第10話 拉致のあと

 喫茶店「いこい」


 となりには小学校。窓からは港がのぞめる。漁港の西南にかかる斜張橋は車がほとんど通らない。


 店内はコケシやマトリョーシカがたくさん並んでいた。喫茶店をひとりで営む白髪の女性は、カウンターの中で芋を切っていた。


 順子は窓際の席で、三人の高校生とフィッシュバーガーを食べた。


 順子は、ここまで歩きながら、翔一の父、日向学がヨンケイ新聞に連載を持っていた当時――その時、彼の自宅は大阪だったが――、家を何度も尋ねたことを説明した。


 翔一は「そういえば……」と順子のことを思い出した。親しく話しをしたことはなかったが、「よろしければ息子さんに」と、しょっちゅうケーキやどら焼きなどを貰っていたのだ。翔一は、学がしばらくスイスに行っていること、今はひとり暮らししていることを簡単に説明した。


 順子は空腹感がおさまると、話題を琴乃葉すずに戻した。保志がぺらぺらと何でも話し、秀樹は、保志を叩いたりツッコミを入れる。


 翔一はじっと聞いていたが、そのうち翔一の脳裏に「翔くん」といつも笑顔で呼びかけてくれた、すずの面影がうかぶ。


 ポロポロと涙をおとしはじめる翔一に、保志と秀樹は口をとめた。順子は一瞬おどろいたが、察したのだろう。翔一の背に手をあててハンカチを渡した。




「どうしたら、すず先輩を助けられますか……」


 少し落ちつくと、翔一は順子に尋ねた。


「まかせて。そのために私たちがいるの。すずさんが拉致されたことを日本の人、世界中の人に知らせて、みんなで力を合わせるの。わたしも頑張るから、翔一くんも協力してくれる?」


 翔一は「はい」と答えた。




 次の日。ヨンケイ新聞の第一面は北朝鮮による女子高生拉致事件だった。ほぼ同時に日本政府も事件のことを発表した。三柱町には次々にマスコミが押し寄せ、町は騒然となった。


 政府は北朝鮮を激しく非難した。拉致被害者返還の交渉準備に取りかかると発表し、また世界各国にその事件を伝え、国際世論を味方にしようとした。


 一方、北朝鮮はしばらく無視していたが、二日後、朝鮮中央放送は、色鮮やかなチマチョゴリを着た女性が声明文を読み上げた。


「解決済みの問題を蒸し返し、それに飽き足らず、事実無根の罪を我が国にきせた卑劣な日本国には、火の雨が降り注ぐだろう……」


 北朝鮮は拉致を完全に否定し、逆に日本を糾弾した。


 日本で反北朝鮮の機運が高まった。すずへの同情が集まり、全国的な抗議運動が起きた。


 国が犯罪を起こし、それを認めなかったら、どうすれば良いのか。


 ある人は、「自衛隊で北朝鮮に攻めこめ」「特殊部隊を送りこんで被害者を奪還しろ」「日本も核武装して朝鮮を脅迫しろ」などと喚きたてた。


 また、ある人は、「憲法を無視した軍事行動をとれば、法治国家としての日本が崩壊する」、「武力紛争法を無視したり、核兵器を持てば、国際社会から孤立し、政治的にも経済的にも最悪の状況になる」、と考え、平和的な対話による解決を望んだ。


 大多数は、強硬手段を好まず、戦争はよくない。絶対にしてはいけない、と思っていた。




 政府の働きかけもあったのか、諸外国が、続々と日本を支持すると表明した。主に、同盟国のアメリカや友好国、日本からODAなどを受けている発展途上国などだ。ロシアや中国も早い時期に支持表明を出したが、韓国は何もしない。


 北朝鮮が今回の拉致を認めないことを受け、矢部首相は、


「あらゆる機会をとらえて、交渉を進めていくとともに、あらゆる手段を用いて、圧力を高めて行くつもりです」


 と答弁したが、すでに経済制裁を発動中なので、これ以上、圧力をかける手段が乏しく、また北朝鮮と対話すらできない状況に変わりはなかった。




「次、日向。日向、いるか?」


 金曜日の世界史の授業。担任の社会科教師、村田は、半分鼻にずり落ちたメガネの上から翔一を探した。


 クラスメートたちが、隣や後ろから「翔一」とささやき、突っつく。はっと我に返った翔一はあわてて起立した。


「はい!」

「五問目」

「え?」

「1494年にスペインとポルトガルの間で結ばれた条約だ。なに条約だ?」

「はい! えー…………」


 翔一は必死に頭をめぐらした。


「に、日ソ中立条約……ですか?……」


 教室がどっと沸いた。クラスメートが笑う。「翔一ぃ、それはないわー」、「なんで日ソなん」「スペインはどこへ行った」などと声が上がる。村田は笑った。


「予想通り清々しく間違えたなぁ。まあ、世界史の授業ということは分かっているみたいだから許す。ちゃんと予習やっとけよ。じゃあ次……」


 翔一は、「すいません……」と頭をかいて着席した。




 すずがいなくなってから、翔一は毎日がうわの空だった。


 クラスメートたちは、「大丈夫かよ」と翔一を心配した。文芸部の白井や天海は翔一と似たような状態だ。一年生の南香織は、廊下で会うたびに「日向先輩、元気出してください」と励ました。


 翔一は、これまで授業は分からないなりに、先生の話をちゃんと聞いていたのだ。もっとも「ラムサール条約」を「ハムカーツ条約」と答えたりするほど、常に絶望的な成績だったので、授業で指されても答えられない点では同じなのだが。




 翔一は、ポケットの中に入っている、すずのハンカチを触った。


 おととい、楠田順子をすずの家に案内した時は、それどころではなかったが、ハンカチはすずの母親に返した方が良いかもしれない、と思いはじめていた。


 本当は、ずっとこのまま持っていたい。できれば、すずに再会して、直接お礼を言って返したかった。


 が、ハンカチがすず個人のものと言うより、琴ノ葉家のものならと考えると、借り続けているのが心苦しかった。


 それにすずの優しい母親がどうしているか心配だった。


 土曜日。


 翔一は、ハンカチを返すため、すずの自宅を訪れた。

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