第35話 ヨンニョの慧眼

 10号棟村。日本人宿舎。


「すずちゃん、差し入れだよー」


 すずと英女ヨンニョが食堂で勉強をしていると、二人の初老の男が、すずと英女に小さな紙包みを持って来た。


「きゃー、お菓子だ! 敏行さん、田村さん、ありがとう!」

「ありがとう!」


 すずと英女は大喜びした。菓子は貴重品だ。村から出て平壌に行かないと買えない。しかも日本人は市内を自由に歩けないので、好きなものを買うのが大変だった。


「いやあ、喜んでもらうとオジサンたち嬉しいなぁ」

「どう? 勉強、頑張ってるかい?」

「はい! 頑張ってます!」

「この子は優秀です」


 年下の英女が、まるで本当の先生のように澄まして言うと、みんなは可笑しそうに笑った。


 すずは語学に達者だった。読書だけでなく、韓流ドラマも好きだったので、もともと耳が出来ていたのだ。すずは、英女のマンツーマン指導で、朝鮮語をみるみる覚えていった。少し雑談すると、敏行と田村は「じゃ、見つからないうちに帰るから。またね」と宿舎を出て行った。

 



 すずと英女は、美味しくケーキを食べた。そして、しばらくした時だった。友香子が玄関につながる食堂のドアから、深刻な顔をして入って来た。


「すずちゃん……」

「あ、友香子さん。どうしたんですか?」すずはケーキの余韻で幸せそうな顔をしていた。

「迎えが来たの……」


 友香子は悲しそうに言った。


「迎え?」

「ええ……、まさか、こんなに早くに来るなんて……」


 英女は「まさか」と手で口を覆った。そして友香子につめよった。


「もしかして……すずちゃん……めかけに……」

「いくら理由を聞いても教えてくれないから、きっと……。すずちゃん……、村を出る支度をしてちょうだい」


 すずは放心した。友香子が何を言っているのか理解できなかった。


 友香子や英女、他の日本の住人と、不便ながらも楽しく暮らしていたはずだった。いつか必ず、日本から助けが来る、それまで楽しい生活が続く、そう信じていた。それが今日突然終わるなんて夢にも思っていなかったのだ。


 英女が友香子の身体を激しくゆすった。


「だめよ! 何でよ! まだ来たばっかなのに! お母さん! 迎えの人に待つように言って!」

「今、外で待ってるわ」

「違うわよ! そうじゃない! もっと長い時間よ! 日本から助けが来るまで、すずちゃんには何年も、何十年でも待っていて欲しいの!


 友香子は悲しそうに、かむりを振った。


「ヨンニョ、子供じゃないんだから、聞きわけよくしてちょうだい」

「もういい! わたしが直接言ってくる!」


 英女はそう言うと、玄関の方に走って行った。すずはオロオロと友香子を見た。


「ゆ、友香子さん……」

「すずちゃん……、私だってイヤだけど、諦めてちょうだい。これが、この国の現実なの……」

「だって、だって、どうして、こんなに早く、まだまだ先だって、友香子さんんも言ってたじゃない。もっともっと、みんなと一緒にいたいのに……」

「それは私もよ、でもね……」

「私が可愛すぎるからいけないの?」

「いいえ、違うわ……」


 すずが泣きそうな顔で友香子の顔を見あげると、友香子は言葉をつづけた。


「世の中にはね、ただ若ければいいっていう男性もいっぱいいるの……」


 それを聞き、すずは「わあぁっ」と両手で顔をおおいって泣き崩れ、友香子は、そんなすずをギュウッと悲痛な面持ちで抱きしめた。




 日本人宿舎の目の前には、黒い高級SUVが止まっていた。


 運転手が車の中に一人、車の前に黒服の男が二人。村の管理官と背広を着た役人らしい男は、少し離れた場所で何やら書類を確認していた。


 英女は玄関から飛び出すと、車の前の黒服の男たちにドカドカと近づいて行った。


 英女は、彼らは政府要人の警護担当だろう、政府のエロじじいが、すずに目を付けたに違いない、そう判断した。


 彼女は彼らの前に立つと、遠慮なく強気で言いはなった。


「ちょっと! あなたたち!」


 英女は若くして大学を卒業した秀才だ。将来を有望視され、党から篤く保護されてきた。母から自由な世界を教えてもらった影響もあり、わがままに振舞うこともあったが、党は、ある程度それを黙認していた。


「君は?」メガネをかけた黒服が英女を見下ろした。

「誰だっていいでしょ! このロリコン変態野郎! すずちゃんは絶対に渡さないわよ!」


 口を開かない方の男が怒って英女に掴みかかろうとしたが、黒服メガネが彼を制した。メガネは英女に丁寧に聞いた。


「どうして彼女を渡してくれないのかな?」


 英女は、こいつは私のことを知っているみたいね、もし私に何かしたら党から処罰されるわよ、と思いながら、高圧的に話をつづけた。


「はっ! 決まってるでしょ! 結婚には早いからよ!」

「へ!? 結婚!?」


 メガネの声が上ずった。


「け、結婚とは何デスか?」

「何ですかとは、何ですかっ!」


 英女は、まるでプロレスラー、アントキモ猪木のように言い放った。


「私たちは彼女を迎えに来ただけだ。結婚は断じて、させない」

「うそね。あなた、断じての後で、ちょっと間をあけたわね。あなた他の人には結婚させたくないけど、自分は彼女と結婚したいとか、思ってんじゃないの」


 それを聞いた無口の男は、メガネを睨んで彼に近寄ろうとした。メガネの目が「何を言ってイルノカナー」と泳ぐ。


「図星のようね。だいたい男ってのは、あたまじゃなくて、いつも金玉きんたまで考えてるのよ。いいこと、あなたのボスに伝えなさい。すずちゃんは一歩たりとも、ここから出さないってね」


 英女が、人さし指でメガネの胸板をこづくや否や、


『てっめえ!! ざっけんなよ……』


 無口が日本語で怒鳴り、メガネが慌てて、その男の口を押さえた。メガネは周りを見たが、離れた場所にいた役人たちは気づかず、車の運転手は何やら音楽を聴いて聞こえなかったようだ。


 英女は目をむき、そして、おそるおそる口を開いた。


「あ……あなたたち……日本人?……」

「ナ、何ヲ言ッテイルノカナー」


 メガネ――日向翔一――は目をキョロキョロと泳がせた。

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