第22話 船出

 北朝鮮、平壌。


 すずが10号棟村に住み始めて二日目。


 役人は日本人同士の接触は禁じていたが、実際は、規則はゆるゆるだった。ほとんど守られていない。式典などでも軍服を着るのが規則だが、多くの日本人はそれを拒否していた。


 それでも罰則がないのは、ただ管理がずさんであるのか、あるいは日本人はたとえ規則を守らなくても、仕事さえすれば害がないと考えているのか、あるいは人質として確保しているだけで価値があると考えているのか、それは不明だった。




 すずは、朝鮮語を教わっていた。


 拉致されて、まず、しなければいけないことが語学の習得だ。社会主義の独裁国家は読み書きを重視する。思想教育に必須だからだ。世界広しといえども、識字率が100%の国は、北朝鮮の他にはウズベキスタンくらいしかない。


 教えるのは英女ヨンニョ。友香子の子だった。すずより少し年下の女の子だが、彼女は、すでに大学を卒業している秀才だ。なぜか徴兵前に、すずの教育を担当することになった。



「ねえ、すず、日本では、ちゃんとご飯たべてた? 酷いことされてなかった?」


 宿舎の質素な食堂で、勉強をした。英女は、朝鮮語を教えるのをそっちのけで、日本のことをすずに聞いた。


「ううん、そんなことないよ。とっても幸せだった」


 すずは日本のことをいろいろ話した。英女は母親からも日本の話を聞いている。だが、四十年も経てば多くのことが変化する。英女は興味津々のようで、表情をコロコロ変えながら、すずの話を聞いていた。


「日本には、男の人はいるの?」英女は尋ねる。

「いっぱい、いるよ」

「いい男?」

「いい男だよ」


 すずが答えると、英女は「ヒュゥー」と声をもらした。


「でも、日本にはチョンシンみたいにカッコよくて強い人はいないんじゃない」

「え? ヨンニョは、チョンシンが好きなの?」


 すずが聞くと、英女は顔を赤らめて、あたふたした。


「す、すずはどうなのよ。誰か好きな人いる?」

「わ、わたし!? わたしは……」


 父親の顔が浮かんだ。それから三谷剛士の顔、日向翔一の顔、クラスメイト、文芸部の後輩たち……。


「好きって、なんだろう。みんな好きだけと……」

「なによ、みんな好きって。特別好きな人ってことよ」


 すずは文化祭の時、緊張した面持ちで自分の肩をつかんだ翔一を思い出し、少し頬を染めた。


「特別って?」


 英女はもじもじして言った。


「ひとつになりたいってこと」


 すずの脳内は「ボンッ」と音をたてて爆発した。今度はすずの顔が真っ赤になった。耳まで赤い。



 すずは英女や同じ村の人々との生活を楽しんだ。寂しいことに変わりはない。日本のみんなに会いたかった。夜、ひとりで寝ていると、いろんなことを思い出した。


 特に母親のことが心配だった。ひとりで大丈夫か、泣いていないか、と思いを巡らした。でも助けが来るまで楽しく暮らそう。英女や友香子さんたちとなら、やっていける。すずはそう思いはじめていた。




 10号棟村がある区域の警備隊大隊長、桂慶大ケギョンデは好色だった。


 権力を笠に、隊に所属する女性兵士を手籠めにする。この国ではよくあることだった。女性隊員は誰も文句言えない。事実が明るみに出ると除隊後の結婚に差しさわりが出るので口外できない。北朝鮮は男尊女卑の軍事国家だった。


 そんなの耳に、10号棟村に若くかわいらしい異国の少女がやって来たと言う話が届いた。


 彼はいやらしく舌なめずりした。彼は隊員と遊ぶことに飽きていた。刺激が欲しかった。


 が、大隊長であろうと、党の指示なしに日本人を移動させることはできない。乱暴などはもってのほかだ。彼は計画を練ることにした。




 京都、三柱町。


「兄ちゃん、これでいい?」

「ああ、上出来だ。サンキュウな」


 深夜、剛士は子供部屋の窓の外から大きな袋を受け取った。


 弟の雄二と良太が、両親に見つからないように、台所からかき集めて来た非常食だ。インスタントラーメンや乾パン、切り餅、缶詰もある。グリーンピースの缶詰が入っているのを見つけた剛士は、それだけ取り出して、雄二に返した。


「いつ帰って来るの」


 良太に聞かれ、剛士は逡巡した。


 すずを助けに北朝鮮に行くのだ。命がけだ。片道、船で二日ほどだが、帰って来られない可能性がある。もしかしたら、弟たちとは二度と会えないかもしれない。両親に別れの挨拶をしたほうがいいのだろうか。そう考えた。


 だが話せば必ず止められる。何も言わないで行こう。剛士はそう決意した。


「今回は長いかもしれない……」剛士は厳しい表情で言った。

「分かってるよ」


 雄二は答えた。良太は「急がなくていいよ」と言った。


 剛士は頼もしく思った。


 家のことは心配いらない。兄貴のやりたいことを思う存分して来い。いつまでも待っている。弟たちが、そう言っているのだ。


 こいつら、ガキだと思っていたが、いつの間にか大人になったな。そう思い、剛士の目頭が熱くなった。


「もし俺に何かあったら、みんなのこと頼むぞ」


 剛士は二人に別れを告げた。


 雄二と良太は、「まかせろ、兄ちゃん」と、笑顔で剛士を送り出した。


 剛士がいなくなると、二人はニヤリと笑った。剛士が五日で帰ってくれば、賭けは雄二の勝ち。駄菓子は彼のものになる。七日なら良太のものだ。





 武井家はめずらしく、深夜まで明かりが灯っていた。武井はひと眠りすると、すぐに眼を覚まして港へ行き、燃料の補給や船の整備にいそしんだ。


 翔一は一度帰宅した。そして寝袋や飯ごう、携帯コンロ、災害用ラジオ、食べ物、調味料などを持てるだけ持って、早朝、まだ暗いうちに港へ行った。すでに多くの船が漁に出ている。ボートや小型船は残っていた。



 明け方、武井の漁船。


 延縄漁船「第六天満丸」は、五年前までは十人ほど乗り込み、盛んに漁に出ていた。


 武井の妻、芳江が他界してから、武井はすっかりやる気を失い、ひとりふたりと人が離れ、最近では、彼は時々ひとりで漁に出ているありさまだった。


 東の山の上空が明るく染まる。


 保志や秀樹は、翔一たちを見送りにやって来た。カザルスたちはすでに船に乗っている。剛士は大きな袋を抱え、埠頭を悠然と歩いてきた。


「翔一、これを持って行け」


 秀樹が翔一に手渡したのは、スマホとスマートグラス「ステータス1」だった。


「北朝鮮の通信はインターネットと完全に遮断されているから、これを持ってけ」

「スマホ?」

「こいつに地図や北朝鮮のデータ、辞書、朝鮮語会話集とかいろいろ詰め込んでおいた。役に立つと思う」

「秀樹……。ありがとう」


 翔一は秀樹と握手をした。


 秀樹は「通話はできないから」と念を押した。


 国際電話をかけるには、北朝鮮内で専用のSIMカードを手に入れなければならない。そして盗聴を覚悟する必要があるらしい。


 翔一は電話が使えないならと、自分のスマホを秀樹に渡した。「父さんや母さんから電話があったら、よろしく頼む」と言うと、秀樹は「分かった」と答えた。


 保志は翔一に木の箱を渡した。


「翔一、オレからはこれだ」

「この箱は……」

「救急箱だ。生水、気をつけるんだぞ。腹壊したら、『征露せいろ丸』と『征朝せいちょう薬』を飲め」

「おばあちゃんか!」


 翔一は笑って保志と拳をぶつけあった。剛士が船に乗り込む。


「おーい、ショウイチ、おいて行くぞ」とマリオが言う。

「今行く」と、翔一は船に乗った。


「翔一! 必ず帰ってこいよ!」

「先輩を連れて帰ってこいよ!」


 秀樹と保志は大声で叫んだ。


 翔一は「分かった! 必ずだ」と二人に手を振った。


「よーし、出航するぞ!」武井が船を出す。船上には、翔一と剛士、武井。そしてカザルスとエラリー、マリオの六人。


 港はどんどんと遠ざかって行く。


 秀樹と保志は埠頭に佇み、豆粒のようになるまで手を振っていた。漁港の外には、釣り船「若狭丸」が出ていた。増田と彼の奥さんが手をつないで、翔一に手を振っている。翔一は力いっぱいそれに応えた。


 翔一の心には、未知の国に行くことに対して大きな不安はなかった。カザルスがいる。ゲームの登場人物とは違うだろうが、透明化や変身などの力、彼の強さを見て、カザルスと一緒なら、きっと大丈夫だ。そういう安心感があった。


 むしろ不安要因は剛士だ。


 剛士は、翔一の視線を感じると「何だよ」と言って凄んだ。



 温かい太陽が昇った。船は山の陰の中から抜け出た。キラキラ光る海の上。港に戻る漁船が数多く見えた。大漁旗が掲げられている。翔一の心は明るくなった。


 大丈夫。きっと、すず先輩をこの船で連れて帰れる。翔一はそう信じた。



 だが船の行く先、西の空には暗い雲がうずまいていたことに、翔一は気づいていなかった。

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