ハイライト

朝比奈ケイスケ

第1話

 地下鉄の長過ぎるエスカレーターの左側に立ち、地上へ送られるのを漠然と待っていた。階段を登るように駆け上がるサラリーマンや女子高生の姿が、僕の横を過ぎ去っていく。僕は女子高生が横を通り過ぎたのを確認してから、少し目線を上に向けて日常のささやかなラッキーを期待した。しかし、この地下鉄に乗り慣れているのか、冷静な判断なのか、その女子高生はスカートを片手で器用に押さえていた。残念な気持ちと十代の女性に邪な期待をしてしまった自分への嫌悪感が混ざった感情が胸に広がる。

 そうした感情を表情に出さないように努めて、スマートフォンを起動させた。慣れた手つきで最近アクセスする機会が増えたサイトからのメールを一読する。魅力的なのか判断ができない内容を頭に入れてから、スケジュールアプリを開き、これからの予定を確認した。

 今週から来週にかけて、忙しい日々が待っていることを伝えるスケジュールは、自分の存在が極めて中途半端だと示されている気がしてしまう。長かったエスカレーターも残り僅かであることを経験値で知っていた僕は、スマートフォンをポケットにしまいこんで、残り五段程度の段差を登った。

 改札を抜けた多くの人達はすぐに左折し、駅の栄えている表側へ繋がる出口へと向かって歩き出していた。僕はその波に敢えて乗らず、右折して、人の少ない裏側の出口へ向けて歩を進めた。

 階段と短いエスカレーターを乗り継ぐと急に視界が開け、青空と幹線道路が姿を現した。どういう道で向かうか、数秒考えてから、一人暮らしをする前に実家から通っていた時に多用していたルートを選択した。

懐かしさを含んでいる閑静な住宅街を眺めながら、碁盤のように十字路ばかりの道を最短ルートで進んでいく。分かっていたけれど大きな変化はなかった。相変わらず住宅ばかりだ。変化として強いて挙げるのであれば、自販機のメーカーがあまり好みではなかったところから、贔屓にしているメーカーに変わったことくらいだ。

 表側の出口から僕と同じ目的地へと向かう人達は、二人並んだだけで前に出ることができなくなる川沿いの狭い道を歩いているだろう。あそこの桜は咲いているのだろうか、と思った。帰りは表側の出口に繋がる道を通って帰ろうと決め込み、出くわした三回目の十字路を右に曲がった。

 程なくして表側の出口から歩き出した人波と出会った。狭い道のせいで、若い男女の、幾つにも分かれている集団に飲み込まれてしまう。開かずの踏切と揶揄される踏切で遮断機が上がるのを五人組の集団と八人組の集団、その他無所属である一人で歩いていた五組と共に待った。

 やはりこの道は狭く、何より踏切が開かない。こんな風に待つのであれば、踏切の上を通る抜け道、ロードバイクに乗っている時に使っている道を使えば良かったと頭の中で愚痴り始めた。イヤフォンをしている耳にも届く、カンカン、と規則正しく鳴り続ける踏切警報器の音が神経を逆なでする。

 今なら踏切を渡っても問題ない。渡ってやろうか、この野郎。

 誰に言う訳でもない言葉を腹に据えながら、結局そんな大胆なことはできずに何もせずただ静かに待っていると、線路の向かいの道を歩く人が数人、目に入った。

 その姿を見た瞬間、心臓の鼓動が高鳴り始める。同時にさっさと通過しろ、電車、と怒鳴りたくなる衝動が襲ってきた。

 二分もしないうちに目の前を黄色い電車が通り過ぎて、ようやく遮断機が上がった。前にいた集団をバルセロナのエースストライカーが繰り出すドリブルをイメージして抜き去りつつ、住宅街を歩いていた時よりも歩幅を大きくして速度を速めた。目的地にたどり着くための最後の難関、斜度のキツイ坂道に突入する。

 僕は前方を確認した。一人で歩く人が数名、集団が三組。コンクリートで舗装された坂道を進んでいる。速度を緩めずに、獲物を狙う野生の獣のようにさっき見つけた後姿を探す。坂道のちょうど半ば辺りにその後姿はあった。

 もう一段、歩く速度を上げる。スプリント賞を求めてゴールラインを目指すスプリンターの映像が浮かんだ。

 手を伸ばせば届くところまで辿り着いた。後ろ姿は、全く僕の事には気づいておらず、ぼんやりとその後姿を眺めた。カバンには、どこかで見たことがあるキャラクターの人形が括りつけられていた。何故か、そのことが気になった。

 坂道も終盤に差し掛かり、大学の周辺に植えられた木々が見え始める。呼吸が整ったところで、イヤフォンを耳から外してから、その後姿の右横に並んだ。

「おはよう」

 僕は最大限の笑顔を作ってから言葉を口にした。

「おはよう。カズ君。……なんか息切れしてない?」

 長い髪が特徴的な彼女はいつもと変わらない、小型犬のように可愛らしい笑顔を僕に向けた。

「そうか? 歳かな?」

 後ろ姿を見つけたから急いだ、なんて言えるほど僕はたくましくはなかった。

「歳って、まだ二十代前半だよ、私たち」

「いや実はオレ、三十代なんだよ」

「じゃあそろそろ生活習慣病に注意だね」 

「そうだね。そろそろチョコ板を一枚食べ続ける生活は控えるようにするよ」

「その前にタバコやめなよ」

 彼女は笑顔のまま優しい口調で答えた。こんなくだらないやり取りが大学生である今を彩っている。それが尊くて愛おしい。

「それは難しいかな?」

「じゃあ、数本数減らしたほうがいいよ。一日、ひと箱は笑えない」

「そうだね。タバコの本数は減らすよ。多分、明日はひと箱吸ってるけど」

「それじゃ変わってないよ」

「そうかな?」

「うん、タバコやめなよ」

 高級車のエンブレムがボンネットで主張している車が、僕達の横を通り抜ける。エンジン音のせいで僕達のくだらない会話は中断してしまい、代わりに前方と後方を歩くお仲間の話声が聞こえてきた。

「もう四年生だね」

 会話の再開したのは彼女からだった。僕は黙って頷く。

「もう一年しないうちに卒業だね」

 ありきたりで、四年生らしい決まりきったことを彼女が口にしたのは、恐らく春のせいだろう。

「そうだね。それまでにやることがいっぱいあるけどね」

「だよね。もう嫌になっちゃう」

 大学四年生は、大学生という立場の中で一番制限があり、自由の利かない時期だ。大学生の本分で言えば卒業論文、将来を決める就職活動という二枚看板だけでもため息が出てしまうほど忙しい。でも、二枚看板以外にも最終学年だからこそ、やらないといけないことで溢れていた。なんだかあっという間にモラトリアム最後の一年が過ぎてしまう気がした。

「就活の調子は?」

 企業説明会や採用試験はひっそりと行われているが、世間一般的には就職活動の解禁は弥生の初日だった。ニュースでは大手就活サイトが起動し始めたことや東京の埋め立て地で毎年恒例である大規模な企業合同説明会を行なったという映像がどの局でも取り上げられていた。そして大学四年生である僕達にとって、就職活動の話題は決して外さないテッパンの話題だった。

「まだ始まって一ヵ月だからね。あんまりかな。まだ何をしたいとか決められないし、東京に残るのか、地元に戻るのかも決めてないんだよね」

「そうなんだ、ちょっと意外だな」

「そうかな」

「茜ちゃんは、将来どうするか決めてると思ってたよ」

 僕は思ったことをそのまま口にした。

「なんでそう思うの?」彼女は驚いた表情をしながらまっすぐ僕の目を見た。彼女の澄んだ瞳に心拍数が上がる。心臓の音が聞こえてしまうのではないか、なんて有り得ない恐怖心のようなものが襲ってくる。

「なんか、そんなイメージ」

僕はさっきと同様に思ったことを口にする。下手な嘘は見抜かれてしまいそうだった。タヌキ顔に分けられる丸っこい顔の彼女は、僕の目を数秒見つめ、黙って頷いた。何か心の中を覗き込まれている気がしたが、全く嫌悪感はなかった。むしろもっと見つめて欲しいとすら思っている節があった。

「……カズ君らしいね」

 彼女はそう言って、視線を僕から前方へと移した。僕も彼女に合わせて前方に目線を向けると、大学の校門がすぐそこまであった。吸い込まれていくように多くの同世代のお仲間達が談笑しながら校門をくぐっていく。

「そういえば、今日はロードバイクじゃないんだね?」

「うん。四年になっての初日だから、電車に乗ってきた」

「学年が上がる初日に歩いてくるのは変わらないんだね」

 僕達は並んで話をしながらお仲間と同じく校門をくぐる。都内の大学とは思えない程の木々の緑で埋め尽くされている。校舎へと続く並木道は石畳で舗装されており、その道をゆっくりと歩いていると、改めて新学期に突入したことに自覚的になった。

「図書館に用があるんだ」と言って彼女は図書館の手前で別れの宣言をした。

 そうなんだ、と僕は口にする。煉瓦で作られたような外観の図書館に入っていく彼女の後姿を両手の親指と人差し指で作った長方形のフレームに収め、カメラを首から掛けておけばよかったなと後悔しながら、その場を後にした。

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