第8話
美しい桜のピンクが新緑へと移り変わり、ゴールデンウイークで賑わう街に辟易していた。この春は、桜の綺麗な場所などに足を運び写真を撮り、週二回に減った大学の講義を受け、写真館でのバイトに勤しむという今までと変わらないような日々を過ごしていた。少しだけ変わったことと言えば、着慣れないスーツに袖を通して企業の説明会に参加し、適正テストやエントリーシートなどを書く時間が増えたことくらいだった。
就職活動が解禁になって二か月が経過したが、未だにやり方が掴めないまま流されるように形だけの就職活動をしている僕には当然内定などなかった。
「おい、和樹。山下さんの写真はどんな感じだ?」
白髪混じりで仏のような笑みを浮かべるマスターは僕に訊いた。
「山下さんの希望に沿って光の調整は終わってます。いつでも渡せる状態ですけど、あとは現物を見ての返事によってですね」
「相変わらず仕事が早いな。小学生の頃からシゴいた甲斐があるってもんだな」
マスターは満足そうな表情をしてから、テーブルに置かれていたマグカップを口元へと運んだ。
宮瀬写真館は駅から少し離れた場所にこじんまりと営業している創業六十年の老舗。マスターと呼ぶ白髪交じりの男は宮瀬真、この店の責任者だ。マスターは父の学生時代から友人であり、若い頃に有名な写真の賞を総なめにしたこともあるその道での有名人でもあった。
三十九歳まで広告や有名人の写真集を手掛ける仕事をしていたが、四十歳の誕生日に突然、「オレの撮りたい写真は親父みたいにありふれた瞬間だ」と写真の授賞式で宣言して、カメラマンなら喉から手が出る程欲しい仕事を簡単に放棄した業界の異端児。僕にとってはカメラ、写真の面白さを教えてくれた師匠でもあり、純粋に憧れの人でもあった。
高校時代に週末だけ地元から一時間半も掛けて働き始めてから六年が経過しようとしている。今ではそれなりに責任の重い仕事を任されることも増え、写真を撮るなんて大層なことまでやらせてくれている。
「最近、就職活動の証明写真も増えてきたな。なんだか春って感じだな」とマスターは言った。
去年までならマスターの言う事に二つ返事で同意していたが、今年は自分が就活生ということもあり、心中は複雑だった。確かに季節は春だし、その表現は間違っていないけれど、実際当事者になってから就職活動を通して春を意識することはなかった。本音を吐露すれば、悠揚に春を感じる余裕は全くと言って良いほどなかった。それが現実だった。
「そう言えば和樹も就活生だったな。オレが写真、撮ってやろうか?」
お願いします、と口に出せなかった。マスターの被写体になることは嬉しいし、できればしてもらいたい。しかし、何も決まらず迷い続ける状況で、マスターに写真を撮ってもらうことは失礼だと心のどこかで反応していた。マスターが撮ってくれた証明写真を使うということは相応の覚悟を持って、就職活動に取り組まなければならない。今の僕にはその覚悟は持ち合わせていなかった。
「マスターに撮ってもらうのは嬉しいですが、今は遠慮しておきます」
その返事を聞いたマスターは僕を一瞥する。その目は鋭く、僕の中にある迷いを見透かしているようだった。
「まだ社会に出る覚悟ができてないのか?」
胸元をえぐる高速シュートのように鋭い一言が放られた。胸にある迷いをマスターはやっぱり見抜いていた。思わず黙り込んでしまった。
アンティークに囲まれた古き良き昭和の雰囲気が漂う写真館の大黒柱の上で、時を刻むアナログ時計の針が、静かな空間にそっと音を響かせている。時計の下には棚が置いてあり、その上には何枚かの写真が並んでいる。風景の写真から高校球児の人物画まで様々だった。その写真全てにマスターの多岐に渡る才能が惜しげもなく披露されており、さながら小さな写真展のようだ。
「オレはさ、そんなに立派な人間じゃないんだから、気楽に被写体になっておけよ」
「いえ、今は遠慮しておきます」
「親父に似て頑固な奴だな。覚悟が決まったら、オレに言えよ。和樹の覚悟に応えるような素晴らしい証明写真を撮ってやるからな」
「ありがとうございます」
「あと、この前言った件はどうした?」
マスターの質問に答えようとした瞬間、ドアが開いた。同時にブリキの鐘が、カランコロンと音を立てた。来客の合図だ。
僕はドアの方に身体を向けて「いらっしゃいませ」と元気過ぎない程度、店に馴染むような声でパブロフの犬のように条件反射で挨拶していた。
店の雰囲気を働いている者が崩してはいけない。チェーンの居酒屋みたいな声の大きさだと写真館の持つ雰囲気を簡単に壊してしまうし、逆に声が小さすぎる客に不安感を与えてしまう。適度な声量を意識し続けて、今では無意識でも問題なく来客を迎え入れることができるようになっていた。
習慣とは知らぬ間に自分の血となり骨となるという証明は、少しばかりの自信になっていた。同時に習慣に対して漠然とした恐怖も抱いていた。それは恐らく、就職活動という波に無抵抗のまま飲まれていることへの危機感が、きっかけで芽生えたものだった。
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