柳生十兵衛 我流・新陰流
かんにょ
生まれながらの将軍。
『予は、生まれながらの将軍である――』
その男はよくそんな言葉を口にしていた。
だが、この一見して不遜とも見える言葉の裏に、この男がどれほど深い孤独を抱えていたのかを七郎は知っていた。
七郎は父に連れられてその男と初めて謁見したときのことを、今でも昨日のように思い出せる――。
(なんという寂しい
七郎は一目視て、その男にそんな印象を持った。
(――この男は、私の同類だ)
七郎はこの数か月前、遠く離れた故郷で母を亡くしていた。七郎はその傷心も癒えぬままに、父によって城への出仕を命じられたのだった。
父は、母が亡くなったというのにどこまでも冷淡に見えた。七郎は母を死なせたのは父の責任であると信じていた。
七郎はそうした己の孤独と同じものを、その男の
「……お前が、七郎か」
その男もまた、七郎の
男は、七郎にそっと
七郎もまた、男に
それで二人はすべてが通じた気がした。
「母上は、おれよりも
その男――幼名
父である
その代わりに母が溺愛したのが、聡明であった弟の
母の愛を知らず、その愛を一身に受けた弟の姿を見せつけられた男は深く傷ついた。
「おれは、今まで母上を母と思ったことがなかった。ただの女だと思った。七郎、おれが女というものを信じられなくなったのは、おれにとっての女とは母上のことだったからだ」
父、秀忠も同様だった。秀忠は竹千代を廃嫡して、三代将軍は国千代に継がせると主張し始めた。
この竹千代の境遇を案じたのが、乳母の福――のちの
むろん、これも竹千代可愛さゆえではない。権力志向の強い福にしてみれば、竹千代の乳母となったのもまた自らの出世のための手段でしかなかった。
その苦労が徒労になることを案じた福は当時大御所の地位にあった家康に直訴する。家康は長幼の序を明確にするという政治的判断から、竹千代の世継ぎを確定した。
「つまりおれは、誰からも望まれないまま、誰からも愛されないままに将軍となることが決まったというわけだ。七郎、おれがなぜ自分を『生まれながらの将軍』と呼ばなくてはならなかったのか、お前にもわかるだろう?」
男は自嘲を浮かべた顔で言った。七郎は何も言わないまま、男の言葉に肯いた。
時を経て、男は元服して徳川家光と名を変えた。
そして七郎は――
その頃には、大人になった二人の間柄は余人に
そして元和九年七月――京への上洛を済ませた家光は遂に三代将軍となった。
「但馬の伜か――あれは誠の忠義者じゃな」
ある時、乳母の福がそう言った。
だが十兵衛は、そうした福の言葉に違和感を覚えた。
家光は、確かに十兵衛の主君である。しかし、家光と自分との関係は、主君と家臣の関係とはどこか違っているような気がしていたのだ。十兵衛は家光との間に、主従を越えた誠の友情を感じていたのだ。
そしてそれは――もちろん家光も同じはずだった。
「十兵衛――お前は、おれと主従のみの関係にあることは厭か?」
ある時、家光はそんなことを言った。家光は江戸城の庭園で手に乗せた文鳥に餌を与えているところだった。
「……上様。いったい、何をおっしゃられますやら……」
十兵衛ははじめ、その言葉を主君の戯れであると思った。
「……」
家光は文鳥を籠に戻した。
檻の中の鳥を見る彼の瞳には、あの日と同じ寂しい色があった。
「十兵衛……おれは本気で言っているのだ」
「……」
十兵衛は、しばしの躊躇の後に、ゆっくりと肯いた。
「……そうか」
家光は破顔した。
「ならば今日からは、おれのことは上様とではなく、家光と呼ぶがいい」
思わぬ言葉に十兵衛は動揺した。
「な、なにをおっしゃられますか……上様は……」
「こら、まだ上様というか。これは君命であるぞ。おれとお前は、これからは十兵衛・家光と呼ぶ間柄だ。だからそのバカ丁寧な言葉遣いもおれがゆるさん」
家光は十兵衛をからかうような口調だ。
「……」
十兵衛は深々と頭を下げ、初めて友の名を呼んだ。
「御意のままに――家光」
柳生十兵衛が愛した男はそういう男であった。
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