第18話 生きています!

 翔一は後悔した。


 漁業組合には休日にもかかわらず、老いた組合長がひとり働いていた。翔一が、北朝鮮へ行く船を貸してほしいと彼に頼むと、組合長は「この忙しい時に、ふざけた話で仕事の邪魔をするんじゃない」と翔一を叱った。


 翔一が「ふさけていません。本気です」と弁明したのは失敗だった。今度は「お前さんはそれでも高校生か。常識ってもんを勉強しろ」と、さんざん馬鹿にされた。


 翔一は暗い気持ちで組合を出た。


 人気のない荷捌き所で少し休んだが、もう昼過ぎだ。明日の朝までに船を用意しないといけない。


 翔一は港にいる漁師に声をかけた。船の整備をしている人、釣りをしている人、犬の散歩している人、全員に船を出してほしいと頼んだ。でも駄目だった。誰も本気にしない。しても断られる。翔一が真剣になればなるほど、「あっちに行け」とうるさがられた。


 翔一は昼も食べずに、船を持っている人を探しだそうと、漁港の周りの家を一軒一軒、訪ねまわった。が、夕方になっても、借りられる船は一隻も見つからない。


 翔一は、秀樹からの「船は用意できたか」というメールに、何度も「まだだ」と返事した。




「おーい、翔一」


 細い路地の向こうから、増田がやって来た。翔一は、船の件を聞かれたので、まだ見つかってないと答えた。増田は、ずっと気にしていたらしく、「武井のじいさんなら、もしかして」と一人の漁師を翔一に教えた。翔一の胸に、彼のやさしさがしみた。


 増田は翔一を武井の家に連れて行った。


 丘の上の墓地に近い家だった。灯りのついた玄関先で、増田は翔一を紹介した。


 武井のじいさんは、小柄だが筋肉質の老人だった。太い眉が、意志の強さを感じさせた。


 彼は、苦虫をかみつぶしたような顔で、翔一と増田をジロリと見た。


「なんだ、また光男か」

「武井さん。こいつがさっき言った高校生です。どうか、お願いします。船を出してもらえませんか」


 増田は、まるで自分のことのように老人にたのんだ。それを見た翔一も、「お願いします!」と頭を下げた。


「しつこい、帰れ。何度来たって変わらん。帰れ帰れ」


 老人は二人を追い返そうとする。が、増田は簡単にはあきらめなかった。粘りに粘ったが、武田の「警察を呼ぶぞ」との脅しに、増田と翔一は、仕方なく、彼の家をあとにした。


「この町で、いや、たぶん、日本で船を出してくれるのは、あのじいさんだけだと思ったけど……」


 増田は翔一にあやまった。翔一は「とんでもない」と増田に感謝した。


 T字路で二人は別れた。


 翔一は、秀樹からメッセージが届いているのに気づいたが、船をまだ用意できていないことを話したくなかった。


 翔一は、外灯が寂しく灯る薄暗い道を、当てもなくブラブラと歩いた。


 彼の頭に、一瞬、船を盗む考えがよぎった。誰かを助けるためなら、少しくらい悪いことをしてもいいんじゃないか。そう思った。が、すぐに頭を振った。それは最後の手段だ。


 徹夜してでも探し出そう。翔一は、そう決意した。


 彼は、保志の家のそばに来ていることに気づいた。保志の家は酒屋だ。シャッターは開いている。もうすぐ閉店の時間。見上げると保志の部屋の電気がついている。


 翔一は他にすることもないので、彼を呼んでみることにした。




「バカヤロー! なんで早くオレに言わないんだよ!」


 酒屋の横で、保志は翔一をヘッドロックして、拳骨で翔一の頭をゴリゴリした。


「痛て、イタタタタ。すまん! 保志、ごめん、ゆるして。痛い、痛いったら。よせ、やめろ、顔が痛てえ」


 翔一は、頭よりも剛士に殴られた顔が痛いようだった。保志が離すと、「おおう、おおう」と顔を触るに触れずに悶えた。保志は「悪りい」と言った。


「まあ、話しは分った。オレも一緒に行く」

「え? どこに?」

「どこにって、ごんじいの所に決まってるだろ。ちょっと待て。すぐ来る」


 保志は店に入った。中から「武井さん家に配達に行ってくるから。代金はツケにしといて。帰り遅くなるから」と声が聞こえてきた。父親に話しているようだった。保志は大きなビニール袋を持って店から出て来た。




 再び武井の家。


 翔一が武井に「帰れ」と言われる前に、保志は袋から一升瓶を取り出した。ラベルには純米大吟醸「狐火」と書かれている。武井の眉が動いた。



「うまいな」


 畳の上にあぐらをかき、武井は酒を飲んだ。


 武井家の居間。昔ながらの木造平屋建てだ。真ん中にちゃぶ台がひとつ、隅にタンスや仏壇がある。部屋の隣は台所。


 保志は「どうぞ、どんどん飲んでください」と武井の湯飲みに酒をそそいだ。翔一は袋からカニ缶を出して彼にすすめた。


 杯を重ねるごとに、カニをつまむごとに、武井の顔はゆるみ、赤くなっていった。


「本当にいいのか。こんな上等な酒をもらって」

「もちろんです! 武井さん、親父が言ってました。味の分かる人に飲んでもらわないと、お酒が可哀そうだって。ささ、もっと飲んでください。ささ、どうぞ」

「お、おお……。悪いな……。親父さんによろしく伝えてくれ」


 翔一は、保志が「代金はツケ」と言っていたことを思い出した。あとで酒代を請求するつもりだろうか。


 翔一が、そう考えているうち、武井の機嫌がどんどん良くなっていった。


「ほら、お前たちも飲め」

「あ、オレたち未成年ですから」

「じゃあ、ジュースを飲め」


 武井はひょいと立ち上がると、台所から瓶のオレンジジュースを数本とコップやつまみを持って来た。武井家は、ちょっとした宴会になった。


 彼は「ワハハハハ」と陽気に笑う。翔一たちは「ハハハハ……」とつき合った。




「気持ちは分る。分かる」


 武井は翔一の肩を叩いた。けっこう痛かった。武井は涙目になっている。


「分かるが、行ったってどうしようもない。諦めろ……」

「諦めません!」


 翔一は正座して言った。


「死んでも諦めません! すず先輩はオレが助け出します! 力になってくれる人を見つけたんです。その人たちとなら、先輩を救い出せるんです。あとは船だけです。船さえあれば北朝鮮に行って、先輩を連れて帰れるんです!」


 武井は「若いな……。だが、悪くない……」と悲しそうにつぶやいた。


 その時、翔一は言った。


「武井さんだって娘さんのこと諦めてないんじゃないですか」


 武井の目が見開かれた。


「なんだと」


 居間に緊張がはしった。


「仏壇の横には、奥様とかわいい娘さんの写真がたくさん飾ってあります。娘さんの写真は中学生のころまでしかありません。でも、仏壇の中には奥様の位牌ひとつだけ。その娘さんの写真に、たくさんのお守りが添えられているのはなぜです」


 武井の眉間にしわが寄った。


 保志は、翔一のやつ、せっかくいい雰囲気だったのに、このまま気分よく酔わせて、船を借りる約束を取り付ければよかったのに、何やってんだよ、と思った。


「お前に何がわかる」

「分からないから聞いてるんです。教えてください!」


 翔一は真剣に頼んだ。


 保志は、お願いするのは船だろうと、翔一の行動が分からなかった。


 武井は、湯飲みを握って、遠くを見ていた。保志は、さりげなく酒をそそぐ。武井は静かに酒をすすった。酒のせいで口が軽くなっていたのか、もともと誰かに聞いて欲しかったのか分らない。


 武井は静かに語りはじめた。




「友香子はなぁ、友香子はまだ中学生だった……。ある日、突然いなくなった。行方不明だ。必死に探したが、見つからない……」


 翔一と保志は静かに聞いた。


「二年ほど経った1980年だったか、新聞にアベック失踪の記事が出た……。外国情報機関の関与って書かれていた。俺はなぁ、友香子も同じように拉致されたと思った……。あちこち行ったよ。警察や役所や、いろんな議員の事務所へも行った。娘のことを訴えた。外国にさらわれた娘を助けてくれってな……。だがな、二十年だ。拉致に関して、二十年間、奴らは何もしなかった。長い間、日本人が拉致されたってことを認めようともしなかった。むしろ、俺が日本と朝鮮の関係を悪化させようと企んでいるだとか、友香子は家出して、どこかで好きな男とよろしくやっているだとかいう役人もいた……。ぶん殴ってやったけどな……」


 保志の目には涙がうかんでいた。翔一は手をにぎりしめた。


「政府がはじめて拉致の可能性を認めたのは88年だ。認めたが何もしねぇ……。新聞だってほとんど報道しなかった。バカじゃねか……。2002年に日朝首脳会談があって、拉致問題が話し合われた。期待したのがバカだった……。五人生存、八人死亡、一人入国せずだって……。偽の遺骨や診断書で騙されるか! 見くびるんじゃねぇ! 北も最低だが、日本も最低だ。なんで友香子が拉致認定されないんだ……。芳江は最後まで友香子の心配をしていた……、くそっ、くそう……」


 そう言うと、武井は涙をながして身体を震わせた。




「生きています!!」


 突然、保志が叫んだ。彼は泣いている。


「友香子さんもぜったいに生きてます! 一緒に助けに行きましょう! 国がやらなけりゃ、オレたちでやるんです!」


 武井が「どうやって」と言おうとした時だった。


 玄関の呼び鈴が鳴った。

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