心に見るを観と云ふ。

 手利剣、水月、神妙剣、病気、此四、手足の働き、以上五也。手利剣を見る。是を一見と云ふ。残り四つをば、心に持つ程に、観と云ふ也。目に見るをば見と云ひ、心に見るを観と云ふ。


 ――柳生宗矩『兵法家伝書』――


 観は聞ㇾ心、目をふさぎみる心、うちにみるなり。観に所作はなき也。所作は相手次第いづるもの也。


 ――柳生三厳『武蔵野』――



***



 瞬間――十兵衛を襲ったのは強烈なであった。


(ッ――!)


 十兵衛はそれを、寸前で跳ね上げた。

 剣術において、中下段からの突きは『無拍子』――即ち太刀を『振るう』という予備動作を省略する石火の攻撃わざだ。

『序の太刀』を『待』と定め『後の先』を制するを本とする新陰流に於いては、これはまさに意表の奇襲だった。

 だが、菊山の猛攻はいまだまず。

 左構えからの右袈裟――そこから右逆車に返す刀でかいなかららんとする。

 この単純とも言える動作に――しかし十兵衛は戦慄した。


(逆風の太刀――ッ!)


 その太刀筋はまさしく――十兵衛の伯父の柳生五郎衛門宗章が得意としたとされる九箇の太刀の一、『逆風』であった。

 宗章は慶長八年、横田村詮一族の籠城戦においてこの『逆風』によって鎮圧軍と奮戦し、種子島の集中砲火を浴びて壮絶な戦死を遂げたという。

 この時に宗章が斬った敵方の死者数――総勢十八人。

 これは柳生宗矩が大阪の陣での武功が七人であることと照らし合わせると、宗章のソレはまさに戦慄すべき大殺戮ジェノサイドであるといえよう。

 その太刀筋は――さながら弓手ゆんで馬手めて入違いれちごうて風の吹くがごとし。

 そも、下段からの斬り上げは上・中段からの振り下ろしに比べて太刀筋がかたく、間境まざかいを見誤り易い。

 加うるに日没後の宵闇と定寸より稍長い木剣が――さらに十兵衛の眼を狂わせる。

「――ッ」

 

 そう――概するに長太刀が問題であった。

 

 初手の突きにしても、そのはやさはただ無拍子のみに依るものではない。

 木剣と袋竹刀の――単純な長短の差。

 十兵衛にとっての一足一刀の間合いが――即ち菊山の剣域の圏内であった。


(ッ――今度は『浦波』かっ!)


 突き。拂い。突き。拂い。斬り上げ。斬り下し。撥ね、流し、弾き、受ける。

 下段――下段――中段――剣、剣、剣――風。

 木剣の鋭い一撃が眼前をかすめ、車に返した斬撃がまたも首筋を襲う。

 漫々たる海上を、寄せては返す浦波のごとく――

 絶え間なくせめぎ合う、斬撃の応酬。


「その程度かッ――七郎! お前は俺の打太刀ではあるまいッ――」

「――ッ⁉︎」|


 不意に発せられたその言葉に、十兵衛は刹那の意識を刈り取られる。これがために、十兵衛の足捌きにに僅かな狂いが生じた。

 そこに菊山は容赦ない一撃を加えんとする。


られる――‼)


 その瞬間、十兵衛は咄嗟の反射で、

「――ッ⁉」

 菊山はその意外な動きに目を見開き、十兵衛から離れるように背後に跳ねた。

「……」

「……」

 そのまま、動きが止まった。

 十兵衛と菊山は互いに十分な間境を取ったまま睨み合い、肩で息をしている。


(こいつ……たしかに私の幼名を……)


「……貴様」

 菊山は喘ぐように言った。

「貴様……いったい口の中に何を隠している……」

「……何も隠してやしないさ。ただ私は試合中に口笛でも吹きたくなっただけだ」

 十兵衛は薄く笑った。

「……それとも、?」

 ――それは、咄嗟の機転だった。

 十兵衛は敵に口をすぼめる動作を見せることで、口の中に吹矢のような飛び道具を持っているのではないかと思い込ませたのだ。

 如何に木剣の長短の優越があるといえ、を使われては菊山はもちろん対処できない。

 そればかりか、それは自身を暗殺するための毒矢であるかもしれないのだ。その心理的不安を突いた、これは奸計であった。

「まあ、私も卑怯の真似事くらいならするかもしれんがな」

 十兵衛は微笑をうかべたままそう嘯く。

「やはり貴様ら柳生は、外道の一族よ……」

 だが、その言葉とは裏腹に、菊山はどこか嬉しそうに見えた。

「……七郎、貴様は父親そっくりだ」

「心外――だな」

 十兵衛は袋竹刀を再び青眼に構え、そのまま相手の出方を待った。


 ……もはや、疑いようがない。


 明らかに菊山は十兵衛の間境を狂わせる戦法を以て勝負の利を得んとしている。 

 それも、十兵衛と同じ――柳生新陰流を応用した太刀筋によって。


(長尺の木剣か……)


 思えば、かの巌流島の決闘における小次郎の『虎切り』――俗に『燕返し』とも呼ばれる秘太刀もまた、長太刀と下段からの返し刀を組み合わせた必殺剣であった。

 然るに菊山の我流・新陰流は、柳生新陰流の刀法を基盤ベースとして、このような長刀の利を最大限に活かした独自の刀法なのだろう。


『刀剣短くば、一歩を進めて長くすべし』


 かつて柳生宗矩は長尺の利に就いてそのように語ったという。

 ――だが、その一歩が踏み出せないのだ。


(……さて、どうする? 十兵衛)


 じわり、と額に汗が滲む。

 菊山の刀法が柳生新陰流とはまるで関係ない流派のものであれば、十兵衛もまだ柔軟に対応できただろう。

 だが、この男の太刀筋の元は柳生新陰流だ。どうしても江戸柳生道場での左門や又十郎らとの稽古を身体が覚えていて、僅かな違いが感覚に狂いを齎す。――おまけに江戸柳生は天下の御留流のため、他流試合はこれまで全く行ってこなかった。

 

 つまり――十兵衛は柳生新陰流の動きにのである。

 

 それに加えて、菊谷の剣さばきは、柳生新陰流そのものであるように見せて、動きの拍子の中に微妙な変奏が見られた。

 してや、相手は正木坂道場の門弟八人を悉く倒した無類の遣い手である。

 十兵衛が戸惑うのも、無理のないことだった。

「――よもや」

 と、不意に突飛な考えが浮かんだ。

「貴様……親父殿むねのり指金さしがねではあるまいな?」

 言って、十兵衛は自分の戯言に苦笑した。

「但馬の――? これは異なことを言う」

 菊山はフッと哄笑した。

「俺は柳生一門に恨みを持つ者……我が流派の完成に、俺がいったい幾年の時を費やしたか、貴様にわかるか……? 新陰流を本として長尺の秘奥を取り入れた、まさに新陰崩しの俺流の流派よ……」

 まるで謡うように――菊山は己の剣技を語る。

「この剣線を本家の柳生新陰流に試すのが、俺の長年の大望だった。……さて、それではこの俺の太刀に相対し、貴様はどのように戦う……七郎?」

「……」

 十兵衛は無言でそれまで青眼の構えを解き、だらりと剣尖を床に垂れた。

 途端に門弟たちの間からどよめきが沸き起こる。


「ほう、〈無形の位〉か……」


 菊山の口元に笑みが漏れた。

 〈無形の位〉とは「無刀」にも通ずる新陰流のまろばしの剣理である。

 相手の動作に自在に応じるまろばしの思想に基づいて太刀構えの究極というものを考えたとき、新陰流は「青眼」「八双」「上段」「下段」「脇構え」といった五行のあらゆる構えは「肉体の動作を縛るもの」であると看破した。


 故に、太刀構えの究極とは――構えない、という境地にある。


 柳生新陰流の正統から外れた菊山の我流・新陰流に対抗するためには、この円転自在の剣を遣う他はないと十兵衛は判断したのだった。

「面白い――その〈無形の位〉、果たして貴様に遣いこなせるか……?」

 ゆらり――、と菊山の肉体から熱を帯びた剣気が発する。


「さあ、休みは終わりだ、七郎。この服部丑之助が直々に稽古を付けてやろう――」


 そう言って菊山が構えたのは――十兵衛と同じ〈無形の位〉であった。

 門弟たちの間に、またも驚嘆の声が漏れる。


(やはり――こいつ――)


 そうして再び――撃剣の風が逆巻さかまく。

 太刀構えを捨てた菊山の刃筋は、先刻に比して猶も自在。

 二合。

 三合。

 四合。

 振り降ろされた竹刀が空を斬り、

 木剣の軌跡を紙一重で躱す。

 そうした瞬間が――幾たび繰り返されたことだろう。

「ッ――」

 剣術における「目付け」の認識には、一般に「見の目」と「観の目」の二つがあるとされている。

 例えば柳生宗矩の「兵法家伝書」では『目に見るをば見と云ひ、心に見るを観と云ふ』と簡潔に述べられている。また、宮本武蔵の五輪書に曰く――『観見二ツの見様、観の目つよく、見の目よわく見るべし』――と。

 『見の目』は文字通りこの瞳で見ることだが、『観の目』は物理的に見るということを超え、己と相手の動き全体を客観的に把握する『心の眼』である。

 見るのではなく――観る、ということ。

 新陰流の蘊奥に達した十兵衛ならば、当然この『観の目』の境地を会得して然るべきであった。

 だが――、


(我が心眼、未だ父に到らず、か――)


 では、宗矩なら――。

 親父殿なら――この剣戦を如何にして制したというのか――‼


 ――世阿弥曰く、『見所より見えるところの風姿は、わが離見なり。しかればわがまなこの見るところは、我見なり。離見の見にはあらず。離見の見にて見るところは、すなわち見所同心の見なり』


 ――不意に、十兵衛の脳裏にそんな宗矩の言葉が浮かんだ。


 それは、能楽を大成させた世阿弥の『花鏡』における離見の見の境地を、剣術に於ける『観の目』のに準えた宗矩の言葉だった。

 能の演者は舞に於いて、自分の目を離れた観客の目――即ち『第三者の目』を以て客観的に動きを把握せなばならない。

 そうした能の戒めの言葉を、剣術の理に準えて語るとは、如何にも能好きで知られた宗矩らしい喩えであった。

 然るに十兵衛は、父の言葉に天啓を得た!

 だが、その天啓をじっくりと吟味するいとま最早もはやない。


「十兵衛、覚悟――ッ!」


 菊山の叫びは、遂にこの勝負を決する一撃を放たんとする裂帛の一喝であった。


「――――ッ――」

「――……」

「……」

「」


 ……その叫びの最後の残響が途絶える前に、菊山は十兵衛の太刀を鼻柱にまともに受けて、道場の床にどうと倒れ込んでいた。

 むろん真剣ならば、菊山は死んでいただろう。

「今の太刀筋は――」

 菊山は鼻から血を吹き出して、信じられぬ目で十兵衛を見上げた。

「今の太刀筋は、一体なんだ……」

「今の剣か? 今のはいわば、この十兵衛の我流・新陰流――『リケンのケン』だ」

 十兵衛の言葉に、菊山は大きく目を見開く。

「『離見の見』……それは確か世阿弥の……では、あれは金春流の『一足一見』の奥儀を応用した動きのなせる業か……」

「残念ながら、奥儀などという大層なものではない。『ケン』は見る『見』にあらず、この『剣』のこと……つまり『剣を離れた剣』……『離剣の剣』だ……」

 そう言った十兵衛の両拳には、先刻まで握られていたはずの竹刀がなかった。

 ……なんのことはない。

 剣の寸尺が足りぬなら、でその間合いを補えば良いだけのこと。


 十兵衛は菊山に剣を振るう刹那、遠心力に任せて剣を投げ離しただけであった。


「な、なんという……くだらぬ……」

 あまりにも初歩的なその正体に、菊山は呻き声を上げる。

 だが、そのくだらない手を見切れなかったのは彼自身であった。


「ふむ、勝負あったな……」


 沢庵がそう呟くと、門弟たちが一斉に十兵衛に駆け寄った。

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