第44話 賢者の贈り物

 北朝鮮には、馬東煕マドンヒ偵察大学、崔賢チェヒョン軍官学校、総参謀部第十五所、軍指揮自動化大学、金正月キムジョンウォル政治軍事大学、海軍、陸軍所属の大学など、多くの軍事教育機関がある。


 そこでのエリート養成訓練はすさまじいものだった。


 入学するまでにも数多くの高いハードルがあった。生まれ育ちが良く、学業成績、身体能力、すべてが人に抜きん出ていなければならない。たとえそれをクリアしても、厳しい面接試験と身体検査により、合格するのは一握りの人間だ。思想教育と一般科目の勉強に加え、死を覚悟するような過酷な訓練が、卒業するまで何年にもわたり継続される。


 重さ二十五キロの砂嚢を背負い、四十キロの山道を三時間三十分で完走しなければならない。一年生の頃は水泳では十キロを三時間以内で休むことなく泳ぐ、二年からは食事の時以外、五十キロ泳ぎきるまで海中にいなければならない。出来ないものは落第だ。


 経済的理由のため、百二十万人の兵士の大半は、ろくに銃を撃つことはない。一人あたり十年間に二百発以下だ。


 が、エリートは違う。毎日数十発、在学期間中だけで数万発の射撃訓練を行い、また世界各国の武器を扱えるように訓練する。


 もちろん格闘技訓練も行う。テコンドーだ。股関節の可動域を広げるために、二十五キロのリュックを背負い、股割りをする。こぶしを作るために、素手でブロックを叩く。骨にひびが入るが、治療することなく叩き続ける。するとその状態で骨が固まっていき、強靭な拳が作られていく。もちろん大人が泣くほどの激痛だ。休むことは許されない。それは毎日続けられる。格闘・戦闘訓練は実戦形式のため怪我が絶えない。死人が出ることすらある。


 また、氷点下の水の中に二十分浸かり、氷点下二十度の山中を二十五キロの砂嚢を背負ってマラソンもする。潜水し浮上することなく海中を何十キロも泳ぐ訓練もする。


 そうして、一人一人が一個小隊とも渡り合える戦闘力を身につけていくのだ。




 演説会場は熱気に包まれていた。


 綾羅島ルンナド、メーデースタジアムに入場できたのは、官僚、軍人、およびその関係者、友好国の大使や上流階級の人間だった。突然の開催なので、中国や韓国などから訪れた外国人はあまりいない。席は満席になり、巨大なフィールドには、数万を数える軍人が整然と並んでいた。


 銃を所持しているのは、護衛司令部と、労働党中央委員会護衛部第六処の要員だけ。彼らの一部だけが拳銃だけでなく自動小銃も所持していた。


 護衛司令部は、月成の眠る、錦繍山クムスサン太陽宮殿――現在は立入禁止――や、晶勇ジョンウンや夫人、労働党中央庁舎、国際親善展覧館、万寿台議事堂、党政治局員などの警備を行っていた。その日は、各所には必要最低限の人数を割り振り、多くはスタジアムに集結している。



 翔一は、控え室から貴賓席へと繋がる通路を歩いていた。


 翔一の前を女性が歩き、彼の少し後ろの左右をカザルスとエラリー(黒服を着た翔一の姿)が固めた。

 廊下の脇に所々に立つ人間が、翔一が通ると頭を下げる。


 客席への入り口が徐々に近づいてくる。


 翔一は恐れをなした。覚悟は決まっていたはずだった。が、いざ国じゅう、いや世界中の人を前に演説ともなると、心臓は激しく動悸し、呼吸が浅くなった。


 失敗したらどうしよう……。オレ一人の責任になる。失敗するなら、やらない方がいいのかもしれない……。


 そう思い、やっぱり戻ろうと、回れ右をしたが、右にいたエラリーが、そのまま、翔一をもう半分くるっと回転させた。すると、彼は何事もなかったように、また前を向いて歩き続けていた。


「往生際が悪いわよ」エラリーが耳打ちした。


 翔一は情けない顔をしてエラリーを見た。自分の顔が眼の前にあるのは妙な気分だった。


 あと入口まで数歩の所。もうスタジアムの熱気を感じ、歓声が聞こえる。まばゆい光が差し込んでいる。彼は、回れ左をしようとしたが、今度は回る前にカザルスが翔一の肩に手をやり、回ることすらできなかった。カザルスは声を落として言った。


「翔一君。君ならできる。昨日の練習を思いだせ。失敗してもいい。これ以上悪くはならん。わしもいる。エラリーもいる。一人じゃない。一度決めたら前を向いて振り返るな。後ろを見るのは、反省する時と、死ぬ時だけでいい」


 翔一は、カザルスが力強く頷くのを見て、覚悟を決めた。




 二日前。労働党庁舎、貴賓室。


「演説って何をしたらいいんです?」


 翔一はカザルスの提案が理解できなかった。


「決まってる。この国と君の国が仲良く出来るように、みんなを導くのだ」

「あのう、国務委員長に命令するだけじゃ駄目ですか? そのう、拉致被害者を返還して、日本と国交を正常化しなさい、って」

「君もわしも、ずっとこの国にいる訳にはいかんだろ。君がいなくなった後は、彼らはその努力を続けるだろうか。それとも、すぐに止めるだろうか」

「分かりません」

「だろ。君が、ここに居る内に、国民が一丸となるように、みんなを纏め上げろ。そして平和への道へ歩ませるのだ」

「演説はカザルスさんの方が適役じゃぁ……」

「ここは君たちの世界だ。君たちでやらなきゃいかん。安心しろ。わしも出来る限り力を貸す。いいか。やるか、やらないかだ。出来るか、出来ないかじゃない。どうする、翔一君。君はどうしたい」


 翔一は沈思したが、彼が顔を上げた時、その目が変わっていた。


 次の日には、演説の練習をはじめた。午前と午後、入れ代わり立ち代わり、たくさんの人が翔一(金月成)に会いに来たので、なかなか、まとまった休憩時間は取れなかった。


 それでも休憩中、翔一は執務室でひとりになると、入手したSIMカードを使ってインターネットに接続し、『ステータス1(ワン)』を使ってMOTAにアクセスをした。


 彼は電話することは避けた。秀樹から、すべての通話が盗聴されていると聞いていたからだ。MOTAであれば、高度な暗号システムを使っているので安全だと思った。セキュリティには最新のAIが使われているらしく、それは世界一安全なゲームサイトとも呼ばれていた。


 友人のログイン情報はスマホに届けられるので、翔一は、すぐに秀樹たちと会うことができた。



 いつものアオブシル王国の薄暗い酒場。


 翔一は、学者姿の秀樹と、遊び人姿の保志に、自分の無事と、すずと再会したことを報告した。


 彼らは飛び跳ねて喜んだ。次に、演説の話を持ち出すと、ふたりは「マジか……」と口を開けて驚いた。


 秀樹は、「ちょっと待て」と言って、すぐさま古今東西の名演説の原稿を集めてくれた。データファイルとして、翔一に渡した。


「がんばれ! 応援してるからな。上手くやらなくていい。スピーチなんて噛んだっていいんだ。情熱を語れ!」


 秀樹はそう言った。翔一は、「サンキュー」と言って、彼と拳をぶつけ合った。一方、保志がくれたのは、一本の映画ファイルだった。


「オレ、この映画好きなんだ。はじめは親父が観てたんだけどね。オレがハマっちゃったんだ。ははは」


 保志はそう言って笑った。タイトルには『独裁者』と書いてあった。翔一は、「何だ、これ」と思った。


 翔一は、二人に「がんばれよ! ミスランディア」と見送られてMOTAからログアウトすると、今度は執務室に付属していた休憩室、そこに張られた魔法のテントに入った。


 彼は白い空間の中で、秀樹の資料をもとに、ひと言ひと言、じっくり考えて原稿を書いていった。原稿さえ出来ればひと安心だ。スマートメガネは、人に気づかれることなく、原稿を読みながら演説できる。暗記しなくていい。翔一にとって、それだけが救いだった。人前に立ったら、絶対に記憶していたこと全てが飛んでしまう。彼はそう思った。


 疲れると保志から貰った映画を観て気分転換をした。


 ある独裁国家の総統にそっくり床屋のおじさんが、ひょんなことから、その独裁者と入れ替わってしまい、演説をするという内容だ。


 結構面白くて、翔一は、何度も繰り返して観てしまった。部屋を大きくし、時間の流れを変えていたので、時間はたっぷりあった。




 スタジアムは大きく揺れた。割れんばかりの歓声が上がる。スタジアムだけでない。綾羅島ルンナドから市街地にかけて百万人以上が集まっていた。赤と金で彩られた貴賓席。そこの前に演説台が設けられている。


 演説は、スタジアムの外には、音声だけ生放送されるが、映像は編集された後に放送されるしい。


 司会の朴振哲パクジチョル首相、常任委員会委員長の金泰南キムテナム金晶勇キムジョンウン国務委員長が順番に台に立ち、挨拶をした。


 翔一は冷や汗を流して、それを見ていたが、彼らが何を言っているか、まるで頭に入ってこなかった。翔一の心臓は機関車のように激しく拍動していた。



「それでは、みなさまお待たせいたしました。これより、天の奇跡により復活し、ここ平壌にご降臨された、我が国永遠の主席、偉大なる領導者、金月成キムウォルソン同志のお言葉をいただきたいと思います」


 振哲ジチョルが諂うように翔一に身体をむけた。


 何十万人もの視線が彼に集まった。翔一は席から、ぎこちなく立ち上がり、演説台に歩み寄り、その上に立つと、先ほど、これ以上ないと思われた歓声は、さらに大きくなった。イスや手すりがビリビリと震える。


 彼はスタジアムを見渡した。恐ろしいほどの圧力だ。


 振哲が片手を上げると、会場内はシンと静まりかえった。スタジアムの外の小鳥の声が聞こえそうなくらいだ。


 男も女も、老人も若者も、誰もが翔一の言葉を待っている。翔一の顔はひきつり、背中には冷たい汗が流れていた。

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