第62話 慟哭

 車のヘッドライトが眩しく、剛士は、近づく兵士たちの異変に気づかなかった。彼らが目の前に立った時、ようやく何かがおかしいと思った。


 無表情で無言の集団が十数人。軍服の襟には黒っぽい血痕が微かに光っていた。


『ドウシタ』剛士は声をかけた。


 その刹那、兵士たちは一斉に襲いかかってきた。剛士は驚いたが、咄嗟に身を翻し、切通の一番狭い箇所へ走った。兵士たちはものすごい速さで追いかけて来た。


 剛士は振り返りざま、すぐ後ろの男に廻し蹴りをした。男は鈍い音をたてて切り立った崖に激突した。が、すぐに何ともないように起き上がる。


 剛士は信じられない。


 角材だって折る自信があった蹴りだ。普通なら、大人の空手家だって起き上がる事はできない。


(なんなんだ? こいつら)


 考えている暇はなかった。兵士たちは次々に襲いかかって来る。ある者は歯を剥いて噛みつこうとし、またある者はナイフを持ち、剛士を切り刻もうとした。


 剛士はそれらの攻撃を紙一重で避ける。避けざまに相手の急所「殺点」に突きを放つ。手ごたえは十分。が、相手は怯まない。


 彼は冷や汗をかいた。




 マリオはベッドから飛び起きた。窓に走ると、開けて外を睨む。何かを感じ取ると慌てて部屋を出た。


「起きろ! 起きろ! 大変だ! みんな起きろ!」


 彼は叫び、部屋の扉を叩き回った。「なんだ、なんだ」と友香子や英女、武井が部屋から続々と出てくる。


 マリオが、村が襲撃されていると知らせると、意外にも、彼らはすぐに信じた。食糧難のため、兵士に襲われる村は少なくなく、また、いつ何時、粛清されるかと覚悟していたらしい。


 彼らは寝間着のまま、何も持たずに宿舎を飛び出し、他の家々を回って知らせた。みなで村の奥、山奥へ避難しようと走った。そこには、山菜やキノコ採集するときに使う道がある。彼らは、鬱蒼とした森に入り、草をかき分け、急斜面の道を登って行った。


「あれ、剛士くんは? マリオくんも、いつの間に……」


 少し登ったところで、友香子が辺りを見回して言った。


 英女は、「剛士……、マリオ……」と囁き声で呼びかける。森の中、目を凝らして見たが、見当たらない。すぐに「わたし、探して連れて来る。お母さん、先、行ってて」と言って走り出した。


「ヨンニョ! 待ちなさい」


 友香子は引き留めようとしたが、英女は母親に構わず、斜面を駆け下りて行った。




「おい! お前ら、やめろ! なぜ襲う! 理由を言え!」


 剛士は闘いながら叫んだ。が、兵士たちは誰も答えない。ただ狂ったように、執拗に剛士に襲いかかった。


(くそっ! 倒しても倒しても、キリがねえ……、うぐっ!)


 兵士のローキックが剛士の太腿を打ち抜く。バランスを崩した時、別の兵士に脇腹を蹴られた。剛士はその勢いで側転すると、距離をとり、崖壁を背後に構え直した。


 呼吸が乱れる。肉離れを起こし、内臓が破裂したかと思ったが、意外にもまだ動ける。剛士は厳しい顔で脇腹をさすった。


 剛士は無意識に半歩後ろに下がった。その瞬間、ナイフの光が一文字にきらめく。兵士の一人が死角から攻撃したのだ。剛士の咽喉から血が滲み出る。彼は、その兵士を蹴飛ばすと、指で血を拭った。


(やべえ……。カザルスさんとの修行がなかったら、今ので、死んでた……)


 剛士の目は、半眼へと変わった。


「全員……、ぶっ殺す……」


 息は細く吐かれる。それは彼の顔の前に蝋燭をおいても、その炎が揺らめくことは微塵もないほど静かな呼吸だった。


 兵士たちは、一斉に剛士に襲いかかった。彼が圧殺されんとした瞬間だった。


 鈍い、卵の割れる音とともに、兵士の一人が反対側の岸壁にめり込んだ。胸はこぶし大に陥没している。男は、ごぼっ、と血の泡を吐き、そのまま動かなくなった。


 剛士は振り向きざまに、最後部の兵士に踵落としをする。兵士の耳はすり切れ、肩は大根を潰すような音をたて、胸まで凹んだ。


 剛士は、一人、また一人と兵士たちを戦闘不能にしていく。余裕はない。一撃一撃に全力を込める。隙が出来ると、相手はそこを狙ってくる。


 だが、これなら全員倒せる、そう思った時だった。


 ジープ型の軍用車から三人の男が下りた。


(やべえ!)


 剛士は何かを感じ、咄嗟に身体をひねった。「パンッ」と乾いた銃声。銃弾が剛士の側頭部と頭髪を焼き、チリチリと焦げた臭いがたった。


(まじかよ……。銃は反則じゃねえか)


 兵士たちは容赦なく次々に剛士に襲いかかる。剛士は前後左右に動きながら、彼らを捌く。大技は使えない。動きを止めた瞬間、撃ち殺される。


 彼らは仲間に関係なく発砲しつつ、あごをしゃくった。すると、下っ端らしい兵士が数人、剛士に構わず、村へ入って行く。剛士は、止める事ができず、残りの兵士たちを盾にしながら戦った。


 時々、銃弾やナイフの斬撃が、剛士の腕や脚をかする。しだいに剛士の体は血に染まっていった。




 マリオは草むらに隠れ、剛士の戦いを見ていた。手足が震えている。


(おれが助ける! おれが助けるんだ)


 マリオは自分に言い聞かせながら泣いていた。恐怖からではない。悔し泣きだた。恐怖で動かなくなった自分の身体が口惜しかった。


 彼の脳裏には、家族を殺された時の記憶が蘇っていた。


 自分の村が魔人に襲われた時、両親は幼いマリオを地下室に隠した。床のすき間から、愛する父と母が殺されて行くのを、ただ見守るしか出来なかった。


 たとえ身体が動いたとしても、どうしようもなかった。そんなことは分かっている。まだ子供じゃないか。人はそう言うかもしれない。が、マリオは自分が子供だとは思っていなかった。


 男だ。


 背の大きさ、年齢なんて関係ない。やらねばならない時、やることが出来る。それが男だ。そう思っていた。


 それなのに、今、自分は動くことが出来ない。恐怖で足がすくむ。手が震えて木剣を落とす。


(おれは男だ! 男のはずだ……。何のためにカザルスさまに剣を習った。動け、動け……)


 傷ついていく剛士を見て、マリオはボロボロと涙を流し続けていた。




 英女は村へ入ると、家々の裏手へまわり、物陰に隠れながら進んで行った。窓から光がもれている。


 銃声が聞こえた時、英女は、剛士が撃たれたと思った。その後、銃声は断続的に続く。


(剛士とマリオ……、銃を持った兵士に追われているんだ。はやく助けなくちゃ)


 英女は息をひそめ、静かに、銃声がする場所へ向かって近づいて行った。




「ヨンニョ……ヨンニョ」


 月明かりの下、友香子は声を潜め、娘を呼んだ。すぐに後を追いかけて、村に下りて来たが、道のどこにも彼女の姿がない。草陰に隠れていないか確かめながら、友香子は道を進んだ。


 その時、銃声があった。道を進み、広場を抜け、少し行った所が村の入り口。山に反響して分かり難かったが、銃声はたぶんそこだ。


 友香子は顔色を青くした。彼女は、最悪の事態を想像する。


(ヨンニョ、ヨンニョ……)


 私はどうなってもいい。娘だけは……。考える前に身体が動く。友香子は村道を駆けて行った。


 広場に出ると、一人の男がいた。乱れた軍服を着た兵士。彼は太いナイフを持ち、フラフラと何かを探すように歩いていたが、友香子を見つけると、突然走って来た。


 友香子は仰天し、慌てて逃げ出した。誘導されるように追い立てられ、一軒の家の壁を背にし、逃げ場を失った。


 男は徐々に近づく。呻くような声。微かな血の匂いが眼の前に迫る。彼女は目をぎゅっとつぶった。


 男が、勢いよく、友香子の腹にナイフを突き立てようとした時だった。突然、兵士は横に飛ばされ、膝をついた。老人が怒声をあげた。


「俺の友香子だ!」


 武井だ。


 友香子は目を開けると、目の前には、月の光を浴びて輝いている武井の後ろ姿があった。彼女は、父親の美しい雄姿に見惚れた。


 兵士はむくりと立ち上がった。そして、手に持ったナイフを確認し、何事もないように、再び、武井と友香子に襲い掛かろうとした。


 突然、兵士の頭は血潮をあげて弾け飛んだ。男は地面に崩れ落ち、動かなくなった。


 友香子は、何が起きたか分からなかった。おそるおそる近づいてみると、男の頭は銃で撃ち抜かれている。


 村道の反対側、家の向こうの森からガサガサと音が聞こえた。見ると、樹々の間から、一人の男が現われた。ライフルと自動小銃を肩に掛けている男の顔が、家の明かりで照らされた。


 友香子の知っている顔だった。小さい頃から英女を妹のように可愛がっていた青年、呉泉信オチョンシンだ。


 友香子は、なぜ彼がここに居るのか聞こうと思ったが、彼は友香子に手を振ると、すぐに、また暗い影の中に消えて行った。




 友香子が父親に「ありがとう」と言おうとした時だった。武井は力なくその場に崩れ落ちた。


「お父さん!?」


 友香子は武井の肩を抱きかかえた。見ると、彼のシャツとズボンは大量の鮮血で染まっていた。腹を刺されている。


 武井は震える手で友香子の頬を触った。


「怪我は、ねえか……」


 友香子は、「うん、うん、大丈夫、大丈夫よ」と声を絞り出す。「し、止血しないと……」と手のひらで武井の傷口を押さえる。


「友香子……」

「なに?」

「……最後に、会えて、本当に、良かった……」

「ばか! なに言ってるの。やっと会えたんじゃない。これからよ。ほら、大丈夫、傷口はそんな深くないわ。あきらめないで……」


 武井の身体の下に、みるみる血の海が広がっていく。


「聞け……」武井は目が見えなくなっているようだった。


「俺はどうせ、もう長くない。俺は、癌の末期だった。いつ死んでもおかしくなかった。こいつは……、そう、こいつは、俺の、最後の冒険だった。今まで、生きてきた中で、最高に、楽しかった冒険だ。まさか、本当に、本当に……、お前に会えるなんて……」


 武井は微笑んでいた。彼の目からは涙がこぼれ落ちている。


「お前の命を救えて……、お前の腕の中で死ねるなんて、最高のハッピーエンドじゃねえか……」

「ダメ……、お父さん……、死んじゃいや……」友香子は頭を振った。

「……頼みがある……」

「なに? なあに?」


 武井の声はしだいに小さくなる。友香子は顔を近づけた。彼女の涙が武井の頬に落ちる。


「あいつらに……、伝えてくれ。俺を、ここまで連れて来てくれて、ありがとうって……」

「うん……うん……」


 武井は見えない目で遠くを見ていた。


「芳江……、友香子は、生きていた、生きて、いた……」


 そう言うと、武井の手は、友香子の頬を離れ、地面に落ちた。


「お父さん! お父さん!」


 何度も呼びかけた。が、再び武井が口を開くことはない。安らかな悔いのない顔だった。


「あああああああああ!」友香子は狂ったように叫ぶ。


 なんで! なんで、お父さんが死ななきゃならないの!


 お父さんは、私とたくさんお喋りをしたがってた。それなのに……、私は最後の大切な時間を、大切な時間を……、無駄にしてしまった。


 私は馬鹿よ。大馬鹿よ!


 被害者の調査なんて、誰がやってもいい調査に明け暮れて……、私が、お父さんの最後の時間を無駄にした……。四十年待って、やっと得た、大切な時間……。


 お祝い会の時の父親の幸せそうな顔を思い出した。


 お父さんは、私と英女を連れて帰ることを、心から楽しみにしていた。一緒に、お母さんのお墓参りをするつもりだった。お父さんの手料理をいっぱい食べるつもりだった。


 なのに……、なのに……。


 友香子は、武井を強く抱きしめた。


 彼女の慟哭は、村中に響き渡った。




 一方、剛士。


 ジープから出て来た三人の男たちは、みやげ屋で売っているような安物の白い面をつけていた。頬や額に赤い点が描かれ、ひょうきんな表情が、彼らの不気味さを際立たせていた。


 三人は鶴翼に広がり、剛士に近づくと、今まで戦っていた兵士たちは、恐れるように道を空けた。両脇の二人は68式拳銃を持ち、真ん中の一人は大きなアーミーナイフを持っている。


 今までとは違う危険な雰囲気を感じ取り、剛士は冷や汗を流しながら、ジリジリと後退した。


 突然、右の男が発砲した。剛士が身を反って避けた所に、左の男が発砲する。剛士が身体をひねって避けた時、すでに真ん中の男は距離を詰めていた。剛士の腹にナイフを突き立てる。


 剛士が苦痛に顔を歪め、ナイフが深く入らないよう、両手でそれを抑えようとした時、ナイフの男は剛士の頭に廻し蹴りをした。


 骨の折れたような音。剛士は十メートルは飛ばされ、そのまま、うつ伏せで倒れた。


 銃を持った男二人は剛士へ近づいた。


 彼らは剛士を見下ろし、頭に狙いを定めた。

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