第36話 プリンセス・スフィンクス

 朝鮮労働党庁舎。大会議場。



「元気だったか……」


 金月成キムウォルソンに変身しているエラリーは、檀上に立ち、その下に並ぶ人々に、順々に声をかけていった。翔一に言われたセリフを繰り返すだけだ。背広を着た人、軍服の人、身内らしい人、エラリーには、誰が誰だか、まったく分からなかったが、声をかけると、次々に人が入れ替わっていく。


 みな自分を見て感激して泣いているようだ。なんでだろう、とエラリーは思ったが、彼女はそんなことよりも、さっそく、この状況に飽きてしまい、昼寝でもしたいと、欠伸あくびをかみ殺した。


 そんなエラリーの気持ちを察し、カザルスが「首領はお休みになられる」と言うや否や、会場中が騒然となった。


「部屋を用意しろー!」

「急げ! 急ぐんだ!」

「ベッドを温めるんだ!」

「エアコンと加湿器の準備をしろ!」


 官僚たちは、「スイーツだ」「いや、お酒を用意するんだ」と、みな思い思いに走り出し、あちこちで衝突事故が起きた。エラリーとカザルスは、それを見て、ふたりで肩をすくめた。




 話は少し戻る。


 国務委員長と国家主席の邂逅が終わると、翔一は、先日、日本から拉致された少女の場所を聞いた。


 金晶勇キムジョンウンは、月成の顔色をうかがい、彼がうなずくと、速やかに側近たちに指示を出した。翔一に正確な所在地を伝え、「今すぐ連行して来ようか」と提案した。


 翔一が「わたしが直接会いに行きます」と車だけ頼むと、晶勇の側近の一人は担当の役人を呼び寄せ、翔一の指示に従うように命令した。


 剛士は黙って翔一について行った。彼もまた、一刻も早く、すずの安否を確認したい、と同時に、翔一にだけ手柄を奪われたくない、と思っていた。


 そんな二人を見て、晶勇は疑いの目をむけたが、今は、それよりも復活した祖父、月成と話し合うべきことがらが山積みだった。翔一たちの行動は部下に詳しく報告させることにし、また、錦繍山クムスサン太陽宮殿を調べるように密かに指示を出した。


 壇上からは、カザルスがその光景を見ていた。一方、翔一と剛士は、晶勇が彼らを不審に思ったことに気づかず、すずに会えたら、あとは逃げるだけだ、ただ、そう思っていた。



 翔一と剛士、そして運転手と一人の役人を乗せた黒いSUV車は、労働党庁舎を出ると、凱旋門からテレビ局前を通り、北へと走った。


 この調子なら、すぐに、すず先輩に会える。翔一は車の中でそう思った。ただ、武井の娘についても大会議場で聞いたが、そこにいた人は誰も彼女については知らなかった。


 すいている道路を猛スピードで飛ばす車の中、翔一は、武井の娘さんのことは後でいい、今は一刻も早くすず先輩に会いたい、先輩の無事な姿を見たい、早く着け、早く着け、と念じ続けた。


 村へ着けば、すんなり彼女に会える。翔一は、そう思っていた……。




 日本人宿舎。玄関前。


「あ……あなたたち……日本人?……」


 英女があまりにもケンカ腰ですずに会うことを妨害するので、剛士は、うっかり日本語を口にしてしまったのだ。


「ナ、何ヲ言ッテイルノカナー」と翔一は誤魔化そうとした。

「軍で教育を受けたのなら、そんな乱暴な話し方はしないわ。それに、あなたも日本人よね。動揺するから、発音がおかしくなってるわよ」と英女はジト目で翔一を見た。


 翔一は冷や汗を流した。


 剛士先輩だけでなく、自分もボロを出していたのか、日本人だとバレたら救出作戦がおじゃんだ。彼女はどうするつもりだ? 役人に報告するのだろうか……。


 横を見ると、剛士が翔一を睨んでいる。翔一は、剛士先輩の方が悪いんじゃないか、と思った。


 翔一は、すず先輩に会い、彼女とカザルスさんの許へ行けさえすれば、船で脱出できると思った。


 彼は発音が乱れないように気をつけ、ボディーガードらしく威厳をもって言った。


「私たちは日本人ではない」

「ウソね。で、何でそんな仕事をやってるのよ」


 翔一の嘘は即否定された。翔一は焦りつつ、「仕事?」と、彼女の言葉に疑問をもった。


「政府のエロ爺のボディーガードでしょ」と英女は翔一と剛士の服装を見た。


 なるほど、と翔一は思った。


 日本人だからと言って、密入国して来たなんて、きっと誰も考えない。平壌ピョンヤンにはレストランを経営している(もと)日本人だっているのだ。


 オレ達が、すず先輩を日本に連れ去ろうと画策しているなんて、この子は夢にも思わないはずだ。なぜだか分からないけど、彼女には嘘はバレる。それなら、差しさわりのない本当のことだけを伝えて分かってもらおう。翔一はそう思った。


「彼女には、酷いことは絶対にしない。誓う。だから会わせてくれないか」


 翔一はメガネを外し、彼女に真剣な目を見せた。英女は翔一の目をジロリと見つめる。


「それは……本当のようね」

「では……」

「でもね、男はやっぱり……」

「よし、分かった! こうしよう」


 翔一が、あきらめたように言うと、英女は、この男は何を言う気だろうと、興味深そうな目をした。


「男だって、金玉でなく頭で考えていることを証明しよう。それでどうだ? 何でもいいから問題を出せ。どんな難しい問題でも答えてみせよう」


 翔一は偉そうに言った。


 英女は「ハハァン、なるほど」と理解した。私は、いわゆるスフィンクスだ。謎を出し、それに応えられたものだけを通す。


 小さい頃から天才だと持てはやされ、十五歳で大学を卒業した英女。同世代の友人たちの知的レベルが物足りないと、いつも不満だった。


「いい度胸じゃないの。面白いじゃない」英女の目が燃えた。


「いいわよ。じゃあ、三問、出すわよ。まずは第一問。金月成キムウォルソン首領の誕生日は?」

「……」


 翔一は言葉に詰まった。目が泳ぎ、身体が固まった。


 まるっきり覚えていない。と言うか資料で読んだ記憶すらなかった。「ステータス1」を、かけていれば検索して調べられるが、今さっき、それを外したばかりだ。ここでメガネをかけるのは不自然だと思い、翔一は苦し紛れに言った。


「き、今日は、知識問題はお休みだ」

「はあ? お休みってなによ」と英女は、あきれた顔をした。

「お休みって言ったら、お休みだ」

「あなた、ひょっとして……」

「い、いいから、その問題はなしだ。思考問題にしろ」と翔一は言った。


 英女は、最初の問題は答えられて当然のサービス問題のつもりだった。誕生日は4月15日、「太陽節」と呼ばれる国民の祝日だ。各地で祝賀行事が行われ、特別な食料の配給もある。知らないものはいない。


 英女は、なぜ答えないのかいぶかしく思ったが、ここで、このゲームを終わらせるのは、つまらない。そう思って「しかたないわね」と算数の問題を出した。


「じゃあ、自然数、50から500まで全部足した合計は?」と聞いた。

「124,025」


 翔一が間を置かず答えたので、英女の目つきが変わった。


 彼女は「少しはやるわね」と思い、今度こそ、筋肉バカの男には解けない問題を考えようと、腕を組んで悩んだ。


「じゃあ次の問題よ、1、1、2、3、5、8のフィボナッチ数列で、1項から50項までの数をすべて足した合計は?」


 英女は、これなら解けないだろうと、数学の問題を出した。


 が、翔一は、「32,951,280,098」と、これもまた一瞬で解答した。彼女の顔に驚愕の色が現われた。


 翔一は落ち着いて、「違うのか?」と言ったが、内心は、「ひゅーっ、よ、よかったー、算数の問題で助かった」とほっとしていた。


 英女は、翔一が答えられるとは思わず、答えを計算していなかったので、いそいで暗算をはじめる。


「おい……」

「うるさい!」


 英女は思った。「50から500までの自然数の和」は、時間をかければ小学生でも解ける問題だ。大学生なら暗算も簡単だ。


 が、フィボナッチ数列は「3項以降は直前の2項の和」という、文字であらわすと単純な数列だが、その一般項には無理数が含まれる3項間漸化式だ。それを目の前の男が一瞬で解いたことが信じられなかった。


 英女は眉間にしわをよせて、しばらく考え抜いたあと、しぶしぶ「正解よ」と歯噛みして言った。


「じゃあ、いいか。通るぞ」と翔一は宿舎に入ろうとする。剛士は、ポカンとした顔で翔一を見ていたが、はっとして翔一を追いかけ、英女はあわてて扉の前に立ちふさがった。


「ま、待ちなさい! まだ一問残ってるでしょ」


 英女は、なんとか、こいつをぎゃふんと言わせたい。自分より速く計算されては、私の負けだ、英女はそう思った。


「早くしろ。それを解いたら入るからな」


 翔一は、すずに会いたくて、うずうずしていた。一方、英女は焦っていた。彼が絶対に解けそうにない問題を考えようと、腕を組んで思案した。


(単純な計算問題はだめ……、論理問題も解かれてしまうかもしれない……)


 英女は、翔一が知識問題に弱そうな可能性を思い出したが、単純な知識問題を出すのは、彼女のプライドが許さなかった。


 英女は、しばらく悩み、そして自信を持って、翔一に最後の問題を出した。


 翔一は威厳を取り繕っていたが、内心、次の問題は解けるだろうか、彼女が役人に自分たちが日本人だと暴露しないだろうかと、手に汗をかいてドキドキしていた。

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