20××年 夏休み -幕間2-
「……いち……そ……いち……」
遠くのほうで、何かが聞こえる。
「……惣一……」
俺の名前だ。
誰かが呼んでいる。
「起きろ……」
――起きろ?
そうだ!
俺は……!
「……ようやく気がついたか」
最初に視界に入ったその目は、どこかホッとした様子だった。
「眞姫! お前、大丈夫か!? ……あいててて……」
体を起こすと、頭部に痛みが走った。
「安静にしていろ。俺は問題ない。それより自分の心配をしろ。何せ、頭を殴られたのだからな……」
何だと。
さらにバカになったらどうしてくれるんだ。
「殴ったのは、お前の叔父さんか?」
そう言うと、やつは「なぜそれを」という顔をした。
「……凜王が話したのか?」
「ちげぇよ。お前の家の前をうろついてる、ジーさんに聞いた」
誰のことかは、すぐにわかるだろう。と、それ以上のことは言わなかった。
案の定、眞姫はため息をついて頭を抱えた。
「どうして危険を冒してまで、ここへ入ってきた? 下手をすると死んでいたかもしれないんだぞ」
「誰が命の危険を気にしなきゃいけないと思うんだよ。ちょっとお前の様子を見にきただけなのによ」
背後から頭を殴るような身内がいるとは思わねぇし、普通。
「まぁ……その、何だ。お前にとっちゃ余計なお世話かもしんねぇけど、色々話を聞いて俺だって心配になったんだよ。……俺より狗山のほうが心配してたけどな」
「……すまない」
いつも強気の眞姫が、素直に謝罪の言葉を口にした。
消え入りそうな声で。
「本当に申し訳ないと思っている。俺の叔父が……関係のないお前を傷つけるなんて……」
「謝るな。お前は悪くない。俺はダチを助けに来た。それだけだ」
謝るなと言っているのに、眞姫はまた小さな声で「すまない」と言った。
すっかり気に病んでしまっているようだ。
らしくない。
「眞姫……お前、その叔父さんから虐待を受けているのか」
俺がそう言うと、眞姫は腕の痣をサッと手で隠した。
眞姫の白い腕は、よく見ると青痣だらけだった。
狗山は早い段階で気づいていたのだろう。
こいつがいつも長袖を着ていたのは……暴力を振るわれていることを隠すためだ。
「……酒癖が悪くてな。今日もかなりの量を飲んでいる。どうやらコネで入った会社でクビになったらしく……ここ数日荒れているよ……」
「それって、ただの八つ当たりじゃねぇか!」
声を荒げると、眞姫はうつむくだけで何も言わなかった。
俺には理解できない。
俺は親不孝な人間だが、両親は俺をここまで育て上げてくれた。
大事に育ててくれた。
その自覚はある。
虐待なんてものとは無縁の家だ。
自分は幸せ者で眞姫は可哀想なやつ、なんて言いたかないが、親に感謝しなければいけないと本当に思う。
「あのさ……あんまりこういうことは言いたくないんだけど」
そう前置きをして、俺は口を開いた。
「お前の叔父さんは……お前の遺産目当てで一緒に暮らしているんだろう。早い話……お前を殺してしまえば金だけ手に入ったんじゃないのか」
虐待なんてするってことは、邪魔な存在だと思っていてもおかしくはない。
眞姫を生かす意味はあったんだろうか。
「……叔父は……兄、つまり俺の父親のことは嫌っていたが、母にはずっと想いを寄せていた」
「……つまり?」
「俺は母親似だ。俺に、亡き母の姿を重ねている……だから、殺せないのだろう」
それがなかったら、とっくに死んでいたとでも言うのか。
だが、その事実より俺がゾッとしたのは……
「お前……まさかとは思うが……」
「性的虐待は受けていない」
……よかった。
「未遂はあったが」
よくねぇ!
「何で今まで誰にも助けを求めなかったんだよ! ――そうだ! 凜王!」
あいつだってこの事実を知っているのだろう。
「凜王はこのことを知っているんだろう? あいつなら助けて……」
「駄目だ」
俺の言葉は眞姫の強い口調で遮られた。
「駄目って……何が……」
「凜王に助けは求められない……」
何を言ってるんだ。
助けは求められない?
「でも……知っているんじゃないのか」
「ああ……。俺がどういう状況下にあるのか、凜王は知っている。何度もこの俺に手を差し伸べてくれた。だが、その手を取ることはできなかった」
「だから、何でだよ!」
「怖かったんだ!」
眞姫の顔は真っ青だった。
「叔父のことを知られてしまったとき、凜王は激しい怒りを露わにした。俺はそのとき、彼に対して恐怖を抱いてしまったんだ。凜王が……俺のために叔父を葬ってしまうのではないかと……そんな予感がして……」
「そんな……」
バカな。と、言いたいところだが……言えなかった。
俺にも……心当たりがあったからだ。
「あの目を見たら、助けてくれなんて言えるわけがない。凜王は……俺たちとは違う。特別な存在だ……」
普段の眞姫が言うと、崇拝しているかのように聞こえるが、このときは違った。
特別。
それは、良い意味なのか。
はたまた、悪い意味なのか。
俺たちは、凜王という存在をまだまだ理解できていない。
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