第31話 OVER DRIVE

 金晶勇キムジョンウンは、工作部が日本人の少女を拉致して来たと聞いた時、頭に血が上った。「知るか!!!」と怒鳴り、椅子を蹴飛ばし、報告した作戦部長を叩き出した。


 いったい何をしているのか。「平壌共同宣言」を南北で行い、アメリカとも交渉を進めようとしている大事な時に、バカじゃないか。反体制派の陰謀じゃなかろうか。祖国を崩壊させたいのだろうか。国際的に非難を浴びて外交が進まなくなるに決まっている。


 晶勇は、元山ウォンサン連絡所を潰そうかと本気で考えた。


 晶勇は、怒りのあまり身体の具合が悪くなって休養を取った


。数日後、復帰した時には、頭に上った血はだいぶ下がっていたが、さらに衝撃的なことが起きていた。パク内閣は、拉致を否定し、日本を激しく非難していたのだ。


 晶勇は呆気にとられた。忖度そんたくするにもほどがある。確かに朝鮮労働党規約の冒頭には「抗日革命闘争」が記載してある。金月成キムウォルソン金正月キムジョンウォルの革命を継続することが党員の使命だ。


 が、いくら何でも、それはない。晶勇の怒りは日本に向けられたものではない。工作部だ。晶勇は泣きたくなった。今までの苦労がどうなるのか。


 よくよく落ち着いて考えると、元山連絡所は潰せない。金体制をギリギリのバランスで維持する組織のひとつだ。元山は、ただでさえ金正月の怒りにふれ、一度、解散させられた経緯がある。それを恨みに思っている工作員は少なくない。これ以上、彼らの反感を買うことはできない。


 今からでも拉致した少女を送還しようか……。しかし、父、正月ジョンウォルが解決済みと公言し、また死亡したと公表した日本人たちが住む村に移送して、彼らと接触してしまったのなら……。


 考えるだけで、晶勇の頭はミシミシと痛み出す。



「そう言えば、日本から拉致した……」


 晶勇が言い終わらないうちに、泰南テナムは机を叩いた。


「知らん! 日本は八百四十万もの同胞を強制連行して行ったのだ。同士たちが、どれだけひどい目にあったか想像するだけでも……」


 泰南は、しわくちゃの顔で涙を流しはじめた。


 晶勇の頭は痛い。泰南は泣いて震える。


(この人……早く帰ってくれないかな……)


晶勇はこめかみを押さえながら、密かに祈った。




 日本。名神高速道路。


 楠田順子は車を運転していた。隣の助手席には佐々木が座っている。順子は半眼で前を見ていた。


「なんで、わたしが運転なんですか」

「だって、僕、今日はいちおう休日だしね。徹夜続きだったから、ちょっと寝るよ。着いたら起こしてね」


 そう言うと、佐々木はシートを後ろに倒した。倒し過ぎてシートベルトがのどに引っかかったので、少しだけ元に戻し、たちまちイビキをかきはじめた。結構うるさい。順子はムカッとしてハンドルを握りしめた。


 サービスエリアに立ち寄ると、佐々木は元気になっていた。彼は何やら、いろいろ買い込んで、車に戻って来た。


「楠田ちゃん。唐揚げ食べる?」

「結構です」

「そう? おいしいのに」


 佐々木は残念そうに、助手席に座って、ひとりで食べ始め、順子は再び車を走らせた。


 順子の向かう先は三柱町だ。取材の名目で、翔一たちの様子を確かめに行こうと考えていた。同僚の藤田が、しつこく「先輩、一緒に映画の試写会に行きましょうよ」と誘って来たが、それをやっと断わり、社会部を出ようとした時だった。


 佐々木が「車、貸すから連れてってよ」とやって来たのだ。順子は「イヤです」と言ったが、「勤務時間内なんだから、僕の言うことを聞いて。ね」とせがまれ、しかたなく、佐々木と一緒にドライブをしている。


 車の中は揚げ物と缶コーヒーのにおいが充満していた。



「北朝鮮、動かないねえ」


 佐々木が順子に話しかけた。順子が機嫌悪そうに運転しているから、気まずかったのかもしれない。


「そうですね」順子はそっけなく言った。

「拉致事件、どうなるかなぁ」

「北朝鮮なんて、なくなればいいんです」


 順子が言うと、佐々木は少し嬉しそうな顔をした。


「え、どうして? なんでそう思うの」

「決まってます。すずちゃんや、今まで、多くの日本人を拉致して……」

「うん、うん」


 佐々木は喜んでいる。


「それに、国連決議を無視して核開発を進めて、何度も日本にミサイルを飛ばして……」

「だよねっ。許せないよね」

「なんでそんなに嬉しそうなんですか」順子はジト目で彼を見た。


 佐々木が「いやあ、僕はさあ、君に、そういう気持ちを記事にして欲しいんだよなぁ」と言うと、順子は佐々木を睨んだ。が、運転中だから、すぐに視線を前に戻した。


「ダメです。新聞は中立であるべきです。ジャーナリストは判事と同じくらい公平じゃなきゃいけません」


 順子の目は、まっすぐ前を見ていた。佐々木は「うーん、そうかぁ」と言い、最後の唐揚げを口に入れると、その指をなめた。しばらく唐揚げをもぐもぐして、それを飲み込んだ。


「楠田ちゃん。唐揚げで思い出したけど、ニカラグア事件って知ってる?」


 順子は「何です、それ」と、つっけんどんに聞いた。なんで唐揚げでニカラグアを思い出したのかは聞かなかった。


「ほら、1984年にニカラグアが国際司法裁判所にアメリカを訴えたじゃない」


 順子は、わたしの生まれる六年前かと計算した。


「アメリカってさあ、第三世界の国家で民主化が進もうとすると、軍事介入したり、協力者を利用してクーデターとか内戦を起こさせたりして、民主政権を潰してきたじゃない」


 順子は「そうですね」と答える。それについては知っていた。


「で、軍事独裁の傀儡かいらい政権を樹立させて、アメリカに都合のいいビジネスができるようにしたよね。特に、ラテンアメリカ諸国に対してはひどかった。メキシコ、キューバ、ハイチ、ドミニカ、グァテマラ、エルサルバドル、ニカラグア、コスタリカ、パナマ、グレナダ、コロンビア、ベネズエラ、チリなどに対して、武力介入や干渉政策を繰り返してきた。数え切れないほど多くの運動家がアメリカに暗殺された。ニカラグアはそれを国際司法裁判所に訴えた」


 順子は、佐々木がスラスラと国名をあげるのに舌をまいた。


「ニカラグアでは、アメリカが組織したテロリスト集団、コントラの活動によって一万三千人の死傷者を出した。生じた物的損害は二億五千万ドル。GDPの成長率は1984年以降マイナスに転じて、失業率は20パーセントを超えた。1987年のインフレ率は1100パーセントだ」


 佐々木は時々、順子を見た。ちゃんと聞いているか心配のようだ。が、順子は表情を変えることなく、聞き耳をたてていた。佐々木は、ほっとして先を続けた。


「国際司法裁判所はアメリカを有罪と認め、『国際テロ活動をおこなった』としてアメリカを糾弾した。だけど、アメリカは判決にしたがうことを拒否した。しょうがないから、ニカラグアは国連安全保障理事会に訴えた。それを受けて、安保理は『すべての国は国際法を遵守しなければならない』と決議を出そうとするも、アメリカは、今度は『拒否権』を使って、それをもみ消した」


「だから何です。アメリカも悪い国だって言いたいんですか。アメリカが悪いことをしたからって、北朝鮮も同じようなことをしていなんて言えません」


 順子はムスッと言った。


「ああ、ごめん、ごめん」佐々木はコーヒーを飲みながら続けた。


「えっとね、国際司法裁判では十五か国のうち十二か国の判事がアメリカのテロ活動を認めて有罪判決を下したけど、三か国はアメリカを無罪にしたんだ。さて問題です。その国はどーこだ?」


 順子は、言い方がウザイ、と思いながら、「知りません」と答えた。


「もちろんアメリカと、あとイギリスね。それから日本もそう」


 順子は疑問に感じた。


 なんで日本はアメリカを無罪にしたのか。


「言わずもがな。国際司法裁判所の判事だって公正じゃない。政治的利害関係で判決を左右する。安保理の常任理事国なら、自国に不利になる国連決議には拒否権を使う。まあ、拒否権を使うのは、ほぼアメリカだけどね。NPT(核不拡散条約)なんて不公平のかたまりだ」


「だから、なんです」

「ジャーナリズムだってかたよって、いいんじゃない」


 佐々木はサラッと言った。


 順子は一瞬、奇妙な不安を感じた。が、それを打ち消すように強く言った。


「それはそれ! これはこれです!」


 佐々木は、それを見て、ニヤニヤして言った。


「僕、北朝鮮の気持ちも、分かるんだよねー」

「いったい誰の味方なんです!」


 順子は声を荒げた。


 なんでこんなオジサンがデスクをやっているのか、彼はマスコミで何をしたいんだろうか、と順子はムカムカした。が、そんな彼女の気持ちを見透かすように、佐々木はしれっと言った。


「え、僕? 僕は、『読者』の味方さ。だからさあ、君のいつもの、つまらない記事? もっと面白くしてくれると助かるんだけどなぁ。いやあ、君の記事は、ホントに、もう、何と言うか……」


 順子は再びカチンときた。自分の記事が、冷蔵庫の取説のようだと言われたことを思い出した。


 順子はアクセルを思いっきり踏みつける。追い越し車線に入り、車をどんどん抜いていく。佐々木はびっくりして席にしがみついた。


「ちょ、ちょっと楠田ちゃん! 速い! 速いって」


 順子は佐々木を無視してスピードを上げた。佐々木の顔が恐怖でひきつる。


「楠田ちゃん! この先、オービス! オービスあるって! ちょっとぉぉぉぉ! 楠田ちゃぁぁぁぁん!」


 爽やかな秋晴れの日。高速道路に、佐々木の悲鳴がこだました。




 木曜日。


 平壌ピョンヤン。朝鮮労働党庁舎。


 翔一、剛士、カザルスとエラリーの四人は庁舎のホールにいた。エラリーが背広を着た老人、他三人は黒服のボディーガードに変装していて、彼らの周りを、百を超える北朝鮮の役人たちが取り囲んでいた。庁舎の外は大騒ぎだ。警備隊がぞくぞくと集まって来ている。役人たちの視線は翔一たちに集まっていた。


 翔一と剛士の背中には、冷たい汗が流れていた。

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