伊賀越え。

 寛永三年拾月日、さることありて、君之御前を退て、私ならず山にわけ入ぬれば、みづから世をのがるると人は云めれど、物うき山のすまひ、柴の庵りの風のみあれて、かけひならでは、つゆ音のうものなし。


 ――柳生三厳『月之抄』――



***



 寛永三年、秋。


 東海道から鈴鹿の関を経由して伊賀上野に至った柳生十兵衛は、そこから奈良・柳生へと到る街道――その中途にある萬屋よろずやという茶屋で団子を頬張っていた。

 十兵衛がいるのは、右は上野城下町へ入る塔世坂、左は城の背後に連なる北谷坂、正面は七、八間ほどの崖となった丁字路の南角の茶屋で、反対側にはもうひとつ別な茶屋があるようだが、悩んだあげくこちらの茶屋に入った。

 十兵衛はこの茶屋が気に入った。伊賀と柳生の地理的な近さもあってか、柳生十兵衛の名を名乗れば一も二もなく歓待を受けた。

 宿場に泊まった昨日から柳生十兵衛の噂は伊賀中に広がった様子で、茶屋には子供たちが柳生の若様の姿を一目見ようと詰め掛けている。

 今度はちゃんと眼帯も付けているので、鈴鹿の茶屋のように贋者扱いされることもないだろう。

  気分が良くなった十兵衛は、

「よし、これだけ集まったのだ。本日は特別に、この私の天晴あっぱれな武勇伝を聞かせて進ぜよう」

 そう言って、ぱん、と取り出した張り扇を鳴らせる。


「さて――そもそも柳生三代と申すは、太祖・柳生石舟斎宗厳、二代・柳生但馬守宗矩、そして三代柳生十兵衛三厳――つまりこの私だが――家名名門にして、代々いずれも剣術一流の蘊奥うんおうを極め、将軍家御指南役として赤心君家のためつくすに至ったというわけだ……」


 十兵衛は調子に乗って話し続ける。

 だが、話を進めるうちに興が乗ってきたのか十兵衛のは次第に尾鰭が付いてくる。俗に「講釈師見てきたように嘘を言い」とは言うが、この場合本人が言っているのだから尚のこと始末が悪い。

 張り扇の生み出す講釈が脱線に脱線を重ね、源平合戦に和田合戦、果ては三国志の関羽かんう張飛ちょうひにまで話が及んだ頃、十兵衛は子供たちの取り囲む背後うしろで、一人茶を飲んでいる武芸者に気が付いた。


(……?)


 十兵衛よりは歳上で、三十路に届くか届かぬかといったところか。身の丈は六尺はあろうかという巨漢で、月代も剃らない蓬髪に、腕にも胸にも体毛が濃く、髭のこわい顔はいかにも牢人然とした風情である。

 その男が十兵衛の話を聞いているのかいないのか、無表情に茶を啜りながら、しきりにこちらを横目にちらちらと見てくる。

 十兵衛は自然とその武芸者の持つ差料に目を留めていた。

(――伊賀守金道いがのかみかねみちか)


「おじちゃんおじちゃん、それで悪い宍戸はどうなったん?」


「おっと失礼――さてさて、しかして鈴鹿の暴れ鎖鬼オニ――にっくき宍戸の根城を突き止めた柳生十兵衛、宍戸の摩利支天まりしてんの如き鎖鎌の妙術など恐るるに足らず、嵐もかくやたる鎌の飛来に、三光雷到さんこうらいこうの極意を以てヒラリヒラリとをこれかわし、遂には宍戸の心の臓腑を切り裂くに到ったというわけだ! わっはっはっ、めでたしめでたし」


 十兵衛が語り終えると、子供たちはやんやと歓声を上げた。

「流石は柳生の若様、強いんやなあ。……そやけど十兵衛様、おいら、どうしてもひとつ判らんことがあんねんけど、訊いてもいい?」

「うむ、なんでも訊くがよい」

「十兵衛様の眼帯やけど、昨日と逆向きなのはどういうわけ?」

「おっと」

 慌てて眼帯の位置を直す。

「――と、このようにこの私は行く先々で悪党どもを懲らしめて回ったというわけだ。さあ、今日の話はおしまいだ。みんな帰った帰った……」

 強引に話を切り上げ、十兵衛はそそくさと勘定を支払って茶屋を出た。


「ふぅ……」

 十兵衛は月ヶ瀬の近辺まで来たところで岩に腰掛けて一息ついた。

 月ヶ瀬は文久二年に真福寺境内に天神社を建立する際に梅の樹が植えられて以来、梅の名所として知られていだが、この季節には幾万本と謳われた花所にも花は見られない。


(ここまで来れば、柳生まではあと少しだ)


 柳生への道はこの鈴鹿、伊賀上野から月ヶ瀬を通る江戸街道の他に二つある。

 ひとつは――奈良東部から春日神社神域、高円山の山間を経由する奈良・柳生街道。

 いまひとつは――京都南部を流れる木津川を渡って、元弘の乱での後醍醐帝籠城の折に播磨守永珍はりまのかみながよしの武功があったとされる笠置山の麓を経由する笠置街道がそれだ。

 この永珍こそが、のちに柳生家が柳生の名を頂戴するきっかけとなった人物である。


「よし……」


 少し休んだおかげで、だいぶ元気が出てきたようだった。十兵衛は岩から立ち上がって、柳生までの最後の道程を歩き始めた。

 このように、伊賀の国を経由して江戸と畿内を結ぶ経路を総称して伊賀越えと呼び、先ほど触れた笠置街道などもこうした経路ルートのひとつとされている。

 この伊賀越えに関する逸話として歴史上最も有名な逸話は、本能寺によって徳川家康の生涯最大の危機と言われる「神君伊賀越え」であろう。

 この事件で伊賀の国に縁故のあった二代服部半蔵正成はっとりはんぞうまさなりは、伊賀・甲賀の土豪たちと交渉して徳川軍の警護をさせ、道なき道を経由して遂に伊賀越えを成功させた。

 現在いまの幕府において伊賀・甲賀の忍び組が同心として仕えているのはこの事件がきっかけとされている。

 だが、このような武功のあった服部家も、三代服部半蔵正就まさなりが伊賀同心との確執で改易され、さらに大阪の陣において戦死すると急速に没落していくこととなる。

 忍び者たちは戦国の世にあっては間者として重宝されたが、泰平の世にあってはまさに『間者であった』が故に忌み嫌われることとなったというわけである。


(……親父殿は、柳生家が服部家の二の舞となることを何よりも恐れている)


 伊賀と柳生は地理的に近い。あの宍戸隆生が指摘したように、柳生一族が剣士であると同時に隠密しのびとしての側面を持っているのは紛れもない事実である。

 そして、将軍家剣術指南役という剣士としての最高地位は、柳生一族の忍び者としての側面を覆い隠す格好の隠れ蓑だった――。


(親父殿は一体、どこまでを読んでいたのだろうか――)


 十兵衛は柳生へ連なる道を歩きながらも、巨大な父の存在を考えずにはいられなかった。


 そして、柳生十兵衛は遂に柳生ノ庄へとたどり着いた。


「ようやく――着いたか」

 その地に立って、十兵衛は呟いた。

 秋である。

 紅葉黄葉に散り敷かれた街道に、あちこちの民家で柿の実が鈴なりになった柳生ノ庄は、「剣の里」というに似つかわしくない牧歌的な気風が漂っている。

 十兵衛は柳生の里で生まれたが、ここで暮らしたのはほんの短い年月だけだった。それでも、十年以上ぶりに自分の生まれ故郷に帰ってきたのだと思うと、感慨に胸を詰まらせずにはいられなかった。


(あの頃は左門も又十郎もまだ生まれたばかりで、母上もまだ生きておられた……)


 十兵衛の母親にして、宗矩の正室であるおりんは元和四年九月に亡くなっている。一説には三男・又十郎産後の肥立ちが悪く、それがそのまま回復しなかったことが理由とも言われる。

 そのため幼少期の十兵衛は、母の命と引き換えに生まれた又十郎にも、妾のお籐の子である左門にも、兄として複雑な感情を抱かずにはいられなかった。

「……」

 江戸での暮らしで忘れていたはずの在りし日の記憶が――この場所の匂いによって少しずつ呼び覚まされていった。


(どれ……道場にでも行って、門弟たちの稽古でも覗いてやるか)


 十兵衛は正木坂まさきざかを登って丘の上の道場に向かう。この道場こそが音に聞こえた正木坂道場だ。坂を登るにつれて、新陰流の門下生たちの威勢のいい掛け声が聞こえてくる。


(子供の頃は、よくここで親父殿のしごきに泣かされたものだったな……)


 十兵衛は道場に近づいて、稽古の様子をこっそり覗き込もうとした。

「む――?」

 十兵衛ははその時、不意に人の気配を感じて振り返って、背後の人物と目を合わせた。驚きに見開かれた顔は、十兵衛もよく見知った顔だった。


「――十兵衛様! いつお戻りになられたのですか!」

「おう――たった今だ。久しいなじい。お前も柳生ここに戻っていたのか」


 それは、太祖・柳生石舟斎の時代からの柳生一門の門弟にして、庄田喜左衛門しょうだきざえもん出渕平兵衛でぶちへいべえ村田与三むらたよぞうらと並ぶ柳生四高弟の一人――木村助九郎友重きむらすけくろうともしげであった。 



 

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