第11話 すずの家

 翔一は、すずの自宅前にたむろしていた数人のカメラマンやレポーターに「すみません」と言いながら、すずの自宅の門を入った。


 右側に道場、左側に家屋が建っている。翔一は、この数日、登下校するたび、町を歩くたびに、いろんな記者に声をかけられ、同じ話をさせられるので正直嫌になっていた。




「翔一くん、いらっしゃい。まあ、あがって」


 玄関を開けると、すずの母親は翔一を居間へ通した。彼女は、すずの友人や後輩だけでなく、だれにでも優しい。翔一は文芸部の後輩としてすずの家を訪ねたことが、何度もあった。


 茶子は、翔一を、さわやかで礼儀正しい青年だと思い、気に入っている。


「今、お茶をいれるから」


 彼女はキッチンへ行く。身なりはきれいに整えているが、やつれているようだった。居間の片隅には、すずの父親の仏壇があり、線香の煙が立ちのぼっていた。



「ごめんなさいね。すずが留守で……」


 と茶子が言った言葉で、翔一は泣きそうになった。留守ではない。拉致されたのだ。


(一番つらいのは、おばさんのはずなのに……。なんでこんな大変な時期に、先輩の家に来てしまったんだろう……)


 翔一は後悔した。


「いえ……、こちらこそ突然すみません……」

「学校はどう?」


 彼女は、翔一の父親が出張でいないのを知っているので、「なにか困ったことがない?」といろいろ尋ねた。


 翔一は、心の中で、オレのことは大丈夫です、ほんとうにいいですから、と思いながら、茶子と雑談をつづけた。ハンカチのことを口に出す気にはなれなかった。


 しばらくして呼び鈴が鳴ると、茶子は「あら、お客様みたい。ちょっとごめんね」と席を立った。入って来たのは、議員秘書と新聞記者らしい人だった。彼らは、うやうやしく翔一にも挨拶する。拉致被害者家族会の顧問をしているらしい。


 翔一は、邪魔にならないように、「では、おばさん、おじゃましました」と家を出ようとすると、茶子は翔一に近寄った。


「翔一くん。来てくれてありがとうね。おかげで元気が出てきたわ。また来てね」


 彼女は、ニッコリ微笑んで、翔一を送り出した。




 玄関を閉めて門へ向かおうとした時だ。


「待てよ」


 三谷剛士の声がした。道場の前で腕を組んでいる。翔一は、びくっとした。


 剛士は、翔一を、強引に道場の中へと連れ込んだ。


 六十畳ほどの大きさ。木の床や壁はピカピカに磨き上げられている。


 立派な神棚の下には不動明王の掛け軸。壁には稽古用の木刀や棒、薙刀、槍や鎖鎌などが飾られていた。


 翔一は道場の中央に立たせられた。剛士は翔一を睨みつける。剛士の筋肉質の大きな身体は、今にも襲いかかって来るようだった。


「何しに来た」

「な、何しにって……」


 翔一は、いったい自分は何しにここへ来たんだろう、と思った。すずの母親は翔一の来客を喜んでくれたが、翔一は来たことを後悔していた。


「人には言えないことか」

「そんなことありません」

「じゃあ言えよ」


 剛士の怒りで爆発寸前といった感じに、翔一の言葉がにごった。


「あの、すず先輩がハンカチを貸してくれたんです……」

「で?」

「その……、返しに来ました……」


 そう言うや否や、剛士のこぶしが翔一の顔に飛んだ。翔一は激しく音をたてて床に転がった。翔一の顔が苦痛にゆがむ。


 剛士は翔一を見下ろして言った。


「おい、すずがいないのに、何ですずのハンカチを返しに来れるんだよ。え? なにか、すずはもう帰って来ないからか」


 剛士は翔一の腹を蹴った。翔一の口から「ぐふっ」と空気がもれた。


「拉致されたら、それで終わりかよ……」


 剛士の言葉に、翔一は目を伏せた。


「記者どもをここに連れてきたのが、お前だってことも知ってるぞ。すずのおばさん、毎日、ゴシップねらいのレポーターに付きまとわれて、どれだけ大変か知ってるか?」


 翔一が「でも……」と言おうとすると、剛士は翔一の胸倉をつかんで頬を何度も引っぱたいた。


 翔一には剛士に抵抗する気はまったくなかった。ただ自分の無力感を味わっていた。ふと、門の前のカメラマンの顔にも殴られた痕があったことを思い出した。


(三谷先輩は、すず先輩の家を守ろうとしているんだ……)


 翔一は、不思議と剛士へ怒りを感じることはなかった。剛士は翔一をひとしきり殴ると、手を差し出した。


「すずのハンカチを出せ」


 翔一はためらった。


 言う通りにしなかったら、力ずくで奪われるかもしれない。腕力じゃ剛士に絶対にかなわない。


 でもハンカチを渡すわけにはいかない。そう思った。ここで渡したら、剛士の言う通り、すず先輩が帰って来ないことを認めることになってしまう。


(そんなの絶対にだめだ!)


 翔一の心の中で、何かが芽生えた。翔一は立ち上がり勇気を振りしぼった。


「先輩には渡しません! これは自分で返します! さよなら!」


 翔一はそう言うや、靴をつっかけ、走って道場を出た。剛士は驚き、ぽかんと翔一の背中を見送った。




 翔一は門を出ると、海岸沿いの公園まで走った。


 遊具はない。やしろと岩と草だけの公園だ。ごつい岩には白い波がはげしく打ち寄せていた。


 翔一は水平線を見つめた。


 となりの国。海を隔てた先。果てしなく遠いように感じられた。


(人まかせじゃだめだ! オレがすず先輩を助け出す!)


 翔一は海に誓った。


 誓ったものの、翔一にはどうすれば良いのか分からない。


 翔一は、一番たよりになりそうな友人、大野秀樹を思い出した。細田保志の顔も浮かんだが、そっちはすぐに消えた。



 翔一は数学やパズルが得意だ。しかし現実的な知恵は回らないと自覚している。


 秀樹は、翔一の知っている中で一番の知恵者だった。秀樹はビジネスなどの才能があるのだ。


 翔一は、さっそく秀樹の家を訪ねることにした。




「うわっ! その顔、どうしたんだよ」


 秀樹は驚いた。翔一の顔は赤く腫れあがり、新しいあざが増えていた。翔一は、ぽりぽりと顔をかこうとしたが、触ると痛くて、手を離す。


「まあ、ちょっと。そんなことより、大事な相談がある」


 翔一は、すずを救出したい気持ちを打ち明けた。

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