第51話 誹議
「
矢部が聞くと、内閣情報調査室長の古谷が答えた。
「北朝鮮国内では広く事実として受け止められています」
大臣たちは口々に「何をバカな」とつぶやいた。
「アメリカから入ってきた情報も同じです。もちろん彼らはそれを信じてはいませんが」
「そうだろう。当たり前だ」と多くの大臣たちは言ったが、大門や山野などは静かに腕を組んでいた。須田は吐き捨てるように、
「どこの馬の骨とも分からん男と、一国の首相が対等に話し合えるか。馬鹿馬鹿しい」と言った。
古谷は構わずに続けた。
「また先日、金月成は
「習禁屏主席とは直接会ったのですね」
矢部が聞くと、古谷は肯定した。
「演説会の映像が出回りましたが、あれが金月成で間違いありませんか」
「建国者である金月成と同一人物であるか否かは不明ですが、中韓、北と国交を結ぶ国の八割方は、彼を国の代表として認めています」
大臣の間で、「まさか」と動揺の声が洩れた。
「北で起きたクーデターの、その後はどうです?」
「完全に収束して、今では何もなかったように平和に戻っています」
須田が矢部に耳打ちをした。
「矢部さん。やめときなさい。あんた、どうなっても知らんよ」
矢部は眉間にしわをよせて考えた。
自民党が政権を取り戻し、自分が総理に復帰して二期。今では任期の最も長い総理大臣の五人に入るが、まだ成果らしい成果は何もない。
老いた母親は、矢部に期待をかけ、歴史に名をのこす政治家になりなさいと、事あるごとに言うのだが、これまでに為したことは、政治家としてよりも、政治屋としての仕事がほとんどだった。
ヤベノミクスは、ほとんど成功していない。アメリカと官僚を味方につけ、メディアを操れば、数字はどうとでも取り繕えるが、名をのこすには実績が必要だ。
大叔父の佐藤芸作は日韓基本条約を批准し、非核三原則を唱え、沖縄返還を成し遂げ、ノーベル平和賞を受賞した。
また、自民党を結成し、国民皆保険制度、最低賃金制などを確立し、日本の高度成長をうながした矢部の祖父、岸紳助はノーベル平和賞候補になった。彼は、また、アジア外交を日本の柱として考え、太平洋戦争後のアジア各国との関係改善に奔走する一方、日米安保体制を成立させた。
田中丸栄は日中国交正常化、日中平和友好条約を進めた。任期の長い総理大臣はみな、桂次郎も伊藤博交も、吉田滋も、国民の誰もが知る業績がある。
(憲法改正は、来年の選挙にかかっている。だが、消費税を上げることで、国民の反発は大きい。何かを、やらねばならないが……)
須田がまた言った。
「総理、考えている時間はない。中国との会談は来週だ。それと同時進行で拉致問題は無理だ。やつらは、日本国民を人質にとって、とんでもない要求をしようとしてるんだ。やめときなさい」
矢部は、あなたが拉致問題担当大臣だろう、と思いながら、それは口にせず、しばらく考えていた。が、やがて意を決したように言った。
「少女の救出が最優先です。会談を行いましょう。みなさん、これから大変ですが、協力をお願いいたします」
すると、閣議室内に、ひとつふたつ拍手がおこり、あっという間に大きくなった。その中で、大門が口を開いた。
「総理、わたしも同行しましょう。安全を確保するには時間が足りませんから。臨機応変に対応できるもんが必要でしょう」
「不利な要求をされないように、事前交渉を進めておきます」と山野も言った。
矢部は「よろしくお願いします」と彼らに眼差しを向けた。
須田は苦々しい顔をした。
須田は会議が終わり部屋を出ると、幹事長に声をかけた。
平壌。百花園迎賓館。
すずたちは、寝る間を惜しんで在朝日本人の調査をしていた。現在生きている人は、すぐに明らかになったが、死亡したとされる人は、本当に死んだのか、裏を取るのが至難だった。また、彼らと血のつながりのある家族も調べていた。
「ちょっといいか」
武井が友香子に声をかけた。彼女は食堂のテーブルの上に置かれた資料に埋もれるようにして、何かをチェックしていた。友香子は赤い目をして父親を見た。
「どうしたの? お父さん」
お父さんと呼ばれ、照れくさくなった武井はポリポリと頬をかいた。
「根を詰めすぎじゃねえか。少しは休め」
「大丈夫よ。お父さん。徹夜は慣れてるから。ヨンニョもすずちゃんたちも手伝ってくれてるからね」
「だからだよ。皆でやってし、役所でも調べてくれてるんだろ。お前ひとりが無理しなくてもいいじゃねえか」
「無理じゃないの。楽しいのよ。やっと夢が実現するんですもの」
「身体を壊したら元も子もない」
「大丈夫よ。自分の体は、自分が一番分かっているから」
武井はしばらく窓の外を見ていたが、「芳江の話をしてもいいか」と言った。
友香子は、武井の肩をそっと触った。
「お父さん。日本に帰ったら、いくらでも時間があるじゃない。私たち四十年を待ったのよ。帰るまでなんて一瞬なんだから。一瞬」
彼女が笑うと、武井は「無理だけはするんじゃねえぞ」と言って、とぼとぼと歩いて行った。
「友香子さん。よかったら、お父さんとお話してきてください」
「そうよ。お母さん、休んで来たら」
すずと
父親を失ってから、事あるごとに「大丈夫だから」と言って、自分を安心させようとしてくれた母親。
先日、翔一のスマートグラスを使って、母と会話した。後輩の秀樹と保志がMOTAというゲームの中で手配してくれたのだった。
すずの無事を知り、母の声は泣いて震えていたが、お互い、何かビミョーな感じだった。その時、すずのアバターは巨乳の猫耳少女。すずの母は、黒い革のズボンをはいた半裸のゲイだったのだ。
すずは、ログアウト後、密かに、誰がお母さんのキャラを選んだのよ、と思っていた。
ちなみに、後日、アバターの設定をしたのは、保志だと明らかになった。
平壌。国務委員会庁舎。
地下鉄、建国駅前には、緑豊かな高級官僚の邸宅街があり、その奥に国務委員会の庁舎がある。
翔一は、
国務委員会の役員たちは、
高官たちは全員、先日のスタジアムのクーデターで死ぬことを覚悟したのだ。それを翔一――月成――が救った。命の恩人なのである。
その月成が民主化を進めている。既得権益が減るかもしれない。いや、確実に減るだろう。民主化とはそういうものだ。が、死んだら終わり。特権にあずかれるのも、生きていればこそなのだ。
それに、月成の目指すあたらしい朝鮮。彼らはそれを見たくなった。それでも、月成の指示に従うことに躊躇することがあった。
その第一が、日本との関係改善交渉であった。
翔一や晶勇、多くの高官がそろう会議室に、知らせがもたらされた。
「日本の首相が我が国と会談をもつことを了承しました」
翔一は心の中で喜ぶ。
が、
「恐れながら、申し上げたいのですが……」
翔一は「なんだ」と泰南を見た。
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