第43話 戦闘旅団

 友香子や英女ヨンニョ、すずたちは、百花園迎賓館に滞在していた。


 会議室の大きなテーブルの上には書類の山。


 彼女たちは、その山に隠れるようにして、日本人の消息を調べていた。過去半世紀に及ぶ資料は、一部だけでも相当な量だった。


 生きている拉致被害者は、日本人村の田村や東田が調査をしている。金月成キムウォルソンの命令があるので、滞りなく進んでいるらしい。平壌近郊の日本人は、メーデースタジアムで行われる翔一の演説会に参加させられるので、その現況が明らかだが、


 問題は、他の日本人と接触できない人や、すでに他界した人たちだった。すべてが記録されている訳ではない。事実を知る関係者がすでに死んでいることもある。改名もさせられている。


 友香子たちは、日本政府が認定した被害者だけでなく、一人の漏れもないよう、念入りに調査していた。


 前日、たくさんの役人が迎賓館に慌ただしく出入りしていたが、この日は月成の演説があるので、館はひっそりとしていた。


 すずと剛士は少しだけ朝鮮語を読めるようなったので、彼女たちの求める資料を集めたり、済んだ書類の片付けをしている。ちなみに、すずはエラリーとおでこをつけたが、翔一のように、すらすらと読み書き出来るようにはならなかった。


 マリオは玄関の外に立ち、館を守っていた。カザルスに頼まれたからだ。


 玄関の前には、西洋式の庭園が広がっていて、秋の花が控え目に咲いていた。天気は良い。小鳥たちは歌いながら飛ぶ。


 マリオが一人で仁王立ちしていると、玄関の扉が開き、武井が顔を出した。


「マリオ、昼飯だぞ」

「おう、ありがとう、ここに持って来てくれ」


 あいかわらず、マリオは自分より年上の老人に向って、ぞんざいな言葉使いだった。それでも武井は怒らずに言った。


「中に入って食え。誰も襲って来やしないぞ」

「油断大敵だ。カザルスさまが戻るまで、オレがみんなを守る」


 武井は「そうか」と言うと、いったん館の中に戻った。しばらくすると、二人分の皿を持って出てきた。


「一緒に食うか」


 武井が寿司が盛られた皿をマリオに差し出すと、マリオは武井の顔を見た。


「あのオバさんと一緒じゃなくていいのか?」

「ん、友香子か。ああ……、何を話したらいいか分からねえ……」


 武井は、頭をポリポリと掻きながら、玄関前の階段に腰をかけた。マリオも腰かけて、皿の上の料理を不思議そうに見た。


「これは何だ?」

「寿司だ。食ってみろ」


 マリオは、たまごの寿司を口に入れる。その瞬間、彼は目を見開き「うんま!」と叫んだ。次々に寿司を口に運ぶ。むしゃむしゃとかぶりつき、口のまわりにたくさんの飯粒がついた。


 それを見て、武井は「美味いか。サビ抜きだ。足りなかったら言え。もっとあるぞ」と目じりを下げた。




 すずたちは、食堂で武井の握った寿司を食べていた。長いダイニングテーブルは、四人には大きい。剛士は女性たちの湯飲みに茶を注いだ。英女が「ありがと」と澄まして言うと、剛士は「調子にのるなよ」と答えた。


「翔くん、大丈夫かな」すずが心配そうに言った。

「あたり前でしょ。上手くいかないはずないでしょ」と英女。

「演説、上手く行くといいわね」と友香子。


 剛士は急須をテーブルの真ん中に置くと、自分の皿の寿司のネタをめくって、ひとつひとつワサビを抜きはじめた。彼は、ふと、すずに尋ねた。


「あのさあ、何で演説しなきゃいけないんだよ。ただ命令するだけでいいんじゃねえか。一番偉いんだろ。あいつ」

「あなた、本当に脳味噌ないのね」英女はじろりと剛士を見た。

「ヨンニョ! 言葉遣いに気をつけなさい。あの……、剛士さん、うちの娘が、ごめんなさい」


 友香子が剛士にすまなそうに言うと、彼は怒りを抑えた。


「では、お母さま、少々物事を教えて差し上げて宜しいかしら? この脳なしに」

「ヨンニョ!」


 英女はぺろりと舌をだした。拳をプルプルと震わせる剛士を、すずが抑えようとした。英女が剛士に「教えてください、は?」と言うと、剛士は「コイツ!」と腕まくりして彼女に向って行った。


 英女は「きゃー!!」と嬉しそうに走って逃げ回る。


 友香子は、楽しそうに走りまわる英女を見て、目頭を熱くさせた。すずがやって来てから娘は変わった。少し前までは、いつも冷めた目で世の中を見ていたが、今では目を輝かせ、毎日、活き活きしているようだ。それが何よりも嬉しかった。


(そして……)


 彼女は父の握った寿司を見た。二度と会えないと思っていた父親に再会した。かっぱ巻きを一口食べると、子供の頃の思い出が蘇った。若い時の父と母の姿が、まぶたの裏に現れる。一番幸せたった時。二度と戻らない時。


 涙を零す友香子を見て、英女と剛士は足を止めた。




 桂養沢ケヤンテクの短く刈りあげた髪は、大半が白くなっており、顔には大きな古傷が数多く刻まれていた。


 彼は、金正月キム・ジョンウォル総書記と、その義弟、張敬沢チャン・ギョンテク朝鮮労働党部長に忠誠を誓い、身も心も捧げていた清廉な愛国者であった。生活は優遇され、家族も生活に困窮することはなかった。


 彼は長年、護衛司令部に勤め、現在は独立戦闘旅団の団長をしている。それは三個大隊、千五百人からなる機動打撃旅団であり、クーデターなどの鎮圧をその任としていた。


 が、正月ジョンウォルが死に、晶勇ジョンウンが国務委員長になると、彼の忠誠心が大いに揺らいだ。


 晶勇は、対立する人間の粛清をはじめ、張敬沢も処刑されることになった。養沢の敬愛していた人物で、彼の「沢」の字は、敬沢に貰ったものであった。


 しかも、晶勇は、金月成キムウォルソン主席が、「国民を絶対に飢えさせてはならない」と言っていたにも関わらず、国家予算を大幅に核開発にまわし、食糧難の状況を放置している。


(このままでは国が亡ぶ……)


 そう思った養沢は密かに計画を進めた。金政権を打倒する同志を探し、仲間を集めた。それは気の遠くなる程、慎重さと時間が必要な作業だった。


 密告者はどこにでもいる。誰がスパイか分からない。が、彼は、その針の穴に糸を通すように難しい仕事を少しずつ進め、今では独立戦闘旅団の全員が反体制派という、誰もが不可能だと思う状況を作り上げていた。


 ちなみに、北部方面警備隊大隊長、桂慶大ケギョンデは彼の親類だ。


(後は、実行に移す時と場である)


 2017年、アメリカのボンペイオCIA長官(現国務長官)が、晶勇の暗殺を企てた時、養沢は動かなかった。むしろそれを妨害した。晶勇を殺すことが目的ではない。国民が公平に飢えることなく生きていける国、それを作るのが目的なのだ。


 そんな折、金月成が復活し、演説会を行うという知らせが入った。彼は耳を疑った。


 晶勇は、今度は何を画策しているのか。人が生き返るものか。いくらこの国にキリスト教信徒が多いとはいえ、心から復活を信じる者は多くないはずだ。国民を愚弄するにも程がある。


 今が天の時だ。この茶番を終わらせ、人々の目を覚まし、立ち上がらせるのだ。


 スタジアムに閉じ込め、首脳幹部を一網打尽にする。綾羅島ルンナドなら、橋を封鎖すれば逃げることはできない。地の利はある。人民武力部の総参謀本部、総政治局にも同志はいる。人も十分だ。


(今こそ、民主的な新しい国を作る時)


 護衛司令部の団長室。


 養沢は集まった士官たちと固く握手を交わした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る