門の剣名を脅かそうとし、正木坂道場の門弟八人を打ち倒した事実は変わらない。それはいいな?」
「……ああ、むろんだ」
「だが……」
と、そこで十兵衛は菊山にニッと笑いかけた。
「……だが、あの親父殿の鼻を明かそうという、その心意気は気にったぞ」
「……む。どういうことだ?」
菊山は訳がわからないといった顔だ。
「……仮にも貴様は、但馬の嫡男だろう。いや、待て。そういえば貴様、試合中に妙なことを言っておったな……俺が但馬の刺客だとかなんとか……あれはいったいどういう意味だ?」
菊山が訊ねると、十兵衛は待っていたとばかりに――、
「どうしたもこうしたもあるかっ! ――だいたい、あのクソ親父はだなぁ――!」
***
柳生の夜は更けていく。
昨日の敵はなんとやら――小半刻も経った頃には、先ほどまで戦っていたはずの二人の剣豪はすっかり意気投合していて、十兵衛の部屋で酒を飲み交わしながら、剣法談議に花を咲かせていた。
「くっ――はっはは――では、和尚とお前の話を総合すると、貴様は自らの意思で主君の前を退いたのではないというわけだなっ! 柳生家の嫡男でありながら、そのような不手際で江戸城を追い出されるとは、いや、これはなんとも間抜けな話よなぁ!」
「なっ――し、しかしだな、柳生新陰流に復讐をするためだとかいう実にくだらん理由で牢人に身をやつした武士というのも、これはなかなか間抜けな話ではあるがなぁっ!」
「なんだと貴様ぁっ! 剣を投げるなどという邪道な方法でしか俺を倒せなかった奴が何を言うかっ! だいたい貴様、たまたま当たったからいいものの、あのとき剣が当たらなかったらどうするつもりだったのだ。剣を離した時点でお前に勝ち目はないであろうっ!」
「バカめ! そのための柳生新陰流・無刀取りよ! いずれにせよ貴様の負けたことには変わりない。この場でとやかく言うは所詮、負け犬の遠吠えだなっ!」
「貴様言ったな――それではもう一度立ち合うかっ!」
「往生際が悪いぞ、男の勝負は一度きりだ。――おおい、なにをやっている? 酒が切れたぞ、今夜はこいつとトコトン付き合うんだからな!」
「こっちも酒だ――おっと、燗は熱くしてくれよ――ところで和尚は先ほどから一滴も飲まぬが、これはどうしたことだ?」
「バカ、坊様が酒を飲む道理があるか――だが、少しくらいなら飲むよな、和尚?」
二人の酔っ払いに囲まれ、沢庵は遂に仏の顔が切れる。
「お前らいい加減にせんかっ‼」
だが、沢庵のその一喝にもひるまず、二人の剣豪はすっかり出来上がった様子で、しまいには肩を組み合って歌などを歌いだす始末である。
道場に仕える下女たちはなにがなにやら訳がわからぬまま、慌てて道場破りだったはずの男に酒や料理を運んでくる。
そして十兵衛と菊山はがっしり肩を組み合って東の空に向けて宣言する。
『いつか二人で力を合わせて、あの親爺を殺そう!』
「……まったく」
その背中を呆れ顔で見つめながらも、沢庵の顔にはふっと微笑が浮かび上がった。
「どうやら、いい兄弟子に巡り会えたようじゃな――十兵衛」
***
菊山又右衛門――のちの名を、荒木又右衛門。
この十兵衛の愉快な兄弟子は、八年後の寛永十一年、まさにこの日に十兵衛と知り合った伊賀上野は鍵屋の辻において、日本三大仇討ちのひとつとされる伊賀越えの仇討ち――「鍵屋の辻の決闘」により全国にその名を轟かせることになるのだが。
それはこの時点ではまだ神のみぞ知ることであった。
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