第34話 涙そうそう
朝鮮労働党庁舎前。
翔一たちは進退きわまっていた。
作戦は「こっそり潜入」だった。それなのに庁舎に入る前から、大勢の北朝鮮市民の注目を浴びていたのだ。
翔一は、何かおかしいことをしただろうか、黒服がいけなかったのだろうかと思案するも、その理由は「さっぱり不明」だった。
「どうする?」カザルスが翔一に聞いた。
「退路はないぞ」と剛士。
庁舎前の道路は人で埋まっている。そしてさらに悪いことに、続々と人が集まって来ている。彼らは翔一たちに近づこうとはせず、遠くから見ていた。
翔一たちは、それを不気味に感じつつ、この場で突っ立っていても仕方がないと考えると、慎重に敷地に足を踏み入れた。
門には警備員がいた。翔一たちは彼らの前を不審に思われないように、威厳をもって自然に見えるように歩いた。警備員たちは口を開いたまま固まっている。
翔一は、素通りさせてくれるのはありがたいと思ったが、普段、検査などしないのだろうか、身分を確認しないのだろうか、と奇妙に思った。
庁舎の窓からは、たくさんの人が窓に貼りつくようにして翔一たちを見ていた。玄関から石造りの庁舎に足を踏み入れると、中は騒然としていた。どよめく職員や警備員たち。あちこちの廊下や階段、部屋のドアから人が集まってきては、足をとめ、立ちつくし、翔一たちを信じられないような目をして見た。
翔一たちは、ホールを奥へと進んだ。後ろからは大勢の役人たちが、距離をあけてついて来る。
「どうしましょう」翔一は、前を向いたままカザルスに囁いた。
「予定が狂ったな」とカザルス。
「一番偉いヤツを探すんだろ」と剛士。
翔一は、計画はそうだけど、こんな状況じゃ、こっそり高官を拉致して口を割らせるなんて絶対に不可能だと思った。
どうするべきか考えながら歩いていると、奥の階段から、背広を着たよぼよぼの老人が、慌てて転げ落ちそうになりながら降りて来た。周りの役人たちは彼の身体を支えたり、道を開けたりする。
老人は階段を降りきると、よたよたと翔一たちのもとへと近づいて来た。
剛士が、腹話術のように口を動かさずに「翔一」と囁くと、翔一は「まかせてください」と目で合図を送り、老人の前に立って言った。
「国務委員長に会いたいのだが」
老人は、当然分かっているとでもいうように、ウンウンとうなずき、翔一の横を通り過ぎて、エラリーの前に立った。そして老人はエラリーを見つめ、ワナワナと震えた。
それを見てエラリーは、どうしようかと迷っていたが、「はっ」と何かを思い出したように、口を開いた。
「元気だったか……」
その瞬間だった。
老人は膝をつき、「はい……はい……」と声にならない声で答えた。そして激しく身体をくずし、泣き叫んだ。声が庁舎じゅうに響きわたる。
彼の感情は周囲に伝染し、庁舎内、いたる所からすすり泣く声があがった。
翔一たちは大会議場に通された。巨大なホールだ。翔一は、以前行ったことのある京都の音楽ホールの十倍は大きいんじゃないかと思った。
老人は、きびきびと役人たちに指示を出し、そしてエラリーを最上位の席に招いた。そこでやっと翔一は理解した。エラリーが変身した老人は、
彼の大きな肖像画が、背後の壁の上に、
エラリーは目の前にひろがる数千を数える席をみて、「わー、いっぱーい」と目を輝かせて驚いていた。
翔一は心の中で、これじゃあ「こっそり作戦」が台無しだ。、エラリーは何ていう人に変装したんだよ、とムカッときていた。
昨晩、エラリーは北朝鮮の偉そうな人の姿を調べるとか言っていたけど、酷い、酷すぎる。だけど、今となっては後の祭り、というか、月成を知らなかった自分も悪いんだと、翔一は大いに反省した。
「まずくねえか?」
剛士がささやくと、翔一はひきつった笑顔を彼に向けた。
エラリー以外には席が与えられず、黒服三人はエラリーの椅子のまわりに立った。エラリーは上等な椅子に座れてご機嫌になり、足をブラブラさせていた。
たくさんの役人――千人か二千人、もっといるかもしれない――が会議室に入って来てはいたが、誰も座らない。みな、自分の席らしい場所で直立していた。
しばらくすると、大きなドアが物々しく開き、何人もの護衛をつれた人物が、あわただしく会議場に入って来た。
翔一は、その人物の顔に見覚えがあった。あまりニュースを見ない翔一だが、彼の名前と顔は知っていた。
晶勇は、初め、いぶかしげな顔をしていたが、エラリーを見ると目を見開いた。そして、
彼がエラリーのテーブルの前に立った時、翔一は、何が起きても対処できるように警戒した。カザルスは、いかにもボディーガードのように悠然と立っている。
エラリーは立ち上がり、
翔一は、衆目を集めているので、エラリーを止められない。彼は、たのむから勝手なことをしないでくれ、と祈った。
エラリーは晶勇の肩に手をのせて、太くあたたかい声で言った。
「今までよく頑張ったな……」
すると晶勇の目からは、涙があふれてきた。エラリーは続けて言う。
「もう大丈夫だ……」
その瞬間、晶勇は堰を切ったように泣き出した。
「うおぉぉぉぉぉ! おじいさまぁぁぁぁぁぁ!」
まるで少年のようだった。彼は
会議場全体が震える。役人たちは号泣し、嗚咽していた。
エラリーはウンウンと優しい笑顔でうなずいていたが、ふと翔一の方を振り返り、「なんで彼、泣いてるの?」という表情をした。
はじめ、労働党庁舎に
内乱につながる恐れがある。そう感じたのだ。
自分の弟を暗殺したのもそれが理由だ。CIAが彼を祭り上げて、クーデターを画策していたからだ。国の安定と未来のためなら、たとえ肉親でも処分しなければならない。
現在の最高権力者は金晶勇だ。彼が自らの権威を守るために作り上げた「
むしろ死んでいるからこそ、そう言えるのだった。
晶勇には実績はほとんどない。カリスマ性もない。それでも最高指導者をしているのは、すべて月成の作り上げた、『首領制』があるからだ。現われた月成が偽者か、これが悪い冗談であるかどうかは分からない。が、芽は早めに潰しておかねばならない。
晶勇は、そう思って庁舎にやって来た。
が、庁舎に着く前から、なにか雰囲気がおかしい。大勢の市民が庁舎を取り囲んでいた。拝んでいる人、道路に跪いて頭を下げている人もいた。庁舎に入ると、多くの職員が泣いていた。うれし泣きだ。まるで救いの神が舞い降りたかのようだった。
「将軍が戻られた……将軍様が戻られた……くうっう……」
と言って、また嗚咽した。晶勇の心にも、ひょっとして、という気持ちが生まれた。そして、正体を確かめてやろうと思い、会議場に入ったのだった。
壇上の中心の席には自分が小さい頃、頭をなでてくれた祖父、その人がいた。本物だろうか。偽物だろうか。その疑問は一言で霧散してしまった。
「今までよく頑張ったな……」
潰れかけた国を引継ぎ七年。国家の目的のために、多くの血を流してきた。祖父を尊敬し、そのやり方を真似しようと努力して来た。それを認めてもらえたのだ。理性は吹っ飛び、感情が爆発した。彼の目からは、とめどなく涙が流れてきた。
「もう大丈夫だ……」
(もう一人じゃない。一人じゃないんだ……)
月成の言葉を聞き、晶勇は子供のように泣きじゃくった。
晶勇の涙が落ち着いた頃、翔一はおそるおそる口を開いた。
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