柳生三兄弟。

 それは江戸城中における秘事から年が明けた寛永四年の某日のことであった。


 この日、将軍家剣術指南役たる柳生宗矩は二人のせがれを同伴し江戸城本丸は白書院の稽古場に参上した。

 二人はたすきに鉢巻姿で家光の御成りを平伏して待つ。

 寂然しん、としばししの沈黙が流れる。

 やがて青白い顔の家光が稽古着姿で這入ってきて、この伜たちに無表情のまま一瞥をくれた。


 次男・柳生左門さもん――のちの刑部少輔友矩ぎょうぶしょうゆうとものり

 三男・柳生又十郎またじゅうろう――のちの飛騨守宗冬ひだのかみむねふゆ


 この二人に長兄・柳生十兵衛三厳を加えた三人が俗に柳生三兄弟と呼ばれる柳生宗矩の伜たちだ。のちに宗矩には末子の六丸(のちの列堂義仙れつどうぎせん)ができるが、この時点ではまだ生まれてさえいない。

おもてをあげよ」

 家光の言葉で初めて二人はこうべをあげた。

 左門と又十郎はともに慶長十八年の生まれで、ともに今年で十三歳になる。だが双生児ふたごではない。

 十兵衛と又十郎は宗矩の正室お玉の子であったが、次男左門だけはお籐という妾の腹の子供だった。そのためこの二人の弟は兄弟にもかかわらずほとんど似たところがない。

 又十郎は膂力りょりょくに溢れた肢体に精悍な顔立ちで、家光はそこに兄・十兵衛の面影を感じた。

 だが一方の左門は、これは母親に似たのか如何にも色が白く肌理きめが細やかで、とても柳生の剣を振るうような人間には見えなかった。

 この十兵衛の弟たちは、ともに江戸城を追い出された兄の代理で家光の小姓として仕えた二人だったが、正確にはこの時点ではまだ又十郎は小姓となっていない。

 その又十郎がなぜこうして家光に目通りすることとなったのか、そこにはさる理由があった。


「まずは三学円之太刀から御目見え致す」


 宗矩が言った。その言葉とともに左門と又十郎は立ち上がり、まず又十郎が遣方つかいがたの使太刀、左門が敵方てきがたの打太刀を演じて、次々に剣技を披露した。

 三学円之太刀は「序の太刀」とも呼ばれ、剣聖・上泉伊勢守が考案した新陰流の五箇の構えである。

 その型はいずれも禅語に由来し、たいにして三学を以て敵のけんを勝つ――すなわち自らは仕懸けずず敵が斬り懸かるのを待って円転しこれを避け、せんで敵をたおす、新陰流特有のまろばしを応用した構えである。

 家光は又十郎と左門の演技を食い入るように眺入ながめいる。

 三学の太刀をすべて演じ終えると、次は「破の太刀」である九箇、および天狗抄の太刀に移る。

 これらは三学とは逆に敵がたいの状態にあるときに此方こちらから仕懸ける勢法だ。いずれも新陰流独自の型ではなく、諸流の型を参考にえらび出した型である。

 さらに愛洲移香斎あいすいこうさい以来の陰流の型である猿飛の八箇を演じる。これは序・破の初太刀から愈〻いよいよ激しい剣戦を交える際、間隙なく打ち込む「急の太刀」である。

 最後に極意の六箇の太刀を以て演技は終了した。

「見事じゃ」

 家光の感嘆の言葉に、使太刀の又十郎はうやうやしくこうべを垂れた。その双眸ひとみには初めて将軍に謁見した緊張はなく、若さから滲み出る自信と野心の色が窺えた。

 又十郎が新陰流の目録を演じ終えると、次は左門が使太刀側に回ってまた三学から繰り返す。

 と、使太刀側の左門が三学円之太刀のはじめである「一刀両段」を披露しようとした時であった。


「えあっ!」


 又十郎が裂帛れっぱくの気合を上げて、一瞬のうちに左門の二星にしょう(両拳)から袋竹刀を叩き落した。家光は目を見開く。又十郎は敵方の打太刀側であり、本来ここは左門が新陰流の型を披露する場面であった。だが又十郎はそれを無視して左門を打ち負かしたのである。

 だが、これはまさしく新陰流の稽古の形だった。

 新陰流は実践を重視した流派である。型を学ぶにも他流のように型稽古はせず、蟇肌ひきはだと呼ばれる袋竹刀を用いた試合形式で行われる(そも歴史上初めて稽古に竹刀を導入したのが新陰流である)。そのため使太刀側に隙が生じれば、打太刀は迷わず使太刀を打ち負かしてよかった。

 そしてこの瞬間をもって、又十郎の剣は左門にまさることが証明されたのであった。

 家光はちらりと宗矩の顔を盗み見る。宗矩はこの結果に眉一つ動かさない。

 狸めが、と家光はひそかに呟く。

 家光は十兵衛の代わりに自分の小姓を務めることになった左門の剣技に不満があった。江戸柳生の麒麟児と謳われた十兵衛の腕に左門が及ぶべくもないのは当然だが、それにしても左門の剣は未熟に過ぎた。

 そこで家光は十兵衛のいまひとりの弟である又十郎を登場させることを宗矩に求めた。それで本日の稽古の儀が決まったのである。そして家光は又十郎の腕が十兵衛に勝るとも劣らないことを確信した。

 では、なぜ宗矩は技量の劣る左門を小姓に撰んだのか。

 決まっている。宗矩は左門を剣術指南役としての十兵衛の代理ではなく、いわば「その方」の代理として小姓に撰んだのだ。左門は類稀なる美貌の持ち主である。家光の相手としてはおあつらえ向きの息子だったのだろう。

 自らの手で家光と十兵衛を引き離しておきながら、その一方でぬけぬけと主君の性癖を出世に利用する。

 それが柳生宗矩という男であった。


(だが但馬よ、


 家光はほくそ笑んだ。

 彼は左門の美貌には何の興味も抱かなかったのだ。

 確かに左門は美しい。だが美しいだけだった。家光は又十郎の型を視て、自分は十兵衛の見た目ばかりに惚れたのではなかったことを思い出した。

 家光は、十兵衛の剣が好きだった。

 稽古が終わった後に十兵衛から立ち昇るむっと男くさい匂いが好きだった。十兵衛としとねで語らい、天下国家について若者らしく青くさい議論を戦わせる時間がたまらなく好きだったのだ。

 だから、十兵衛の代わりなどいない。衆道とて単に美少年をあてがえばいいというものではないのだ。

 と、そこで家光は一計を案じた。

「但馬、其方の息子又十郎の剣技、誠に見事であった」

「はっ――さても推参すいさんな伜にて、勿体なき御言葉」

 宗矩は無表情のままだった。

「そこでじゃ、今度は其方自らが又十郎と仕合うてみよ」

「拙者と、でござりますか」

 困惑したような声だが、やはり表情を変えない。

「御意。又十郎、上様の下知じゃ。其方そちらで構えよ」

 家光の見立てでは、又十郎の腕は十兵衛に僅かに劣る実力だろう。そして宗矩もまた、剣技においては十兵衛に劣るであろうと家光は見ている。ならば、又十郎の剣もまた宗矩に勝らぬとも限らないのではないか。

 家光は宗矩の負けるさまが見たかった。また先ほどの又十郎の目に宿った野心の光から見て、この伜もまた父を超える機会を逃すはずがないと考えた。

 だが、家光の目論見は外れることとなる。

 又十郎は竹刀を青眼に構えて父と対峙した。目の表情に静かな高揚の色が見える。宗矩は塑像のごとき静謐さで、やはり青眼に構えてその目を観察している。

 じり、じり、と両者の間合が詰まる。

 先を仕懸けたのは又十郎だった。音もなく踏み込み、立相たちあい三尺を越え竹刀を振ったと見るや、


 ふっ、と宗矩の切先きっさきから又十郎の姿が消失した。


(――必勝か!)


 家光が呻いた。

 まさしくこれは九箇の太刀の一、必勝であった。

 又十郎は刀を振り下ろすと同時に身を深く沈め、素早く敵の太刀下に身をかくしたのである。必勝の「必」は「秘」の字に訓じ、かくれたるは必ず勝つ。

 だが宗矩の対応も迅かった。又十郎の狙いを瞬時に悟り、本命の第二撃に備え十分な間合を取る。

 両者の竹刀が弾き合い、音が鳴った。

 一太刀打ってはや手はあげさせず。

 二重。

 三重。

 なお四重五重。

 絶え間なき剣技の応酬は、しかし突然に終わった。

「ッ!」

 又十郎の竹刀が宗矩の鼻先半寸を掠めた。

 そのとき初めて宗矩はピクリと眉目を震わせた。

 あわや、という一瞬。

 だが、その一瞬に心を留め置いたのが彼の敗因だった。


「未熟者」


 気が付くと又十郎は両拳から竹刀を落とされていた。

「……むう」

 家光は歯噛みをして一礼する宗矩を見やった。

 惜しい試合だった。又十郎の竹刀を宗矩が寸前で躱したときは、家光も思わず腰を浮かした。もう少しで、という一瞬があればこそ、尚のことこの結果が残念でならなかった。

 それだけに又十郎が竹刀を拾い上げ、

「竹刀がいま少し長かったなら」

 という言葉を聞いた途端、宗矩の歩みがピクリと乱れたのを家光は見逃さなかった。


(もしや)


 宗矩にとっても、今の試合は冷や汗ものだったのではないだろうか、と家光は思い至ったのである。

 宗矩は又十郎を振り返り、そして家光が自分をっと見つめていることを認めると、

「上様」

 と、静かに口を開いた。

「恐れながら、ただいまの試合、いま一度立ち合わせてはくださりませぬか」

「なに、もう一度したいと申すか」

「左様。ただ此度こたびは、伜の言うやや寸の延びた木剣にて」

 慮外の申し出だった。敗者ならまだしも、勝者が再試合を望むとは道理に合わぬ話である。

 宗矩と又十郎は再度立ち合う。だが再び青眼に構えて父と向き合った瞬間、又十郎は色を失った。

 宗矩はいかっていた。表情こそ変わらぬ無表情である。だがその所作から立ち昇る剣気には、相対する者を畏怖せしめる底知れぬ気迫があった。

 宗矩は木剣を〈無形の位〉に垂れて呟く。


「伜、推参なり」


 勝敗は語るべくもない。又十郎は一瞬にして父に眉間を打たれて昏倒した。

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