第9話

「よぉ、和樹」

 店に入ってきたリクルートスーツ姿の男が誠治だと認識するまで時間が掛かった。心のどこかで、誠治たちはここには来ないとタカを括っていた先入観が強く影響した結果だろうか。不意打ちに身体が強張った。

「どうした?」

 平静を装いながら声を出し、誠治を見る。誠治の背中に隠れて美沙の姿もあった。この前飲んだ時には茶色だった髪が黒く染まっている。それに格好はリクルートスーツ。そんな二人の姿を見て、どうしてここにやってきたのかを漠然と把握した。

「いやさ、美沙と履歴書に貼る写真をどうしようかって話してたら、和樹のバイト先で撮ってもらえばいいじゃんってことになってな」

「ゴメンね、いきなり来ちゃって」

「別にいいよ」

 動揺を隠しながら平静を装い続ける。

「でさどう? この格好」

 美沙はスーツに身を包んだ姿を僕に見せた。ご丁寧にその場で身体を時計回りに一周するというドラマでしか見たことのない演出付きで。美沙は良くも悪くも自己主張が強い。僕が恥ずかしいと思う事でも、美沙は抵抗もなく容易にやってのける。今の行動だって羨ましいとは思わないけど、あっけらかんと自己主張する姿勢は美沙らしかった。

「似合ってるんじゃない?」

 僕は敢えて語尾を上げて答える。これ以上は答えたくないという合図だ。

「ヒドーイ。もっと何か言ってくれてもいいじゃん」

 美沙は頬を膨らませていじけた態度を取る。その仕草は女の子らしく、美沙には良く似合っていた。

「まぁ、オレ仕事中だから」

 僕は横目でマスターの顔色を窺った。マスターは仏のような笑顔のままだ。

「和樹、この美男美女カップルは友達か?」

 僕が普段から思っていることをマスターはいとも簡単に言い放った。僕は苦笑しながら首を縦に振った。美男美女と言われた当人たちは気恥ずかしそうにしており、二人の珍しい表情が目に入った。

「すみません。この写真館で証明写真って撮って頂くことって可能ですか?」

 誠治はマスターを見て質問した。マスターは笑顔で頷き、もちろん、と答えた。

「それじゃ、四人ほどお願いしたいんですけど」

「構わないよ。証明写真は重要な写真だけど、希望であれば和樹が撮りますよ」

「じゃあ和樹にお願いしよう」

 美沙は軽い調子で言った。勘弁してくれという僕の心境を無視するように、マスターは了承してしまう。僕は内心、そんな重責担えるかよ、と毒づいた。

「腕は確かだからね。それに和樹の得意分野だしな、問題ないだろう」

「それじゃよろしくお願いします」と誠治は言ってから、頭を軽く下げた。

 もはや僕の意思などお構いなしだった。まるで百メートル走のようなスピード感のあるやり取りで、迅速に話は進んでいく。友人とはいえ、今後の人生に関わる写真のカメラマンに指名されてしまった僕の心境は穏やかではなかった。

「これって、ドイツの置物ですよね?」

 レジの奥にある棚に陳列されている置物を見ながら、誠治は言った。

「若いのに良く知ってるな」

 マスターは感心した表情をして、置物についての説明を始めた。話が長くなることは目に見えていた僕は、諦めの気持ちを抱きつつ、仕方がなくカメラや照明の準備をするために写真室へと向かう。

「ゴメンね、急に」

 いつの間にか僕の近くまで来ていた美沙は小声で言った。別に構わないよ、と答えたが、彼女は申し訳なさそうな表情を崩さなかった。

「ありがとう。それと、この後起きることも許してね」

 言葉に含みを残した美沙は誠治の横に戻っていく。その姿を見送った。

ドイツ製の置物についてのうんちくを滑らかに話すマスターに対して、適度に相槌を打ちつつ、気になることを真面目に質問している誠治の姿は、立派に社会で生きている模範生に見えた。

 僕はどんな社会人になるのだろうか、そもそも社会人になれるのだろうか、と生産性皆無のうるさい主張ばかりが鳴り響く嵐に脳内だけ見舞われていた。ファインダーから美沙を見ながら、細かな調整を繰り返す。いつの間にかやってきた翔平とジーター三人に背中を向けた僕の口から、自然とため息が一つこぼれた。

 照明、レフ板、三脚に青色のバックグラウンドなどの撮影道具が全て揃っている写真室に場所を移して、僕は何度もシャッターを切り、被写体である美沙の真面目な顔を撮り続けた。

 飲み会や遊びに行った時に見せる可愛らしい女の子としての写真ではなく、これからの将来を占う重要な写真は、気楽にシャッターを切る時とは気持ちが違った。自然と肩に力が入ってしまう。更に僕の後ろには誠治と後からやってきた翔平とジーターが居た。僕の心中を察することなく、撮影に関係あることないことを話題にして盛り上がっている。

 翔平たちの声は、正直言えばうるさかったが、集中できない程ではなかったし、写真室が普段の雰囲気になって、次第に僕や美沙の緊張をほぐしたので黙認した。

 光の調整をしている時に、美沙に対して目線の位置を指示することが何度かあり、不思議な感覚に陥ることがあったが、何とか、コレだと思える写真を撮ることができた。長い時間を費やした気がしたが、思ったよりも早く撮り終わった。

 撮り終えた写真データを見つめる。友人の僕から見ても華やかな美沙の顔は、真剣な表情でも予想通り栄える。恐らく証明写真で見る姿は、男の面接官であれば、次も会いたい、職場で顔を合わせたいと思わせる魅力があった。

 次の撮った誠治も幾つか注意をするだけで、悔しいほど爽やかな好青年の写真に仕上がった。僕が予想していた時間を大幅に余らせる誠治と美沙は、元々の素材が良いのだろう。

 代わりに二人の余った時間を埋めることになったのは、翔平とジーターだった。翔平はホストクラブの店前に掲げられたホストの決め顔写真に、ジーターは指名手配の写真になってしまい、証明写真として使えるところまで持っていくには時間が掛かった。そうした中で、僕の培ってきた技術や知識を総動員して、写真を撮っていくことに一種の快感を抱き始め、戸惑った。

「真面目な写真撮る時、表情違うな」

 ファインダー越しに見る翔平は、突然、しみじみとした表情で言った。僕の後ろで撮影を見ていた誠治たちも声を出して翔平の言葉に同意した。

「今まで一番いい表情してるぞ」

「写真が本当に好きなんだな」

「なんか和樹、カッコイイかも」

 誠治、ジーター、美沙の言葉が、何故かすんなりと心に入り込み、そして染み込んでいった。誰かに褒められるのは慣れていないし、いつもなら抵抗するはずなのに。そんな違和感が頭や心だけではなく全身にも広がっていった。

「お前らうるさい」

 顔から火が出る程恥ずかしく、それでいて嬉しい気持ちを胸に刻み込みながら、気分よくシャッターを切り続けた。

「うし、終わり」

 そう宣言した僕は、ファインダーから目を離し、自分の目で翔平の座っている姿を見つめた。何か一枚を挟むか、挟まないかで、こんなにも違うのか、と思った。僕の目にはいつも見ている人懐っこい翔平の笑顔があった。そんな当たり前で、些細な現実がなんだか愛おしかった。

「お前ら、内定貰ったら何か奢れよ」

「まぁ考えておくよ」

 アルバイト先、いや戦場で一戦を終えた僕には、思った以上の疲労が蓄積されていた。だが、疲労よりも達成感で満たされた清々しい気持ちになっていた。いつの間にか、誠治たちと並んで僕の写真撮影を見守っていたマスターは、どこか感慨深い表情をしており、時より何度か頷いていた。

「オレ、この後も仕事だから。飲み会やんなら連絡して。多分、八時過ぎには行けると思うから」

 カメラを片付けようとした時、再びカランコロンと入り口のドアが開く音が写真室に響いた。僕が出ようとするとマスターが手を出して制し、入口へと向かった。

「まだ終わってないんだよね」

 悪だくみを仕組んでいる小悪魔のみたいな表情で美沙は言った。なんだか嫌な予感がした。抱いた嫌な予感は、次の瞬間、現実となった。

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