第61話 忍び寄る影

 京都市南区。


 鴨川沿いに、巨大なサイコロの形をした、ガラス張りの建物があった。


 オンラインゲーム『Magic of the Adventureマジック・オブ・ザ・アドヴェンチャー(MOTA)』により、一躍、世界のトップゲームメーカーに躍り上がった、株式会社アトムの研究開発棟だ。


 MOTAは、2015年、田中信一が、ほぼ一人で作り上げたゲームだ。発売から半年後には、会社は一部上場を果たす。その後、ゲームに留まらず、精力的に事業を拡大した。スマートグラス「ステータス1」の開発も、そのひとつだった。


 田中はプログラマーだった。彼は、2009年、あるIT会社を辞職すると、ナップザック一つ持ち、世界旅行に出かけた。


 その年の8月、エジプト滞在中に大規模なテロに巻き込まれてしまう。のちに「血の月曜日」と呼ばれた事件。一般人百五十六名死亡、三十六名行方不明、軍人二百六十三人死傷の大惨事だった。


 田中もまた、遺体不明のまま死亡扱いにされてしまった。


 二年後。


 田中は、ふらりとエジプト日本大使館に姿を現した。帰国後、彼が、憑りつかれたように開発したのがMOTAだった。


 彼はゲームの開発と同時に会社を立ち上げた。成功後は社長を人に譲り、現在は会長兼、研究開発所の研究部長をしている。


 まだ三十代半ば。髪には白いものが混ざり、見た目よりもだいぶ年上の印象を与える。かと言って、老けているのではない。筋肉質な身体。精悍な顔つき。誰にでもちょっとした気配りができる優しさを持っていた。そして独身。会社の株の51%を所持する億万長者である。


 当然、女子社員の人気の的だ。が、彼は仕事一筋。会社の裏側で、女子社員による熾烈な競争が繰り広げられていることに、まったく気づいていない。


 政治にも疎かった。興味があるのは、ゲームや新製品の開発。科学やテクノロジーに関する事だけ。世間では、拉致問題や首脳会談などで騒がしかったが、彼には興味がなかった。




「部長っ。お隣、いいです?」


 オシャレな社員食堂。田中が、一人でテレビを見ながらチャーシューメンを食べていると、二人の女子社員がやってきた。トレーには、本日のレディ―ス定食、かぼちゃのグラタンとさつま芋のタルトがのっていた。


 彼は、ちらりと彼女たちを見て、「もちろん」と言うと、すぐにまたテレビに顔をむけた。田中は、その日は珍しくニュースに夢中になっていた。彼女たちは、いつもはもっと構ってくれるのに、と思った。


「何やってるんです?」


 ひとりが聞くと、田中の代わりに、小柄な方の女子社員が答えた。


「首脳会談の特番だよ。今日は朝からどのチャンネルもずっとこれ」

「ふうん。面白い?」


 ふたりが話していると、田中は突然立ち上がった。椅子がガガガと鳴り、箸が落ちてカランカランと音をたてた。田中は口を開けてテレビに近づいた。


 周りの社員や食堂のおばちゃんたちは、何だろう、と彼に視線を向けた。


 テレビでは、琴之葉すずが会場に入って来た場面。その入口、扉の脇には黒服のボディーガードが、並々ならぬ威厳を漂わせて立っていた。


「カ、カザルスさん?……」


 田中は潤んだ目で声を漏らした。




「日本に帰ったら何食いたい」


 助手席の武井は友香子に聞いた。車は、10号棟村へ向かう道を走っていた。何でも言ってみろ、俺が何でも食わせてやる、武井の顔はそう語っていた。


 友香子は慣れない高級車の運転しながら「そうね……」と考えた。


 子供の頃に食べた料理がつぎつぎに頭に浮かぶ。そのほとんどが母親の作ってくれた手料理だった。一番食べたかったものは、もう永遠に口にすることはできない。


「おいしいお米と、お父さんの手料理がいいな」


 そう言うと、武井は嬉しそうに目を細め、「そうか! いっぱい作ってやる。いっぱい作ってやる」そう言って、今度は、後部座席に顔を向けた。


「ヨンニョ、お前は何食いたい」

「じゃあ……、わたしも、おじいちゃんのごはん」

「よおし! 俺が腕によりをかけて、いっぱい作ってやるからな。楽しみにしてろ」


 英女ヨンニョが「うん!」と元気に答えると、武井は目尻を下げて「ワハハハハ」と大笑いした。




 三時には村に着いた。


 村は山に囲まれるようにある小さな盆地。山道から切通のような箇所を抜けた所は道幅が広くなっており、その脇に車が何台か停められていた。そこから村の広場に歩いて行くと、すでに十数人の日本人が集まっていた。


 今では自由に連絡を取り合うことも、移動することもできる。他の村の拉致被害者が集まっていた。


 みんな故郷を想っていたが、帰国は諦めていたのだ。それが今後、自由に行き来できる。ずっと日本に住むこともできるし、友人に会いに、また戻ってくることもできる。誰もが希望に満ちた顔をしていた。


 急なお祝い会だったが、色紙などで綺麗に飾り付けされていた。天気が良いので屋外でやるらしい。村の中心の広場には、椅子やテーブルが出され、食べ物がたくさん並べられていた。


「おーい」


 広場でテーブルの準備をしていた田村は、友香子や英女たちが歩いてくるのを見ると楽しそうに手を振った。彼女たちも笑って手を振る。


「あれ、すずちゃんは?」


 半分酔っぱらった初老の敏行が、すずを探すように首を動かした。英女は「もう、しっかりしてよ。会談は今日終わったばかりじゃない。帰って来るのは明日」と答えた。


 敏行が「なんだ」とつまらなそうな顔をすると、英女は、「わたしが来たでしょ!」と彼の頬を両手でつねった。敏行は、「いたたたた」と愉快そうに痛がった。


 すずのことは、他にもたくさんの日本人が噂をしていた。首脳会談を成功に導いたヒロインなのだ。もちろん翔一のことは誰も知らない。友香子や英女、剛士たちだけの秘密だ。


「飛行機じゃないんだね」と田村。

「ええ、列車みたい。景色でも楽しみながら、ゆっくり出来るといいわね」と友香子。

「俺も乗りてえなあ」

「これから、いくらでも乗れるでしょ」

「いや、政府の専用列車だよ。一度でいいから、豪華な列車の旅してみてえよ」


 友香子は「そうね。ふふふ」と笑った。


 武井は広場を歩きまわり、一人一人に「友香子が世話になりました」と挨拶していた。


「ごちそうがたくさんね。お酒もあるし」英女が不思議そうに言った。

「ああ、昨日、麓の警備隊の人がいっぱい差し入れしてくれたんだ」田村は答えた。

「ふーん。なんで?」

「よく分からんけど、お祝いだからじゃないか。まあ、とにかく、この差し入れがあったから、皆で集まろうって事になった。ほらほら、友香子さんもグラスを取って」


 田村は、皆で乾杯しようと、大きな声を上げ、注目を集めた。




 一方、エラリーやマリオたち。


 車から降り、村の広場へ向かう道すがら、マリオはエラリーに「どうした?」と聞いた。


 エラリーは両手で二の腕を抱え、冷や汗をかいていた。いつもの陽気さがない。彼女は助けを求めるような目をしてマリオを見た。そして、彼の耳に口を寄せた。


「いる……」

「え、いるって、何が?」


 マリオは聞く。剛士はどうしたのかと二人を見た。


「あれよ」

「あれ?」

「あれって何だ?」剛士も聞いた。


 エラリーは唾を呑み込んで言った。


「エトセトラ……」


 その瞬間マリオの顔がこわばった。


「あと……、エクエス……」


 マリオは泣きそうな顔になりオロオロしはじめた。


「ど、どうしよう。カザルスさま、いないじゃないか……」

「なんだ? 魔人ってやつか? どこにいるんだ?」


 剛士は手の骨をポキポキと鳴らした。


「近く……。この山の下。エクエスがひとり、エトセトラが六、七、八、九、十、十一、十二……」

「何してるんだ?」

「分からない。動いてない……」

「はやくカザルスさまを呼ばないと!」

「ここに来るとは限らねえんだろ」

「でも、もし来たらみんな死んじゃう」

「カザルスの列車が着くの、明日の八時だよ」

「エラリー飛べるだろ。飛んで迎えに行ってよ」

「飛べるったって、そんな速くない……」



 マリオは「お願い! それでもいいから!」と手を合わせる。


 エラリーはしばらく考えていたが、「そうね」と言うと、マリオと剛士をじっと見て指を立てた。


「いい? もし襲ってきたら、すぐに逃げるんだよ。絶対に戦おうとしちゃだめ。とくに、剛士。あんた自分を過信しないで。聞いた話だけど、カザルス、昔、一人のエクエスに手も足も出ずに殺されかけたんだから……」


 剛士は喉をゴクリとならした。


 エラリーは「いい? 分かった?」と何度も念を押すと、草むらを抜けて林の方にテケテケと駆けて行った。梢の間から、小さな影が西の空に向って飛んで行く。


 それを見送ると、マリオは剛士に言った。


「早くここから逃げよう!」

「ばーか。ここが狙われてるとは限らねえだろ。山奥の秘密の村だぜ。ここで身を潜めてる方が安全じゃねえか」

「でも……」

「それにだ。今から全員がバラバラに逃げたとして、その時、もし誰かが襲われたら、いったい誰が助けるんだよ」

「お、おれが助ける!」マリオは背負った木剣の柄を握った。


 剛士は「お前、逃げるんじゃなかったのか」と呆れ顔で言った。


「いいか、魔人だか無人だか知らねえが、わざわざ俺たちを探し出して襲う理由なんてないだろ?」

「う、うん……」

「ここで静かにカザルスさんを待つ。それが最善だ」

「もしだよ……、ここを襲ってきたら?」


 不安そうに剛士を見上げる。剛士はマリオの肩に手を置いて言った。


「俺にまかせろ」

「タケシ……」


 マリオの目つきが変わる。彼は胸を張って言った。


「よし! 分かった! 安心しろ! お前が危ない時は、おれが助けてやる!」


 剛士は笑って、「頼むぜ、兄弟」と拳をマリオに突き出した。マリオはその拳を不思議そうに眺めて「何だ、これ?」と聞いた。


 剛士は「こうだ」と言って、マリオの手を取って握らせると、自分の拳にコツンとぶつけた。マリオは「お、おう」と言って、今度は自分から拳をぶつけた。




 笑い声で溢れていた。田村は裸になって踊り出す。腹には、福笑いのような顔が墨で描かれていた。始まる前から準備していたらしい。誰かが日本の叙情歌をうたい出すと、それはたちまち大合唱となった。


 夕方、再び麓の警備隊から差し入れがあった。運んできた女性兵士は、「他の村へも配給するので」と言い、ここに居る人の名前を聞いてはリストをチェックする。すずの居場所も聞かれたが、誰も疑うことなく、列車で帰って来ると伝えた。



 宴会の最中、剛士は英女に魔人の話をした。


「魔人? ランプの魔人のこと?」

「違えよ。恐ろしい怪物っぽいヤツだ」


 英女は疑うような目つきで剛士を見た。


「へたに移動しないで、この村に隠れているのがいいと思ったんだが」

「そうね……」と英女は少し考えてから言った。


「魔人だか無人だか知らないけど、せっかくのお祝いじゃない。明日、詳しく聞かせてくれる? しなくてもいいけど」


 剛士は、かなりムカついた。


 が、自分も魔人を見たことがある訳じゃないし、何だか彼女の言ったセリフを、以前、自分も言ったような気がしたので、「一応、伝えたからな」とだけ言って引き下がった。


 結局、特に何も事件は起きず、暗くなる前には、他の村から来た日本人は帰っていった。



 武井は久しぶりに、思う存分、酒を飲んだらしく、酔いつぶれて友香子の部屋で寝た。よほど楽しかったらしい。寝ながら微笑んでいる。友香子は英女の部屋で寝る事になった。


 剛士やマリオも宿舎に部屋を貸りた。


 二人は、交代で見張りを立てる事に決めた。マリオは風呂の後、二時間くらい玄関前に立っていたが、交代すると、そのままぐっすり、よだれを垂らして寝てしまった。




 深夜、剛士はひとり宿舎を出て見廻りしていた。今も黒服を身につけている。


 剛士は懐中電灯一つ持ち、村道を歩く。外灯はない。家々の明かりはすべて消えていた。舗装されていない砂利道。十月に入ると夜は肌寒かった。


(あいつ、偉そうにしてても、やっぱ子供だし、このまま朝まで見廻りしてやるか……)


 剛士は空を見上げた。


 満月だった。雲が滝のような速さで流れ、時々、月が隠れ、樹々がザワザワと音をたてる。


 剛士は耳を澄ます。すると、車が近づいてくる音が聞こえて来た。村へつながる一本の狭い道の先からだ。


(妙だな、こんな時間に。二台……、三台か……)


 魔人だとは思わなかった。エラリーの話す魔人とは、ゾンビのように暴れ狂うだけの怪物だと思っていた。


 彼は村の入り口へと走り、切通を抜けると、道路の真ん中に立った。


 細い山道。樹々の間でヘッドライトの光が動いている。車はみるみる近付いて来た。UAZ-469と呼ばれるジープ型の軍用車が二台、その後ろにZIL-13輸送トラックが一台。


 車はゆっくりと坂を上ってくる。剛士をヘッドライトで照らした。


 トラックは剛士の前で停車すると、軍服を着た兵士がゾロゾロと降りはじめた。十人以上いる。彼らは物も言わず、剛士に近づいて来た。


 剛士は、威厳ある態度で『何ガアッタ?』と尋ねた。

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