第63話 タケシ・ザ・ヒーロー

 英女ヨンニョは、宿舎の裏手を誰にも見つからないように忍び歩きしていた時、背後、広場の方角から、母親の悲痛な声があがるのを聞いた。


(お、お母さん!?……)


 彼女は顔色を変えた。このまま進むべきか迷った。が、一瞬だけだ。


 何があったのか分からないが、ただ事じゃない。あんな大声を上げたら、敵に居場所を知らせているようなもの。


 彼女は、母親の声のする方へ足を向けると、宿舎の窓から洩れる明かりをたよりに、武器になりそうなものを探そうとした。


 その時、彼女の耳元で、誰かが「ヨンニョ」と呼んだ。「ひいっ!」と声を漏らす前に、後ろから口を押さえられた。


 英女は反射で振り向くと、男の股間を蹴り上げた。男は、彼女の蹴りを左手で止め、「待てっ」と囁く。


 が、英女は止まらない。男がやや前傾した所で、ウェスタン・ラリアットを放ち、男が後ろに身を反らして避けた所に、追い打ちをかけるように、ジャンピングアッパー掌底、別名ヴィーナスを極めた。


 脳がきれいに揺れ、男は尻もちをつく。


 英女は、すかさず男の股間に、かかと落としをしようと足を揚げた時、窓明かりで照らされた男の顔に気づいた。


「チョンシン! 何でここにいるの!?」彼女は目を見開いた。

「……助けに来た……」


 彼は立ち上りながら頭をブルブル振った。



 呉泉信オチョンシンは、英女の幼馴染だ。約十歳年上の青年。


 彼女が、最近まで、密かに心惹かれていた男性だった。優秀な人間だったが、どこかしら抜けている所があり、そこが人間的な魅力を感じさせていたらしい。彼の進路を知らなかったが、秘密と言うことは工作員になったのだろう、彼女はそう思っていた。


 彼は、平壌に来てすずを引き渡すや否や、党に拘束された。休暇は取り上げられ、外出も家族への連絡も出来なくなった。が、先日のクーデターが起きると、処分は解け、休暇が与えられた。


 その後、実家に帰ったが、英女に会おうと思っていたのに、村に出かけて行っても会えない。電話もつながらない。やっと英女から電話が来たと思ったら、「警備大隊が不穏な動きをしているらしいから調べて欲しい」というお願いをされた。


 彼は、とりあえず公安部に通報し、装備を調達すると、警備隊の動きを探るため基地を見張っていた。深夜行動する車両があったので、走って追いかけて来たらしい。



「ったく、脅かさないでよ」


 英女は、彼に手を貸した。


「二年ぶりの挨拶がこれか? 相変わらずだな。まあ、君が元気だってのが分かって良かったが、ゆっくり話してる暇はない」

「そうよ! お母さんを助けなくっちゃ」

「君のお母さんは兵士に襲われたが無事だ。だが、村の老人が怪我をしたと思う……。まだ近くに警備隊の兵士が数人隠れている。迂闊に動くことはできない。分かるか?」

「馬鹿にしないで」


 英女は鋭い目つきで言った。彼は、腰のホルスターから拳銃を抜くと、それを英女に渡した。消音器サイレンサーが装着されている。


「使い方は?」

「知ってる。安全装置は……これね。行きましょ」


 ふたりは宿舎の壁沿いに進んだ。泉信チョンシンの足取りは早い。英女はついて行きながら小さな声で尋ねた。


「何が起きてるの?」

「警備隊の基地に潜入してきたが、無数の死体が転がっていた。クーデターかもしれない……」

「うそでしょ……。決行前にそんな目立った動きをするなんて聞いたことない」

「じゃあ、大規模猟奇殺人か?」


 英女は歩きながら、剛士の言っていた魔人について考えた。


 ありえない話だけど、高校生の翔一が金月成キムウォルソン主席に変身して、国の運命を変えたことも、あり得ないと言えば、ありえない。カザルスが戦闘旅団の千四百人を、ひとりで倒した話も聞いている。


 今の今まで、魔人について信じていなかった。泉信に連絡したのは、単にリスクマネジメントのため。けど、もし彼らがカザルスさんに匹敵する力を持つのなら……。


 そう考え、英女はブルっと震えた。


 まず母親を安全なところに避難させよう。そして、可能だったら、泉信と一緒に、剛士とマリオを救いに行く……。


 英女は、泉信の背中を見て言った。


「チョンシン……」

「なんだい?」彼は周囲に気を配りつつ言った。


 英女は小さな声で言った。


「来てくれて、ありがと……」


 泉信は振り返り、ニッコリ微笑んだ。


「どういたしまして、僕のお姫様」




 剛士はうつ伏せに倒れたまま、軋む首を上げた。ズキンッと頭に痛みが走った。


 仮面をつけた二人の男が、ゆっくりと近づきながら銃を構えた。剛士は起き上がろうとしたが、全身の筋肉はビキビキと悲鳴を上げ、思うように動かない。


 敵は大勢。自分は一人。あの三人は強い。たとえ一人相手だったとしても勝てる自信がない。剛士はそう感じた。


 身体は動かず、相手は銃を持っている。


(詰んだか……)


 たった今まで、ここで自分が死ぬなんてことは想像していなかった。テントの中で腹痛の時は死ぬほど苦しかったが、まだ、そのうち治まるという漠然とした希望があった。


 が、今はそんな希望はまったくない。どう考えても終わりだ。


(なんで、すぐに逃げなかった……)


 剛士は歯ぎしりした。


(すず……、すまねえ。約束は守れそうもねえ。村のみんな、たのむ、逃げて隠れててくれ……。少しでもコイツ等の足止め、出来てたらいいが……)


 男二人が剛士を見下ろし、彼の頭に銃を向けた。


(カザルスさん、こんな俺に修行をつけてくれて、ありがとうございました。だけど、無駄にして、すんません……。龍道先生……、今からそっちに行きます……)


 剛士は、あの世に行ったら、弟を救うため命を落とした龍道先生に、お礼が言える、そう思った時だった。


 銃を持つ男たちは、雑巾のように捻じれながら弾け飛び、崖壁に激突した。


「タケシは、おれが守る!!」


 立っていたのは、木剣を構えたマリオだった。




「お、お前、何やってんだ! 逃げろ!」剛士は驚いて叫んだ。

「お、おれがくい止める!」


 マリオは男たちに剣を向ける。


 飛ばされた面の男たちは、首をコキコキと鳴らすと、平然と立ち上がり、マリオに銃口を向けた。もう一人の男は、少し離れた所からマリオを観察していた。


「逃げろ! マリオ! 言うこと聞け!」

「うるせー!」


 マリオの剣先は震えている。剛士は動かなくなった自分の身体を呪った。


(くそ! 動け! 動いてくれ! 誰でもいい、力をくれ! アイツを助ける力をくれ!)


 剛士は涙を流す。


(カザルスさん、龍道先生……、龍道先生? 龍?……)


 彼は、ふと、テントの中で解体した巨龍を思い出した。巨大な山のような身体。鋼鉄よりも硬く、厚く重いウロコ。それで動くことのできる膂力。


 突然、剛士の目の前に、緑色のステータス画面が表示された。今まで、飛蚊症くらいに思って気にしていなかった画面。文字は読めないが、無数のボタンのようなものが見える。


(もしかして、これ、龍の力か?……)


 そう思うと、剛士は、脳内で必死にそれらのボタンを押しまくった。


(頼む! 俺に力をくれ! 何でもする! 何でもするから!……)


 左の男がマリオに発砲する。マリオが弾を避けると、右の男が距離を詰め、蹴りを放った。マリオは木剣でそれを防ぐと、左の男も距離を詰め、マリオの腹を撃つ。


 マリオはギリギリでそれを避ける。マリオは素早く動き、木剣で男たちの足や背中に打撃をくわえた。が、男たちは意に介さず、マリオに攻撃を続ける。


 仮面をつけた真ん中の男は、しばらくそれを観察していたが、やがて、あごをしゃくると、十人ほどの兵士たちは、剛士、マリオを置いて、村へと駆け入って行った。


「待て!」


 マリオは兵士たちを止めようとしたが、仮面の男はそれを許さない。しばらく二対一で戦うも、マリオは腹を蹴りあげられ、一瞬動きが止まった所に、上から拳骨で頭を殴られ、地面に叩きつけられた。マリオは血を流し、苦しそうに呻く。


 二人の男は、銃を足元のマリオに向けると、躊躇なく引き金をひいた。


 響きわたる二発の銃声。


 漂う硝煙。


 その下にいたのは、剛士だった。血の滲むマリオの頭を包むように抱え、片膝をついていた。腕や首すじには薄っすらとウロコのような模様が浮き出ている。


 それを見て、面の男たちは数歩後ろに跳んで首をひねった。確かに銃弾は当たった……。そう思っているようだ。


 剛士はマリオに微笑んだ。


「マリオ、助かったぜ」


 剛士は不思議そうにしているマリオに手を貸し、彼を立たせる。


「タケシ……、動けるのか」

「ああ、訳わかんねえが、治った」


 仮面の男たちは気を取り直し、剛士に銃を発砲した。が、剛士は「ふんっ!」と銃弾を手で弾き飛ばす。


 剛士は、一瞬のうちに、男たちの懐に入ると、両拳で二人の壇中だんちゅうに正拳突きを放った。グシャっと音をたて、男たちは後方に飛ばされる。


「村へ急ぐぞ! 走れるか!」

「大丈夫!」


 剛士とマリオは、面の男三人を残し、村へと走った。




 月明かりの村道、英女ヨンニョ泉信チョンシンは、友香子に合流すると、村はずれの平家に立てこもった。暗い山に入り、囲まれたら終わりだと考えたのだ。


 が、鍵をかけた玄関はすぐに破壊され、また、兵士たちは窓を割り、次々に侵入してくる。泉信がカラシニコフで狙撃し、拳銃で英女が援護した。兵士は壁を破壊し、左右から襲ってくる。中には拳銃を使うものもいる。


 防ぎきるのは無理だった。


 泉信は傷ついていく。いたる所から出血し、英女を兵士から守るため、腕やあばらの骨が折れる。


 兵士たちは一斉に英女に襲いかかる。友香子が英女を庇おうとした時だった。


 壁を破って、マリオと剛士が部屋に跳び込んで来た。現われざまに兵士を三人ぶっとばした。


「待たせたな」

「剛士! マリオ!」英女は、泣きそうな顔だった。


 マリオが傷ついた泉信や英女を守るように、彼らの前に立つ。


 剛士は鬼神のように、兵士を一撃でのしていった。あっと言う間に、動く敵がいなくなると、剛士は英女に言った。


「早く逃げろ。最悪の敵が来る」


 英女と友香子は、剛士とマリオを心配したが、自分たちは役に立てない。そう悟ると、血だらけの泉信を両脇から抱え、山に入って行った。


 剛士とマリオは、仮面をつけた兵士三人を迎え撃つため、広場に駆け戻った。


 兵士は村道を悠然と歩いて来た。家々や物陰に気を配っていたが、剛士とマリオを見つけると、無言で走って来た。銃を持つ二人の身のこなしは、先ほどのダメージがあるようには見えない。


 三人は連携して剛士とマリオに襲いかかる。


 打ちつ打たれつの攻防が続いた。


 もはや剛士に銃は効かない。ナイフでの斬撃も無効だった。それでも勝負はつかない。相手の兵士はまるで一つの生物のように連携し、また剛士の渾身の一撃すら耐えた。


 徐々に均衡が崩れていく。男が一人倒れ、マリオが倒れ、また男が倒れ、立っているのは、剛士とリーダーらしき男だけとなった。


 最後の一人の強さは桁が違った。


(こいつがエクエスって奴か……)


「絶対に逃げるんだよ……」


 剛士はエラリーの言葉を思い出す。


 体力が回復し、銃もナイフにも耐えられる身体になった。理由は分からない。きっと龍の力なんだろう、そう思っていた。突如、手に入れたヒーローのような力だったが、この面の男、魔人には、スピードも力も遠く及ばない。古武術の技を駆使して凌ぐのが精いっぱいだった。


 魔人は淡々と致死的な攻撃を放ち続ける。


 いつの間にか、東の空がほのかに明るくなりはじめていた。


 なぜか、男は、一旦、剛士から距離をとった。そして、誰かと話すように頷くと、なにやら小声で呟いた。


(なに言ってやがる……)


 剛士がそう思った時だった。いきなり、剛士の近くで倒れていた面の男たちや、村のあちこちに横たわる兵士たちが、勢いよく発火した。


 轟音をたてて燃える。パチパチと油の弾ける音、肉の焼ける臭いが漂った。


 魔人は舞うように腕を四方八方に向けると、うずまく火炎が、家々や山に飛ぶ。辺りはたちまち火の海に変わった。


「げえ! 全員、焼き殺すつもりかよ!」


 剛士は意識を失って倒れていたマリオを脇に抱えると、村の奥へと走った。


(ヨンニョ……、逃げていてくれ)


 剛士は燃え盛る山を見上げて祈った。


 男は、村を囲む山林に火を放ちながら、剛士を追いかけた。


 村はずれまで走ったが、樹々は炎に包まれていた。逃げ道はない。男は剛士に炎を放つ。剛士はマリオを地面に置くと、彼を守るため、前に出て身体を張った。


 剛士は高熱の炎につつまれた。


 炎は身体に纏わりつき、振り払おうとしても振り払えない。血液が沸騰するような熱さ。剛士は目をつぶり、息を止めた。目を開ければ眼球が破裂する。呼吸すれば肺や気管が焼けてしまう。


 消えるまで耐えようとした。


 が、炎は止まない。男を攻撃しようとするも、目が見えず、逆に男の容赦ない突きや蹴りを食らう。


 呼吸はこれ以上もたない。一息でも吸ったら死ぬ。


(くそっ……、これで終わりか……)


 剛士の流す涙はたちまち蒸発した。


(マリオ……、俺のせいだ……。お前が逃げようと言った時に、みんなで逃げてりゃ……、すまねえ……、本当に、すまねえ……)


 剛士はガクリと膝をつく。


 そして、そのまま動かなくなった。




「タケシ! おい! タケシ、起きろ!」


 マリオの声がする。他にも、エラリーやカザルスの声が聞こえてきた。


 剛士はゆっくり目を開けた。マリオが涙でぐしゃぐしゃになった顔で、剛士を抱えていた。周囲の家や山は、くすぶって、白い煙が立ち昇らせていた。


「マ、マリオ……、無事だったのか……」

「おう! おう! タケシのお陰だ!」

「剛士君! よく頑張ったな。よくぞ、ひとりで、ここまで頑張った!」


 カザルスは膝をつき、誇らしげな目で彼を見ていた。


「危なかったね。剛士がみんなを守ったんだよ。ぶっ飛ばして来た甲斐があったってもんよ。あと少し遅かったら全員死んでたかも……」とエラリー。

「あの魔人は?……」


 剛士は、軋む首だけ動かし、辺りを見廻した。身体は、まだ言うことを聞かない。


「カザルスならイチコロに決まってるじゃない。燃えちゃったけどね」エラリーは胸を張った。

「マジかよ」


 日が昇ったのだろう。空は赤く輝いていた。焼け跡の向こうから、英女や友香子が走って来る。


(そうか……、俺たち、助かったのか……)


 剛士は自分の腕を見た。火傷はしていない。ウロコの模様は消えている。不思議に感じたが、今は考える気力はなかった。


 友香子は近づくと、心配そうな目で剛士を見つめた。赤い泣きはらした目をしている。英女は「ありがとう」と言って、剛士をギュッと抱きしめた。


 彼は顔を赤らめて「おう」とだけ言った。


(よかった……、これで終わった……)


 剛士は英女の温かさを感じながら、朱から青へと色を変える空を、しみじみと見上げた。




 一方、エラリーは、何かを探しているようだった。彼女は、カザルスの肩をつんつんとつついた。


「ねえ……、変だよ……。エトセトラたちは全員跡形もなく燃えちゃったけど……エクエスがどこにもいない……。死んだ反応もないし……」


 カザルスの眉がピクリと動いた。

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