第6話
飲み会の帰り道、一人で歩く夜道は切なさの色を含んでいる。切なさに色彩が存在していないことは分かっているが、いつもそんなことを思ってしまう。さっきまでの時間の全てウソであり夢だと錯覚してしまう心境は、何故かシンデレラの物語を連想してしまう。
僕は、あんなハッピーエンドを見ることはないだろうし、シンデレラだって、あの瞬間にハッピーエンドを期待するような打算的な側面は持ち合わせていないはずだ。仮に純粋に魔法のような時間を過ごした先に巡ってきた劇的過ぎる展開を予想していたのであれば、シンデレラはかなりの悪女だ。
高田馬場から小滝橋へと向かう道は、進めば進むほど静かになっていく。駅周辺には学生をターゲットにした居酒屋やライブスタジオが幾つもあるから、若者の活力が耳障りな程聞こえてくる。今は、その波に逆らっているから、当然と言えば当然だ。この道は普段から歩いているので、風景には慣れているはずなのに、飲み会の後だけはいつも表情を変えていた。
パチンコ屋の横にあった自販機で購入した缶コーヒーを持ち、後方から僅かに聞こえてくる騒ぎ声に対して、小さな声でいちいち文句を呟いて憂さを晴らす。
翔平と薫子さんは山手線に、誠治と美沙は東西線に、ジーターは西武新宿線に揺られている。二組のカップルは朝まで一緒にいるだろうし、ジーターは実家暮らしだから顔を合わせなくても同じ家にいる家族と過ごすだろう。四年目を迎える一人暮らしを通じて、誰かと一緒に過ごすことが幸せの一つであることを身に染みて感じるようになっていた。
営業時間を終了しシャッターが閉まっている風景を眺め歩いていると、何人かの人とすれ違った。これからどこかにしけこみそうなカップル、陽気な声でどこかの国の言語で話しながら大げさな笑い声をあげる外国人の二人組や僕と同じように一人で歩きながら、家路を目指すOL風の女性の姿も目に映った。この瞬間を写真に収めたいという衝動が一瞬だけ襲ってきたが、体裁を保つ為に行動には移さなかった。
夜に一人で写真を撮るだけで不審者扱いされる歪んだ価値観は滅びてしまえばいい。
ようやく大きな幹線道路を制御する信号機前まで辿り着いた。万引きを恐れない強気な態度で店先に商品を陳列しているスーパー、二十四時間営業のコンビニや幹線道路を走る車のヘッドライドの光が、闇で支配される夜に申し訳ない程度に対抗している。僕は闇に屈せずに戦う光を眺めながら持っていた缶コーヒーを一気に飲み干し、信号が青になるのを待つ。一抹の寂しさで空いてしまった穴を埋めたくなり、誰かの声が聴きたいという感情が生まれ始めていた。
すると不意に大腿二頭筋辺りが小刻みに震えた。高アベレージでペダルを回し続ける時、筋肉が悲鳴を上げ痙攣する震えとは異なる規則正しい震え。スマートフォンが震えていることに気付いたのは二十秒くらいの時間が経過した頃だった。ポケットから震える主を取り出し、眩しいほどのブルーライトで主張しているディスプレイを見つめる。
心臓の鼓動が少しずつ早くなっていく。ここでも絶えず動き続ける心臓の音が、周りに聞こえているのではないかというありえない疑いを抱きながら、次の瞬間には緑色で着色されている通話ボタンをタップしていた。
「もしもし」
聞きたかった声が耳元で残る。
「もしもし。どうしたの? こんな時間に」
「特に何かって訳じゃないんだけどね。カズ君、何してたの?」
耳元から彼女の声が消えると、音が不純物の入っていない沈黙が訪れた。推測だが、彼女は大学入学と同時に住み続けている寮の部屋に一人でいるのだろう。そして恐らく彼女の耳元には、僕のいる場所から聞こえる夜の東京の音が届いている。信号が青になったことを確認し、横断歩道の白線だけを踏んで対岸へと進んだ。白線を踏むことに意味などなかった。ただ、普段とは異なるおかしなことをしていないといけない気がした。
「今、帰り道だよ」
「良かった。もう寝ちゃってたら申し訳ないなって、少し電話するの迷った。こんな時間にゴメンね」
「別に気にしなくていいのに。でも布団に倒れ込んだらすぐに寝れそうだけどね。明日は二日酔いぽい」
「えっ、また飲んでたの? 本当に仲良いね」
彼女は僕が誰と酒を飲んでいたかを言わなくても相手が想像できている口ぶりだった。今日は女の子と飲んでたんだ、と言ったらどんな反応をするのか興味を持ったが、彼女の反応を見るようなつまらない嘘を彼女に向けたくなくて飲み込んだ。
「アイツらと飲んでると、いつも飲み過ぎちゃうんだよね」
「楽しいことはいいことだけど、飲み過ぎだと成人病になっちゃうよ」
彼女は朝の会話を引っ張ってきた。そんな些細なことが嬉しかった。
「またって言われるほど飲む機会多くないんだけどなぁ。それに適度な飲酒は身体にいいんだよ? 知ってた?」
「うん、知ってる。でもタバコ吸ったでしょ?」
「適度にね」
「カズ君の喫煙量は適度じゃないよ。もっと身体を大事にしないと」
遠い昔、僕が一日に吸っているタバコの量を聞かれたことがあった。一日ひと箱半くらい吸う事実を伝えると、ヘビースモーカーだね、と彼女は答えた記憶が蘇る。そう言った後すぐに、僕を心配してくれる優しい言葉を口にしたこともしっかりと覚えている。今日、会った時もそうだ。ありふれた常套句かもしれないけれど、彼女の言葉は温かかった。
「うん、気を付けるよ。こんな時間に電話してくる茜ちゃんは何してたの?」
ピッチャーが肩を作る軽いキャッチボールのような感覚で、言葉を投げて、捕まえて、また投げる。その繰り返しの先、彼女が吐き出す弱気な感情に寄り添うことになることをぼんやりと予測していた。
「夕ご飯食べてから、ずっと就活の準備してたよ。疲れちゃった」
「就活の準備してたんだ。エントリーシート書いてたの?」
「うん、そうだよ。腕パンパンだよ」
彼女は笑いながら言った。耳元で彼女の声を聞きながら普段よりもゆったりとしたペースで歩いた。家に帰った音が聞こえてしまったら、彼女なら電話を切る。そんな気遣いができる彼女の優しさを僕は知っていた。帰り道という理由があれば、彼女は恐らく僕が家に着くまでの間は電話を続ける。その間に、彼女が抱える何かを吐き出させることが目下の命題だった。
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