第12話 はるかなる平壌

 話は少し戻る。


 工作船が巡視船を振り切ると、すずは船倉に戻された。再び大きな袋に入れられることはなかった。船は北の方角、清津チョンジンへ向かっていたが、接続水域に入ると、進路を南、元山ウォンサンへと変えた。


 すずは拉致されて、まる一日、船倉で過ごした。


「お腹はすいていませんか」


 工作員がすずに日本のレトルト食品を持って来る。


 すずは男を見ようとはしない。顔をひざに伏せたまま床に座っていた。目を真っ赤に腫らしていた。空腹など感じない。心細さと後悔でいっぱいだった。


 お母さん、学校のみんなは、今どうしているんだろう。わたしがいなくなって心配しているのかな……。何であの時、この人たちの後をつけてしまったんだろう……。何もしないで家に帰ってさえいれば……。わたしのバカ、バカ……。


 すずは自分の失敗を悔やみつづけていた。




 物資調達部隊、隊長、呉泉信オチョンシンは、元山ウォンサン連絡所に着くと、上官に報告した。


 元山ウォンサン連絡所は本来、対韓国の基地である。今回はイレギュラーな任務だった。


 は外貨を獲得するという任務を達成したのだ。大きく称えられ、しばらく休暇が与えられるだろう、そう思っていた。


 金東鉄キムドンチョル大佐は、「任務ご苦労」と言った後、静かに呉に尋ねた。


「あの少女は何だね」

「はっ。日本人の少女です」


 すずは別室に閉じ込められている。


「それは分かっている。なんで連れて来たと聞いている」

「はっ。任務遂行中に尾行されたからであります。見張り役の同志が発見し、彼女を取り囲んだところ、応戦する動きを見せました」

「ふうむ……」


 金大佐は、彼女は日本のスパイだろうか、と思案した。呉もそう感じたから連れて来たのだろう。


 しかし、どう見てもそうは見えない。ふつうの学生だ。年齢は十八くらい。立派な大人だ。


 北朝鮮では、十六で身体検査を受け、十七で徴兵される。新人スパイの可能性はゼロではないが、平和ボケした日本が、少女を使って、そのようなことをするはずはない。


 とりあえず、平壌ピョンヤンに連絡して移送しよう。金大佐はそう決断した。外国人は貴重な資源だ。基本的に大切に扱う。が、自由を与えることはない。


「彼女をすぐに平壌まで護送しろ」

「えっ! わたしがですか」


 激しい戦闘の後だ。呉は、ゆっくり休暇を取る気満々だった。


「お前が連れて来たのなら、責任もって連れて行け」

「はあっ……。いつでしょうか」

「すぐに、と言わなかったかね」

「はぁぅ……」


 遠のく休暇に、呉の気力が下がった。


 呉が部屋を出ようとすると、金大佐が言った。


「待て」

「はっ……」


 呉は、これ以上なんだ、と思いながら振り返った。


「平壌に着いたら、休暇を取れ……。家族に土産でも持って行ってやれ」


 大佐の言葉に、呉の顔はパッと明るく変わった。呉の家族は平壌に住んでいる。彼はうれしそうに「はっ!」と敬礼した。




 北朝鮮に連れてこられた日本人のほとんどは、平壌ピョンヤン金正月キムジョンウォル政治軍事大学の分校がある10号棟村の日本人宿舎、あるいは龍城ヨンソン区域にある妙香山ミョヒャンサン地区、金剛山クムガンサン地区、七宝山チルボサン地区、サンメ地区の「招待所」で生活させられていた。


 すずは、平壌でひと通り調書をとられた後、10号棟村の日本人宿舎に移送された。山に囲まれた村だ。住宅と詰所以外なにもない。コンビニなんかあるはずもない。


 すずはアパートのような建物に連れて行かれ、その二階の一部屋と、生活用品があてがわれた。


 この頃には、すずは希望を持ちはじめていた。


 北朝鮮の人は酷い人だ。わたしを攫って、遠い国の山の中に監禁するなんて……。でも今のところ、わたしにそれ以上悪いことをしない。食事もちゃんとくれる。


 ここまで、護送役の呉さんと、乗り心地のあまり良くない列車に乗ったけど、しょっちゅう「寒くないですか。のどは乾いていませんか」と気を使ってくれた。


 車中では、呉さんは鼻歌を歌ってウキウキしていたっけ。きっと大丈夫だ。日本の人たちが助けてくれる。信じて待とう。


 すずは、ぐっとこぶしを握り、窓から山の向こうの雲を見つめた。




 すずの部屋に女性が訪れた。五十過ぎの優しそうな人だった。彼女は「こんにちは。わたしは友香子」と日本語で名乗った。


「あ……」


 すずの目頭が熱くなった。久しぶりの日本人だ。すずは友香子とベッドに腰かけておしゃべりした。彼女は、自分も昔、拉致されたとすずに語った。


「大変だったわね」

「友香子さんは長いんですか」

「そうね。わたしが連れてこられたのは、十三の時だったかしら」

「……日本に……、戻りたいですか」

「昔はね。今はもうあきらめてる。あれから四十年だしね」

「わたしは戻ります。いっしょに帰りましょう!」


 すずは彼女の手を取った。


「帰れるといいわね。でも無理。この国の体制がなくならない限り、わたしたちはずっとこのままよ」

「きっと大丈夫です。日本のみんなが助けてくれます!」


 友香子は悲しそうに微笑んだ。


「そうかもね。ただその前に、あなたもこの国で知らない誰かと結婚させられるのよ。このわたしのように……。だから苦しまないように、早めに希望は捨てて、ここの生活に慣れてちょうだい……」


 すずは思った。


 友香子さんは、はじめは日本に帰ろうとしていたのだ。希望を胸に暮らしていたのだ。でも好きでもない人と結婚させられて、半世紀近く経ってしまった。きっと友香子さんのお父さん、お母さんは高齢だ。日本に帰っても、生きているか分からない。もしかしたら死んでいるかもしれない。


 そう考えると、また目頭が熱くなった。それでも、すずは力強く言った。


「希望は捨てません! 日本の家族や友達に、絶対、また会います! わたし、歌をうたいます!」


 すずは突然立ち上がり、窓の外に向って歌い出した。友香子はあんぐり口をあけた。




世界はひとつ 命もひとつ

楽しく生きなきゃ もったいない


悲しい時は たくさん泣いて

楽しい時は いっぱい笑おう


希望を胸に 前に進もう

かならず毎日陽はのぼる いつかかならず雨はやむ


楽しく生きなきゃ もったいない

楽しく生きなきゃ もったいない





 すずは歌い終わると、友香子に深々とおじぎをした。友香子は立ち上がり、可哀そうな目をしてすずを見つめた。


「あなた……、音痴ね……」

「ひどっ!」


 ぷんぷんと怒るすず。友香子は「うふふふ」と楽しそうに笑った。


 すずが拉致されて六日目。10号棟村に、ものすごい音痴の女の子が来たと、噂が広まった。

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