第2話

 喫煙所にはタバコの煙と笑い声がこもっていた。煙によって視界が良くないが、喫煙仲間である後輩を数名見つけた。僕の存在に気付いた一人が軽く会釈をする。僕は右手を挙げて応えた。

 タバコに火を付ける間に狭い喫煙所を見渡した。四年生の僕はこの場所ではベテランに属する。不思議な感覚だった。煙を吐き出し、ほぼ機能していない脱臭機に吸い込まれていく煙を眺める。見慣れた顔と見慣れない顔が共存する空間はこの時期特有の光景だった。これから一ヵ月もしないうちに名前や学年、学部が分からなくても顔見知りになれる空間は、禁煙の風潮が強い世の中でも健在だった。

 火を付けたタバコの半分くらいが灰になってしまった頃、喫煙所の外にあるエアコンの室外機に座り、くわえたタバコに火を付けようとしている男が目に入った。男は火を付けた後、煙を吐き出しながら文庫本を開き始めた。多くの人間がスマートフォンとにらめっこをしているからこそ、男の存在が際立っている。僕はタバコをくわえながら、外にいる男に近づいて声を掛けた。

「よっ」

 簡潔で短い挨拶であったが、付き合いが四年目になる僕達の間では、おはよう、久し振り、元気か、と幾つものワードを含む合言葉だ。

「おっ和樹。今日も頑張ってたな」

 男はにこやかに笑う。どうやら僕と彼女のことを見ていたらしい。不覚にも気恥ずかしさが顔に出てしまった。

「見てたのかよ、誠治」

 一年生の時に同じクラスになってから付き合いの続く藤沢誠治は、何をしても絵になる男だった。

 学部の中で優秀な成績を収めている稀有な存在であり、僕のように単位を取るだけに出席をしている愚か者とは一線を画す存在。それに異色な経歴で大学生になった分、考え方が大人だった。

 入学当初はマンガのように誠治に告白する女子学生が絶えず現れ、誰が彼女になるのかを同じクラスメイトのジーターと一緒に賭けていた。

 結果的には、賭けの本命だった同じ学部内のマドンナ、廣澤美沙と一年生の頃から付き合い始めた。この賭けに僕は勝って、ジーターに焼き肉をおごってもらった。よい思い出だ。全てが上手くいく印象を抱いてしまう誠治は、僕の良き相談相手でもあった。

「見てたよ。坂で二人が話してんの」

 僕は胸を撫で下ろした。彼女の横に行く為に歩くスピードを速めていた恥ずかしい部分は見られていないようだ。

「じゃあ声かけろよな」

「いや、茜ちゃんすごく笑ってたし、なんか良い雰囲気だったからさ」

 誠治は決してネガティブなことは言わない。繕う訳でもなく、ただポジティブに物事を見ることのできる目を持っている。誠治の言葉に思わず表情が緩む。

「ありがとう」

 くわえていたタバコを左手人差し指と中指で掴んでから、素直な気持ちを伝えた。誠治は笑って「勝負はまだ終わってねぇみたいだな」と言って、手に持っていたタバコを吸った。その問いかけに対して、なんて答えていいのか迷ってしまい、何も言わなかった。何も言えなかったが正確な表現か。

「和樹は絶滅危惧種の天然記念物だよ」

「どういうことだよ?」

「まぁ、そういうことだよ」

「全く分かんねぇよ」

「まぁ、そのうち分かるよ」

「多分、一生分かんねぇ気がするよ」

 僕は嫌味を含んだ口調で答えた。

「そんなことないよ。和樹なら分かるよ。ただ、和樹は周りの事にばかり気を遣うから、自分のことには鈍感ってか嘘つくからな……。勿体ないよ、本当に。だからさ、もっと自分に自信を持て。そして素直になれよ」

 誠治が僕にくれる言葉はいつだって澄み渡って淀みがない。誠治の言葉には、前向きな気持ちを最大限に収縮化している感覚が僕にはあって、それが正直苦手だった。誠治の言葉や性格が原因では無いことは分かっている。全ての原因は、単純に暗闇にいる僕にとって眩しすぎるという一点に絞られる。僕は光を知らないモグラか、スペシューム光線で焼き尽くされる怪獣と大差ない。

「……素直になって、自信を持てたら、何かが変わるのかな?」

「ネガティブを持ち出したら、全てのことに二の足を踏むぞ」

 そうだ。僕はいつだって二の足を踏んで立ち止まってしまう。悪い癖だ。

 ポジティブな目線で物事を見つめられる誠治とは別の種類の人間であることを自覚してしまう。でもこんな僕だったからこそ、一年生の時に誠治と真っ向勝負を挑めたのかもしれない。

「うん」

 力ない返事をした。周りにいるお仲間の話声にかき消されてしまうようにか細い声だった。

「そういうとこ、和樹は変わらないな。でも入学当初から少しずつ変わってきてるから、大丈夫だよ」

 たまに思うことがある。誠治のような長兄を持つ家庭に育っていたら、こんな風にネガティブで染色した人生を歩むことは無かったのではないか。少しは栄える色彩が差し込む世界を見ることができたのではないか。意味のないタラレバは口にしなかった。

「そう言えばさ、翔平から聞いた?」

「何を?」

 何を聞いたかは分からなかったが、今までの付き合いで内容について、あらかた予想できる。今日の夜は長くなる、そんな気がした。

 誠治と喫煙所で話した後、一緒に中身のないオリエンテーションを聞き流した。誠治から翔平たちとカラオケに行くから来ないかと誘われた。でも僕は断った。図書室で幾つかの企業に提出するエントリーシートを書くと決めていたのだ。

 誠治と別れてからずっと図書館に籠っていた。頭を抱えるようなテーマと格闘していると、先輩である葛西さんがやってきた。

「よう、頑張ってるか、就活生」

「見ての通りです。大学職員の先輩が本当に羨ましいですよ」

 僕は力なく笑った。葛西さんは何も言わず、机の上にあった書類を手に取り、感慨深い表情を浮かべ言った。

「懐かしいな、エントリーシート。オレもこれでもかってやったからな」

「じゃあ何かアドバイスくださいよ」

 今まで講義のレポート、試験のこと、あとはキミのことを葛西さんに相談してきた。まぎれもなく頼れる先輩だ。

「まずはお前の頭で考えてからだろう。そうしないとオレが書いたのと一緒だろ?それじゃ意味が無いからな。ちゃんと書き終えたら、いくらでも相談に乗ってやるよ」

 葛西さんはそう言って僕の肩を優しく叩いて、踵を返して出口の方へと歩き始めた。

 僕はその背中を見送って、再び書類と向き合った。未来のチケットを手に入れるために、必死に、真剣に。でも課題に即したことなど浮かばず、この後のことで頭がいっぱいだった。

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