第32話 ピョンヤン上陸作戦

 北朝鮮には大きく分けて五つのタイプの人間がいた。


 1.祖国のため、人民や家族のために、積極的に金体制に協力する人間。

 2.祖国のため、人民や家族のために、金体制を打倒し、新たな政府、または指導者を立てようとする人間。

 3.積極的に金体制に協力するが、それはあくまで自分の利益のため。金や権力が目的の人間。

 4.金や権力、自分の利益のために、金体制に反発する人間。

 5.そのどれでもない人間。あるいは日々の生活に精一杯の人間。


 北朝鮮は、このバランスが保たれていた。国が豊かであり、生活が安定し将来に希望があれば、独裁体制であっても問題はおこらない。


 問題は貧しくなった時だ。


 反体制派がふえると、体制側は投獄や処刑をすることで、彼らを減らす。また、現体制に従順なものであれば、たとえ賄賂や汚職をしても、ある程度を見のがす。


 若年齢からの思想教育は必須だ。


 そのようにして体制のバランスは維持されていた。




 警備隊大隊長、桂慶大ケギョンデ大尉は、典型的な「3」のタイプだった。


 軍隊の食糧事情は非常に厳しいものだった。兵士への米の配給量は、かつて一日あたり八百グラムあったものが、今では半分以下。農村に強盗に行く兵士もいる。飢えて死ぬ兵士すらいた。


 彼はそれを承知で食料の横流しをしていた。



 彼の部下である林英宣リムヨンソン補佐官は、慶大ギョンデの命令を聞いた時、耳を疑った。上官が、10号棟村に新しく入った日本人少女を、山奥の小屋に連れて行くようにと言ったのだ。


(また、いかがわしいことをするのだろう)


 英宣ヨンソンはそう確信したが、いつもどおり表情を変える事はない。


 彼は、慶大が隊で行ってきた不正を間近で見てきた。実はそれを、逐一、党に報告している。普通であれば銃殺刑になるものだ。が、処分がないということは、慶大は見のがされている。賄賂を贈っているのか、陰ながら金体制の維持に一役買っているのかは、英宣の知る所ではなかった。


 一方、慶大は英宣が自分の不正を密告しているとは知らず、彼が忠実な部下であると思っていた。


「いいな」

「分かりました」


 英宣は、そう言って隊長室を退出した。薄暗い廊下を思案して歩く。


(どうするか……素直に命令に従うか……)


 命令に従ったら、遅かれ早かれ、その行為は党の知ることになる。どのみち自分が密告しなければ、自分が処分の対象になる。


(首謀者の慶大は処罰されるだろうか……)


 それはないだろう、と英宣はかむりを振った。命令に従わず、密告だけすれば、計画段階なので慶大は罪に問われない。ただ密告していたのが明らかになり、彼からの恨みだけ買うことになる。


 英宣の娘はまだ幼ない。訓練中の事故死や濡れ衣を着せられての処刑などはお断りだ。英宣は小さなため息をついた。


 英宣は兵舎を出た。


 砂ぼこりの匂いが漂っている。彼は青い空を見上げた。白い浮雲がふわりふわりと東に流れている。


 英宣は雲を見ながら、今度は大きな、ため息をついた。




 話は少し戻る。


 水曜日。


 翔一たちは緊張して西海ソヘ閘門に向かったが、船は発見されることもなく、あっけないほど簡単に通過することが出来た。船の往来が少ない時間だったのだ。


 翔一たちは、もし船がすき間なく閘門内に詰め込まれる事態になったら、他の北朝鮮の船を一隻透明化して、「第六天満丸」を、その船に偽装させようと計画していたが、その必要はなかった。


 無事、ダムの上に行くと、翔一たちは大同テトン江をさかのぼった。


 蛇のようにうねる幅数キロにおよぶ大河。細い箇所でも五百メートルはあるだろう。


 船は順調に進み、数時間で平壌に着いた。


 翔一は、船の上から平壌を眺めた。静かな都市だった。道は広く、建物は広い間隔で建っている。通行人や車は多くない。ダムを過ぎてから七八十キロ、その間、橋はまったくなかったが、平壌には中心部だけで九本の橋があった。


 大同江の大きな中州を二つ通過すると、高層ビルが多く見えてくる。トラス橋をくぐり抜けた所に船着き場があり、大型の客船や水上タクシーのような小型の船が停泊していた。


「どこに停める?」武井が翔一に聞いた。


 船は透明化してあるが、近づいてよく見ると、水面がへこんでいるので、見つかった場合は騒ぎになる可能性がある。また、気づかない船がつっこんで来る恐れがあった。


 これまでも、何度が高速艇やタンカーなどとニアミスを起こしており、もし武井が操縦していなければ、追突事故が起きていたのだ。


「どうしましょうか?」と翔一はカザルスに聞いた。

「もうすぐ夕方だ。上陸は明日にして、とりあえず今日はゆっくり準備をして休養をとるのはどうだ」


 エラリーも剛士も異存はないようだったので、武井は、近くの斜張橋の下に船を停泊させた。


 西側の水面がオレンジ色に輝いていた。ふだんは橋の下は暗いのだろうが、この時間には橋の下にも日差しがさしこみ、明るい世界を作っていた。



 停泊すると、彼らは船室に集まり、輪になって座った。


 中心には煎餅が盛られている。武井やカザルスは日本茶を飲み、翔一と剛士たちはジュースを飲んだ。エラリーとマリオは、「うまい、うまい」と言いながら、煎餅をほおばった。


「話せるようになった?」エラリーが、煎餅のカスをポロポロと膝に落としつつ、翔一と剛士に尋ねた。



 昨晩、まだその時、船は海上だったが、エラリーは北朝鮮語のスキルを大自然の叡智アーカイブ・オブ・ザ・グレートから貰い、それを、みんなに伝達したのだ。伝達と言っても、エラリーが、おでこを一人一人のおでこに付けただけだ。


 翔一には、いまだ大自然の叡智とは何なのかよく分からないし、見たこともない。マリオも見たことはないと言った。


 エラリーが額をつけると、翔一は頭の中に何かが流れ込んでくるのを感じた。目に見えない何かが存在するのは確からしい。


 武井もやったが、彼は何も感じなかった。話せるようにもならなかった。


 一晩経つと、剛士は「カムサハム、ニダ~」とぎこちなく話せるようになっていた。一方、翔一は、ぺらぺらと完璧に会話できるようになっている。


 翔一はそれが信じられないように驚いた。


「すごいな、翔一君」

「やるわね」

「いやあ、不思議です。あれだけテントの中で勉強しても覚えられなかった単語の意味とか発音とか、すっかり頭の中に入ってます」

「さすが、おれの弟子だ」とマリオがうなずいた。

「カザルスさんたちだって、すごいですよ。日本語だけじゃなくって、朝鮮語もすぐに話せるようになるなんて」

「わっはっはっ! わし達は、いろんな国に行って、いろんな言葉を覚えているからな。慣れておるのだ。わっはっはっ!」


 剛士は、翔一の方が上手に話すのが不満そうで、腕組みをしてムスッとしていた。



「あ、そのう、それで、提案があるんですが……」


 翔一は、イラついている剛士を見ないようにして言った。


「お、なんだ!?」とカザルスは嬉しそうに答えた。

「夕食前ですけど、今からちょっと模擬訓練をしませんか?」


 翔一が提案すると、エラリーやマリオは「モギクンレン?」と首をかしげた。

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