沢庵と十兵衛。

「聞いたぞ十兵衛、将軍家の御前を退くにあたり、よもや自らの目玉を差し出すとは、但馬の奴もさぞや誇りに思ったことであろう。天晴れなるかな剛の者よ。いやはや、これぞまさに忠義一徹、お手前こそが武士の鑑じゃわい!」


 沢庵はまるで先刻の助九郎の言葉を繰り返すように十兵衛を褒め称える。

 だが、その真面目くさった言葉とは裏腹に、沢庵の表情はどこか十兵衛を揶揄からかっているような節があるのに、十兵衛が気づかぬわけはなかった。

「和尚――人が悪いですぞ」

 十兵衛が言った。

「どうせ城中での出来事も親父殿の策謀も、全てを知っておられるのだろう。知っていて私を揶揄うとは、いやはや和尚も人が悪い」

 ……なにしろ、沢庵はあの食わせ物の宗矩の師僧とも言える人物なのである。

 お人好しの助九郎ならいざ知らず、宗矩より一枚も二枚も上手うわての沢庵和尚が、あんな柳生道場の高札に騙されるはずがなかった。

 そもそも、武士が戦場で討ち死にをするのさえ『功名心からくる慾の為せるわざであって、誠の忠義によって戦死する者などせいぜい百人に一人がいいところであろう』などと斬って捨てる沢庵和尚である。十兵衛の左瞳の話を聞いたところで、誠の忠義の者よと十兵衛を褒め称えるはずがなかった。

「……ふむ、まあな。」

 沢庵はそれを認めた。

「まあ、気にするな。衆道のひとつやふたつくらい、わしのいた寺の坊主どもも当たり前のように嗜んでおったわい」

 名僧にあるまじき下品な暴露話をして、沢庵はかっかと笑った。だが、この下世話な世俗性こそが、ある意味で沢庵の魅力であることを十兵衛は知っている。

「仮にも御仏に仕える人間が……まったく世も末だな」

 十兵衛は苦々しく笑うしかない。

「ふむ……お前が否定せなんだところを見ると、やはり江戸城の御前を致仕した理由はそれであったか」

「……えっ?」

 十兵衛は驚いて沢庵の顔を見る。

「で、では和尚は、本当に城中でのことを知らなかったのか」

 和尚に鎌をかけられた――ようやくそのことに気づいた十兵衛だったが、もはや遅かった。

「当たり前じゃろう。なんでわしが江戸城の内情を知っておるのじゃ」

 沢庵は涼しげな顔で言うのみである。

「家光公の稚児趣味の噂は聞いておったからな。それに、なにかにつけ父親に食ってかかるお前が柳生家のためにそんな殊勝なことをするわけもない。気まぐれに想像を働かせて当てずっぽうに言ってみただけじゃよ」

「……」

 十兵衛は呆気に取られて何も言えなかった。

 ここで、この奇妙な名僧の略歴を簡単に述べることにしよう。

 沢庵宗彭――天正元年(一五七三年)に但馬国出石において武家の子供として生まれるが、八歳の時に生国を織田信長配下の羽柴秀吉によって滅ぼされ、父親は牢人の憂き目に遭う。

 これらの事件をきっかけに武士の道から離れた沢庵は十歳で臨済宗に出家し、三十二歳で大悟、三十七歳で大徳寺長老玉浦によって後陽成帝に推されて大徳寺住持となるが、僅か三日にしてその職を辞して世間を驚かせた。

 京の大徳寺は一休宗純をはじめとした名僧を多く輩出し、文化人や戦国武将との交流も深く、帝の帰依も厚かった。いわゆる千利休切腹事件のきっかけとなった山門木像事件が起こったのもこの寺である。

 その大徳寺の住持ともなれば大変な出世のはずだが、沢庵は「由来吾は是れ水雲の身」として権力の座から身を引いた。沢庵宗彭とはそうした反骨の僧だったのである。

 だからこそ、柳生宗矩は友人として沢庵に一目置いていたのだ。

「ふむ――しかし、お前のその話と、今度但馬の奴が江戸城にお前の弟の左門を登城させる算段だという話を総合すると、ちと面白い想像が働くのう」

「な、なに、左門が江戸城に!?」

 十兵衛としては初耳の話である。

「なんじゃ、知らぬのか。例の柳生道場の高札に、お前の左瞳の逸話とともに左門登城の旨もしっかりと書かれておるわ。どうやら但馬の奴、左門をお前の代わりに家光公の小姓役にするつもりのようじゃな」

「それはまだわかる。だが、わからんのはなぜよりによって左門なのだということだ。又十郎ならいざ知らず、左門の剣はまだ……」

 そこで、ようやく十兵衛も宗矩の思惑に得心がいった。

「まさか……私の代わりというのは!?」

「まさしく――十中八九はじゃろうな」

 沢庵は言った。

「わしは但馬のことならお前以上によう知っておるつもりじゃ。まあ、古い馴染みじゃからな。そのわしから言わせれば、あやつはゆくゆくは一万石の大名の座さえ野望に抱いておる男じゃぞ。そのためならば我が子の尻ひとつくらい、主君に献上するのは是非もないことじゃて」

「……」

「まあ、同じ但馬の息子でありながら、主君から引き剥がされたお前はつくづく道化であるがの」

「――下衆め」

「まあ、そうかっかするな。わしがお前を訪ねてきたのもそのことがあってのことじゃ」

「……?」

 十兵衛が首をかしげると、沢庵は呆れた顔で、

「あのな、出石で隠棲生活をしているわしが、お前のつまらん顔を見るためだけにわざわざ柳生くんだりまで来ると思うのか。但馬の権謀好きも近頃は目に余るのでな。それにあやつは諸大名への賄賂も厚く、他家を訪れては趣味の能を押し付けておるそうじゃろう。あれも良くない」

「それは関係がないのでは……」

 十兵衛は言ったが、沢庵はそれを無視して懐から書状らしきものを取り出した。

「和尚、それは……?」

「なに、近頃あやつはわしに兵法上の相談を持ちかけておってな。なんでも家光公に献上する治国泰平の剣を論じた伝書を書くにあたって、我が臨済禅の思想を参考にしたいと言ってきおったのじゃ。そこでわしが一筆したためたのが、この書状というわけじゃな」

 十兵衛はこの時はまだ知らなかったが、この沢庵が宗矩に宛てた書状こそ、剣禅一如の思想を説いて後世の剣の歴史に莫大なる影響を与えた「不動智神妙録」の原型なのであった。

「まあ、それは別として、これを書いておる途中で柳生道場の高札でお前のことを知った。それで折角じゃからこの書状の末筆に但馬への諫言を申し添えておいたというわけじゃよ。だが、この書状を送る前に一応の確認のため、お前の蟄居の理由をこうして問い質しておきたかった」

 十兵衛がその手紙を覗き込むと、長々と剣と禅の関係に対する沢庵の論考が述べられたあと、書状の末尾に次のような文章が添えられていた。


『……御賢息御行跡の事、親の身正しからずして、子の悪しきを責むること逆なり、先ず貴殿の御身を正しく成され、其の上に御異見も成され候はゞ、自ら正しく御舎弟内膳殿も兄の行跡にならひ正しかるべければ、父子ともに善人となり、目出度かるべし……』


「これは……」

 文中の御賢息とは十兵衛自身のことであり、内膳とは又十郎のことである。次の小姓役であるはずの左門のことには一言も触れていない。

 御舎弟内膳殿も兄の行跡にならひ正しかるべければ、父子ともに善人となり、目出度かるべし……すなわちこれは、十兵衛の後継は又十郎にすべしという沢庵からの婉曲的なメッセージであった。

「まあ、文面はこんなところじゃろう。但馬ならこれで、わしが何を言いたいのかわかるじゃろう。まあ、言って聞かねば、今度はわし自らが出向いて但馬を問い質すまでじゃが……」

「……」

 十兵衛はあまりのことに思わず舌を巻いた。

 つまり沢庵は、例の柳生道場の十兵衛の世直し旅と左門登城の高札だけでこれだけの推理をしてのけ、さらにはその対抗手段まで用意してきたのである。


(……なるほど、親父殿が沢庵和尚にだけは頭が上がらぬのはこういうわけか)


 沢庵宗彭……この稀代の名僧は、宗矩とはまた違った意味で、世の趨勢を見抜く「心眼」の持ち主であると言えるだろう。


「まあ、そういうわけじゃ。江戸城中のことは心配せずともよい。ところで十兵衛、今度はわしからお前に聞きたいことがあるのじゃが……」

「聞きたいこと、といいますと?」


「――お前、人を斬ったな?」


「……!」

「……図星か」

 沢庵が無感情に言った。

 もちろん、返り血の付着した着物は先程着替えたはずだった。

 だが、それでも戦国乱世を生き抜き、多くの武人と出会ってきた沢庵の目を欺くことはできなかったようだ。

「和尚は……人を殺す武士はお嫌いか」

「ああ……だが、今さらお前たちに人を斬るなと言っても詮の無い話じゃ。武蔵もかつて多くの武芸者を斬ったし、但馬も大阪で随分と人を斬った」

「……」

 武蔵の名前が出てきて、十兵衛は目を見開いた。

 そういえば、この沢庵和尚は宮本武蔵の師僧としても知られていたのだ。

「だからこそ、わしはお前に聞きたい。お前が斬ったのは、どんな人間だった? お前がどうしても人を斬らねばならねばならなかったその理由を、わしは知りたいと思う。善きにつけ悪しきにつけ、な……」

「……」

 十兵衛は語り始めた。

 江戸城中での家光からの君命に始まり、東海道中で出会った盗賊のことや、鈴鹿山での宍戸隆生との決闘のあらましを、脚色など付けず余すところなく語り切った。


「宍戸梅軒か……これはまた懐かしい名前を聞いたの」

 十兵衛の語りを聞いた沢庵は、ふっと昔を懐かしむ顔になった。

「ただ命のみを『生かす剣』ではなく、真の意味で人を『活かす剣』……か。なるほど、お前の理想はわかった」

 沢庵は十兵衛の理想を肯定も否定もしなかった。

「わしはその理想に、何かものを言う立場にはない。それがお前の撰んだ道ならば、その結末こたえを見つけるのもまたお前自身でなければならぬ。ただ、わかっておろうがひとつだけ言っておくぞ」

 沢庵は真剣な面持ちで、十兵衛に向き直った。

「その道は恐らく、茨の道じゃぞ」

「もとより、覚悟の上であります」

 十兵衛もまた、はっきりとした意思を沢庵に伝えた。

 それからも二人は会話を続けたが、先刻までの深刻さとは打って変わって、今度は気安い笑い話となった。

 十兵衛が江戸道場や城中での様々な話題を語ると、沢庵はお返しに十兵衛の知らない宗矩の若い頃の話を面白おかしく語り始める。


「――そこでわしは但馬に言った。『但馬よ。お前は剣術においては無類の達人じゃが、そのやたらと煙草を吸うのは身体に毒じゃ。少しは煙を遠ざけよ』とな。そうしたらその翌日但馬はなんとしたと思う?」

「――さあ?」

「あやつめ、『ならば』とて部屋の外まで届く長い煙管を作っての。『和尚、これで煙を遠ざけ申した』と、あの顔で笑いもせずに言ってのけたものじゃから、わしはもう何も言えなくなった」

「――わっはっはっ、親父殿らしいな」

 そうして十兵衛が大笑いしたちょうどその時、先刻十兵衛に師範役を頼んできた正木坂道場の門弟たちが、ドタバタと息を切って部屋に駆け込んできた。

「ああっ、若先生、ここにおられましたか!」

 門弟たちは十兵衛の顔を見て安堵した表情を浮かべる。

「なんだなんだ、無礼ではないかお前たちは。ここにおられるは我が父の師僧、沢庵宗彭和尚であるぞ」

「こ、これは失礼を。で、ですが、若先生、無礼を承知で申し上げます。一大事です! 我が正木坂道場始まって以来の一大事が起こりました!」

 門弟の話は焦ってばかりでちっとも要領を得ない。

「わかったわかった、とにかく一大事なんだな。それで一体何が起こったというのだ」

 十兵衛が訊くと、門弟は声を張り上げて報告した。


「――道場破りです! は、恥ずかしながら、既に我が正木坂道場門弟・柳青隊一同、その悉くがこの道場破りの前に敗れ去りました!」

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