第37話 見えざる手
すずは、ここから逃げ出したい、と友香子に言ったが、友香子は、「無駄よ」と言った。
彼女は若い頃、ひとりで脱走したことがあるのだ。山を三日歩き、野宿し、何十キロか先で捕まったそうだ。
友香子は、すずに
そう言ったが、すずには何の慰めにもならなかった。なるはずもない。
「大丈夫。殺されるわけじゃないの。すぐに慣れるわ」
友香子はすずの背中をやさしく押した。彼女は彼女で、すずの命を心配しているのだ。
すずは涙をぬぐって荷物をまとめた。
(絞首台の逆みたい……)
そう思いながら、すずは最後の段を下りきった。
一階の食堂には、二人の黒服の男が立っていた。その後ろの壁には、英女がもたれ掛かっている。彼女は泣きそうな顔をして唇を噛んでいた。
すずは、英女だけチラリと見ると、彼女は私のことを真剣に考え、彼らを説得しようとしたけど、駄目だったのだ、私との別れを口惜しく、悲しんでいるのだ、そう思い、すずは少し慰められた。
が、英女が泣きそうだった理由は、渾身の力で考えた問題を、翔一に解かれてしまったことだった。
彼女の出した問題は「ブラックホールに飲み込まれた情報は完全に消失するか否か根拠を示して説明せよ」というものだった。
英女は、これならどうだとばかりに、優越感にひたった。
高度な数学、そして最新の天文学、量子科学の知見が必要な問題だ。しかも世界最高レベルの物理科学者の間でも意見の割れる未解決問題だった。
彼女は、翔一が途方に暮れる顔をして、許しを請うことを期待した。
が、彼女は知らなかった。翔一の父が日本を代表する量子科学者であり、彼は数学オリンピックで優勝を狙えるほどの頭脳をもっていたことに。
翔一は少し考えたあと、ゆっくりと、それに答えた。
英女が心から悔しいと思ったのは、翔一がそれに答えられたからではなかった。
翔一がエントロピーや特異点などの専門用語を使いこなし、彼の、超ひも理論を利用した流れるような説明を、英女は心から美しいと感じ、そして、そう感じたにも関わらず、全てを理解することが出来なかったことが、彼女のプライドを著しく傷つけたのだった。
英女は、食堂のすみで、じっと床を見てぶつぶつ呟いていた。
すずは、男たちの顔を見る気にはなれなかった。彼女は男たちが、自分にゆっくり近づいて来て、目の前に立ったのを感じた。
これで終わりだ。友香子さんと英女には、ちゃんとお別れを言わないと、そうすずは思って、視線を上げた時だった。
すずの呼吸が完全に止まった。
目を見開いて、男たちを見ると、彼らは泣いていた。激しく滂沱していた。それは、すずの知っている顔だった。よく知っている顔。なつかしい大好きな顔。
彼女は目を疑った。これは夢ではないか。幻覚ではないかと目をこすった。ほほを叩いた。が、その顔はそこにあった。
三谷剛士と日向翔一だ。
彼らは、顔をくしゃくしゃにして、すずを見ていた。
「ほ、ほんもの?……」
すずの声は、ほとんど声にならなかった。
「迎えに来たぜ……」
「先輩……」
「剛士くん? 翔くん?」
「おお!」
「はい!」
翔一と剛士は元気よく応えた。
すずの目からは大粒の涙がぽろぽろと落ちた。すずは、「わあぁぁぁぁぁぁぁぁん!」と叫び、彼らの首に飛びついた。
翔一と剛士は、ふたりで彼女を強く抱きしめた。すずは何度も彼らの名前を呼び、二人は「うんうん」と返事をした。
(わたしを助けに来てくれた。こんなに遠く、危険な場所にまで来てくれた……)
安心。喜び。感激という言葉では言い表せない感情だった。拉致され、知らない外国に連れてこられ、一時、心休まる時もあった。必ず助けが来ると希望を持っていた。
が、それ以上に、計り知れない不安と心細さがあったのだ。
すずは、すべてを忘れて泣きに泣いた。
しばらくして、翔一がポケットから出したのは、すずのハンカチだった。彼は、それでやさしく彼女の涙を拭いた。すずは泣きながら微笑んだ。
友香子と英女は、何が起きているのか分からず、その光景をぽかんと見ていた。
東京、赤坂。料亭「赤城」
障子に閉ざされた和室には、二人の人物がいた。部屋には初秋らしい美しい生け花が飾られている。
今の季節なら障子を開けて、小さな手入れの行き届いた、そして控えめにライトアップされた、しっとりとした庭園を眺めながら食事をするのも悪くなかっただろう。
しかし二人は料理が運ばれると、店の者に部屋を密室にさせてから、話をはじめた。
一人は
彼はたたき上げの公安刑事だった。日本を守るため、国民を守るため三十年を務めた。さまざまな海外の犯罪組織、各国の諜報員と関わってきた。深夜の東京で複数の北朝鮮の工作員と戦ったこともある。そんな彼が危機感を持っていたのは、そのようなスパイ活動ではなかった。日本の公務員の職場環境だった。
いったん警察庁に就職すると、徹底的に新人教育が行われる。はじめは「天皇制なんか廃止すべきだ」などと言っていた新入職員も、ものの一か月で、そのような事は絶対に口にしなくなる。「公務員はみな天皇の忠実なしもべである」という教育が施されるのだ。
教育中は、食事は五分で済ますように強要された。食べるのではなく飲むのである。張り込みの時は、トイレすら行けず、その場で垂れ流す。
過酷な環境で働き続けると、みな四、五十代になると身体を壊し、病気になる者が続出した。捜査中に殉職すれば、多額の
命の危険はないが、公立学校の教師も過酷な残業に苦しんでいた。授業の準備、試験の採点などだけでなく、学校のイベント、部活動などにより、毎日遅くまで拘束され、休日がない月すらあった。それでも給特法があるため残業代はでない。教職調整で給与月額の4パーセントが支払われる場合もあるが、4パーセント程度は、あってないような金額だった。
大門はそんな環境を改善しようと、定年前に公安を退職し、政治家への道を進みはじめた。職業柄、公安、警察などに人脈が広く、また多くの公務員のあつい支持を受けていた。
もう一人は、外務大臣の山野三郎。二人とも、公務員制度改革を目標にする盟友であり、また先日の内閣改造前までは、二人とも内閣府特命担当大臣(拉致問題担当)でもあった。
山野は、昔、大門に世話になったことがあり、彼には頭が上がらない。
ちなみに内閣改造後は、拉致問題は官房長官、須田秀吉の担当になっている。そんな矢先の女子高生拉致事件である。
大門は料理には手をつけず、人なつっこい目をして、ひとまわり年下の山野を見た。
「返還交渉の進捗はどうだ」
「本来なら外務省の仕事だと大声で言いたい所ですが……」
「須田か……」
「どうも、本気で交渉をする気があるのか、それとも何か深い考えがあるのか、よく分かりませんね」
「どう考えたってないだろ」
「大門さん、誰が聞いているか分かりませんよ」
「妨害するのか?」
「そこまではしませんが……、進展させる気はなさそうですね。被害者を返還しろと、自分たちの主張を一方的に言うだけで、相手の意見を聞こうとしませんから」
「あっち側はどうだい?」
「公式には、相変わらず完全否定してますが、ある筋によると、向こうは向こうで一枚岩じゃないみたいで、今回の拉致は党の指示ではなく、アクシデントのようなものらしいです」
「よくそんな情報が手に入ったな」
大門が感心すると、山野は、情報通の公安委員長に勝ったと、心の中で得意になった。
「なんとか今回の事態を収めたいと思いつつ、何らかのしがらみで実行に移すことができないって所でしょうか」
「条件次第でいけるんじゃないか」
「その提案をことごとく潰している人物がね……」
「あいつか……」
大門と山野は、ため息をついた。
「拉致問題を政治利用できるイベントだと思ってやがるのか」
「自民党はそれで選挙を勝ったようなものだから、私たちも文句は言えませんがね」
「国民ひとりを救ってやれずに、何が日本の政治だ。まず被害者を第一に考えろってんだ」
「そうですね。それになんだか、あの人、また懲りずに、拉致問題対策費でコンサートを開こうとしてます」
「しかし、このままじゃ国際的にもマズイだろ。敵を作る戦略は、国内をまとめるには手っ取り早いが、リスクがでかい。あいつら、アメリカの威を借りてさえいれば、いつまでも平和だと信じてるのか?」
「被害者と家族だけの問題じゃ済まなくなりますね。韓国との問題もかなりこじれて来ましたからね」
「竹島への自衛隊機接近の件か」
「お互いがお互いを攻撃的に非難し合ってますから」
「見苦しい政治だな。子供のケンカかよって言いたいぜ。海保の体験談や、空自の撮影ビデオをリークさせたのも、裏でハゲネズミが手を引いているんだろ」
「ひと月もしない内に、政府は韓国との交渉打ち切りを決定するでしょう。国家間の溝は深まるばかりですね」
「お前、何とかしろよ」
「外務大臣だって、内閣の実務を行うお飾りですよ。政府や米軍の方針には逆らえやしません。裏にパイプラインを作って、いつでも交渉を再開できるようにするのがせいぜいですかね。まったく、いったい誰が日本を動かしているのか……、よくよく思えば、官房長官かと思いきや、そうでもないし、総理でもない。大臣になっても、さっぱり分かりませんね」
「閣僚会議でいくら反対意見が出ても、いつの間にか、どこで誰がたてたかも知れない計画にそって方針が決まっちまう。で、国会で強行採決だ」
「和を以て貴しとなす、じゃないですかね」
「なにが和だよ。くそっ、それにしても、あいつら危機感を持っているのか?」
大門はイライラしたようにタバコを取り出すと、一本を口にくわえたが、やはり思い直したのか、それを乱暴にポケットにしまった。山野が「あいつらって誰です」と、上目づかいに大門を見ると、彼は「ふうっ」と座椅子にもたれかかった。
「俺たち日本の政治家だよ」
山野は、しばらく考えごとしていたが、思い切ったのか、少し身を乗り出して大門にささやいた。
「大門さん、あなたなら首をすげかえて、新しい風を入れることも出来るんじゃないですか?」
大門は、ムスッとした表情で「俺は仲間を裏切らないよ」とだけ答えた。山野は、大門の反応を見て、言ったことを後悔し、そして、それを忘れるように、わざと明るい顔を作って、話題を変えようとした。
「そう言えば、京都山中の隕石落下の件はどうなりました?」
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