木村助九郎の苦悩。

「いったい誰があのような輩を道場に上げたのじゃ! あれほど他流試合を禁じておったというに、お前たちはこの不始末をどう心得ておるか!」


 木村助九郎は激怒していた。

 先ほど正木坂道場の門弟たちを一喝した時とは、明らかに怒りの度合いが違った。

 あの時の助九郎の一喝は、まだしも可愛い門弟たちへの愛情が込められていたが、今の助九郎にはそんな優しさは微塵も感じられない。

「ともすれば事は天下の将軍家にも及ぶ! そうなった暁には、もはやお前たちが腹を斬るだけでは済まされぬぞ!」

 門弟たちは恐怖に怯えた。

 助九郎は冗談を言っている目ではない。助九郎は本気で自分たちの切腹を考えている。

 当の道場破りは、身の丈六尺はあろうかという巨漢で、たった今自分が倒して蹲っている門弟の頭を木剣で突いて弄んでいた。

「これで――八人だ。どうした、音に聞こえた正木坂道場の実力はこんなものか?」

 まるで期待外れだとばかりに、助九郎の顔を見やる。

「九人目は――奇しくもお前か、助九郎。柳生一門の四天王と謳われたその実力、とくと見せてもらおうか……」

 下品な顔だ――助九郎はそう思った。

 だが、その下品な顔に正木坂道場の門弟たちの悉くは討ち果たされたのだ。

「も、申し訳ございません、助九郎さま……御留流のことはむろん存じ上げておりましたが、し、しかし……」

 しかし……と言って、その門弟が語ったのは概ね次のような経緯である。

 牢人に試合を申し込まれたとき、正木坂道場の門弟たちは勿論のこと天下の御留流おとめりゅうの命を守って丁重に断りを入れた。

 だが、試合を断られた牢人は門弟たちをせせら嗤うようにこう言ったという。


『これは異なこと――仮にも天下の将軍家兵法指南役を務める柳生新陰流が、よもや負くるを恐れて他流試合をお断り申し上げるとは笑止千万』

『さては、正木坂道場は指南役の地位惜しさに臆病風に吹かれたか。名折れの弱腰兵法めが、天下がわろうておるわい』


 この言葉に逆上した門弟たちは、ついに牢人を道場に上げて助九郎や十兵衛に断りを入れずに勝手に試合を始めてしまったのだった。

 恐らくは、彼らとて自分たちが修行している天下の柳生新陰流がいかほどのものか自分の腕を試してみたい気持ちもあったのだろう。

 だが正木坂道場の門弟たちはこの牢人にあっという間に叩きのめされ、慌てて助九郎と十兵衛を探しに行ったという次第だった。

「たわけが! あんな汚い風態の牢人の言うことなど誰が気にするものか。勝手に言わせておけば良かったのだ」

 またも激怒する助九郎に、門弟たちは縮み上がる。

「貴様たちは御留流の意味が全くわかっておらん! 兵法指南役というものは、ただ強さのみを追い求めればよいというものではない!」

 助九郎は江戸と柳生の意識の違いを痛感していた。御留流とは、決して牢人が言うような臆病風に吹かれたがゆえの制度ではないのだ。

 たとえば――宮本武蔵のような在野の剣豪と柳生宗矩が立ち合いをしたとする。

 仮にその試合で武蔵が宗矩に勝ったとして、それだけを理由にそのまま武蔵が家光の兵法指南役に収まるということはあり得ない。

 兵法指南役とは、単なる流派の強さのみならず、門弟を育てる指導力、家臣としての忠誠心、人徳、さらに宗矩に限って言えば、機を見て多勢を動かす卓越した政治力など様々な要素を総合した上で初めて務まる役職なのだ。

 たしかに武蔵は強い――だが、それはあくまで個としての最強である。将軍家が求める強さとは最初から性質が異なっていた。

 従って武蔵と宗矩を戦わせたとしても、将軍家には何の利点メリットもない。ただ天下の御流儀に瑕が付くというだけである。ゆえに将軍家は柳生新陰流を御留流にしたのだ。

 そうした事情も知らない者が御留流を柳生新陰流を弱腰と罵ったとしても、そんなものは政治を知らぬ凡夫の言としか見られないだろう。

「……」

 だが、常に将軍家の政治中枢にある江戸柳生に比べて、江戸から遠く離れた柳生ノ庄の門弟たちがこうした意識に疎いのも詮無きことだった。

 ともかく試合は既に行われ、正木坂道場の門弟十数人が打ち倒されてしまった。もはや問題はこの事態にどう収集を付けるかという段階まで来てしまった。

 そしてこうした事態が発生した場合、自分がどういった行動を取るべきなのか、助九郎はあらかじめ宗矩から命を受けている。


『立ち合いをすると見せて油断させ、抜き打ちの一撃によって其の者を斃すべし』

――即ち、暗殺であった。


「……」


 木村助九郎は再び牢人の顔を窺う。


(……天下のためじゃ)


 老人の表情には、門弟たちが初めて見る苦渋が満ちていた。


(殿の……他ならぬ、殿の御命令なのじゃ)


 迷う必要はないはずだ。

 それがどんな命令であろうと、これまで助九郎は一度として主君の命令に逆らったことはなかった。

 幸いにも相手は素性の知られぬ牢人だ。殺したところで誰も顧みるものはいない。

「……」

 仮にこの試合に勝ったとて、この牢人を生きて帰せば将軍家の天下の御流儀に他流試合の前例ができてしまう。そも天下の御流儀を虚仮にして憚らぬ非常識な無法者に、情けをかける義理などない。

 もはや柳生新陰流は、柳生一族だけのものではないのだ――。


「……ッ!」


 ――覚悟は、決まった。


「木村さま……?」

 助九郎が江戸から従えてきた家臣の一人が、不安げに助九郎の顔を窺った。


「……拙者が参る。済まぬが、拙者の差料を預かってくれるか」


 これを聞いて、事情を知る家臣はハッと面を上げた。

「……」

 だが、そのまま助九郎に何を言うでもなく、かすかにふるえる手で助九郎の太刀を受け取る。

 正木坂道場の門弟たちは、老人の覚悟に気づきもしないようだった。


(柳生家に仕えて、もう二十余年にもなろうか――)


 柳生でのこれまでの日々を回想おもいながら、袋竹刀を手にする。


(殿。助九郎はいま、初めて殿の御命に逆らいまする――)


 ――これで仮にこの試合に勝ったとしても、駿府への仕官は反故となるだろう。

 もっとも忠実なる家臣が、他ならぬ宗矩の命に背いたのだ。到底許されるべきことはなかった。仕官の取り消しどころか、破門を言い渡されてもおかしくはない。

 だが、それでも――助九郎は太祖・石舟斎から大切に受け継いできた柳生新陰流を、非情な暗殺剣にすることはできなかった。

 木村助九郎友重はどこまでも不器用でお人好しな男だったのだ。


「正木坂道場師範代理、木村助九郎友重じゃ」


 誇りをもって、柳生一門の高弟としての名乗りを上げる。

 ともすればこれが、柳生流の剣士としての最後の名乗りになるかもしれない。


「いざ、尋常に――ッ」

 

 裂帛の気合とともに、青眼に構えた切先を――

 ふっ、と、背後からの竹刀が押しとどめた。

 

「――なるほど。お前に暗がりは似合うまいよ」


 柳生十兵衛はニヤリと笑みを浮かべた。

「だが、今回の晴れ舞台は俺に譲ってもらおう――」

 進み出た諸手に握られた袋竹刀の太刀先は、既に対手の眼に向けられている。

「十兵衛さま――⁉」

 助九郎は瞬時に状況を理解した。

「じ、十兵衛さま――! 若、なりませぬぞ‼ この場は拙者、助九郎がお納め致す――なにも若のお手を煩わせるまでも――‼」

 そうして十兵衛を引き戻そうとする助九郎の肩を、ぐっと後ろに引く者があった。

「待てッ、助九郎――ここは彼奴あやつに任せておけ――」

 沢庵の表情はいつになく真剣であった。

「し、しかし、沢庵和尚――」

「よく聞くのじゃ、助九郎――お前が但馬の奴にどのような命令を受けておったか、よもや十兵衛が知らいでと思うかッ!」

「……ッ!」

 沢庵の言葉に、助九郎は言葉を失った。

「……よくぞ、但馬の命に逆らった。であるから、お前はもう下がれ。お前は駿府の黄門さまへの仕官を控えた身じゃ。ここで問題を起こせば、お前の出世が霧散するかもしれぬ」

「……」

「翻って十兵衛はといえば、これは諸国世直しの旅――武者修行中の身じゃ。つまり十兵衛なら、どこの誰と試合をしようと何の問題もないわけじゃろう?」

「……ッ!」

 助九郎の身体から力が抜けた。助九郎は沢庵に連れられて道場の壁まで下がる。


「……十兵衛さま。拙者は――私はこれまで長年柳生家にお仕えしてきて、今日ほど幸せに思ったことはございませぬ」


 老人の目から、はら、と涙が零れ落ちた。


「十兵衛さま。この助九郎、若に助けられながらおめおめと生きながらえるつもりは毛頭ござらん。もし万が一にも、十兵衛さまが敗れ去ることがござれば、この助九郎、十兵衛さまと共に腹を掻っ捌いて華々しく相果てる所存にございます‼」


「そいつは御免だな」

 十兵衛は背中で薄く笑った。


「私が負けるたびにお前が腹を切っていては、お前の腹がいくつあっても足らん。それに私は、まだ死にたくはないのだからな」


 そして――十兵衛は〈敵〉と対峙した。



***



 正木坂道場の中央に、二人の剣豪は相対する。

 十兵衛の青眼に対して、又右衛門の剣は引き下げたような下段の構えだ。

 刻限は既に七ツ半を越え、日没の中に二星はいかにもくらい。

 気を利かせた門弟の一人が燭台に明かりを灯すと、淡い光の中に睨み合う二人の剣士のまなこが、ぼう、と浮かび上がった。

「ふむ、『九』は戦わずして辞退し、『十』は矢張りお前であったか――十兵衛」

「お前を有利にしてやろうと思ってな」

 十兵衛は口辺に笑みを浮かべる。

「なにしろ――爺は

「……面白い」

 そう言って笑った男の顔を、十兵衛はつぶさに観察する。

 

(やはり、伊賀上野で私を見ていたあの男か――)


 十兵衛は牢人の木剣に、一瞬だけ目を流す。

 牢人の携えた木剣は――


「しかし、俺を殺すものと思ったが――気が変わったらしいな」

「……気づいていたのか」

「当然だ。貴様ら柳生の汚さを最も知る者がこの俺だ」

「……」

 では。

 この男は殺される危険を知って、正木坂道場の看板を狙いに来たというのか。

「随分と、こちらの事情に詳しいのだな」

 十兵衛が言った。

「……ああ、殺しはしない。この十兵衛が正々堂々と相手をしてやるとも」

「ふん、そうか……ならば十兵衛、立ち合いの前に一つだけ訊いておこう

――この俺に見覚えがあるか?」

「――」

 十兵衛は応えない。

 こうした問答の中にも、両者は常に相手の機を窺っている。牢人の言葉のひとつひとつが、いわば十兵衛の思考を搔き乱さんとする牢人の誘惑さそいなのだ。

 思考ことば間隙まよいを生み、間隙まよいはすなわち敗北を生む。

 両者の立ち合いは――既に始まっているのだ。

「――応えぬか。いいだろう。それでは名を名乗るとするか」


「伊賀の国、菊山又右衛門。流派はそうだな……我流・新陰流とでも称しておくか」


「――なんだと」

 我流・――確かにこの男はそう名乗った。

 

「あるいは――」


 と、菊山又右衛門と名乗る男は言葉を紡ぐ。


「お前には、この名前で名乗った方が理解しやすいかもしれぬな――この俺はかつて、という名で呼ばれていた男だ」


(伊賀の国の――服部姓――)


 それはむろん――あの忍び一族のことを指しているに相違なかった。

 十兵衛の脳裏に大阪の陣にて血花と散った上忍の名が刹那に浮かぶ。


(よもやこいつ――服部半蔵が縁者か――)


 だが、菊山は十兵衛に考える暇を与えなかった。

「もはや、問答は無用。存分に立ち合おうぞ、十兵衛」

「……よかろう」


 間。そして――、


「我流・新陰流――菊山又右衛門保知」

「柳生新陰流――柳生十兵衛三厳」




『いざ、尋常に――――勝負ッ!!』

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