第8話 閣僚会議

 文化祭の終わった日の晩、翔一は完全に意気消沈していた。夕飯も食べずにベッドに横になった。すずのハンカチで保冷剤を包んで頬を冷やし、深夜まで悶々としていた。


 次の日。


 ベッドから起きてベランダに立ち、朝日を浴びた時には、翔一はすっかり立ち直っていた。


(嫌われているわけじゃないんだ。スタートラインはマイナスじゃない。すず先輩が卒業するまで、まだ半年ある。がんばろう!)


 翔一はそう決心した。


 いつも通りストレッチと太極拳をして――脳と身体の健康のため父から薦められていた――、朝食と弁当を作った。まだ告白していなかったことで精神的ダメージは少なかった。剛士に殴られた痕、青黒いあざだけが左頬に残っていた。


(フラれたわけじゃない。今まで通りすず先輩と会える)


 そう思っていた。が、その日、すずが文芸部に顔を出すことはなかった。さおりも来ない。他の部員に聞いても、何も知らないと言う。翔一は、少し心配で、電話しようと思ったが、昨日の今日で電話するのも照れくさく、ラインでメッセージを送って返事を待つだけにした。


 結局、その日は何も分からなかった。すずの担任の先生に聞いたり、自宅に電話すれば良かったかもしれない。しかし、そうした所で翔一に出来ることは何もなかったのだが。




 少しだけ時間をさかのぼる。


 永田町。首相官邸四階の閣議室には、早朝にもかかわらず、閣僚や主要な官僚が顔をそろえていた。


 内閣総理大臣、矢部仁三じんぞうは沈鬱な表情で、席の中心に腰かけていた。その隣の官房長官、須田秀吉はネズミのように、せかせかと質問をしていた。


「北朝鮮の領海侵犯で間違いないのかね」

「他にそんなことする国ないだろ」


 国家公安委員長、大門だいもん文太が独り言のように言った。


 彼はたたき上げの公安刑事だったが、定年前に退職し政治の世界に入った異色の大臣だ。達磨のように体格が良く、太く黒々とした眉をしている。


「証拠は、と言っているんだ。ふつうに考えればあの国に決まっている。証拠だ。証拠」


 国土交通大臣の水井啓二は、あわてて報告書をめくりあげる。内閣改造で新しく就任したばかりで、まだ職務になれていない。報告書はバラバラと床に落ちた。


「もういい。海保の長官も来ているんだろ。長官」


 長官の海江田は、昨日の深夜の事件をかいつまんで説明した。撮影した写真、ビデオ、乗組員の証言を提出する。彼は、明らかに北朝鮮の工作船の特徴を持つ、と断言した。


「それは特徴を持っているってことだけだろう」須田はトントンと指で机を叩いた。

「私からも」


 自衛隊統合幕僚長の徳川が、尾道防衛大臣を差し置いて報告した。尾道は何とも思わないようで、静かに他省の報告書に目を通していた。


「先ほど、不審電波の暗号解読が終了し、北朝鮮のものだと判明いたしました。また偵察衛星が工作船を追跡中であり、船は北朝鮮接続水域に入ってから速度をおとし、咸鏡北道ハムギョンプクト、おそらく清津チョンジンに向って航行しております。米軍から入って来ている情報も同じです。韓国軍にも問い合わせしたところ、昨日から今日未明にかけて、竹島付近にわが国の巡視船や戦闘機が近づいたことで、韓国側は激しく抗議しています。現在、あちら側からは情報を入手するどころではありません」


「竹島は日本の領土だ」尾道は言った。

「追跡できるのなら、侵入される前に阻止できなかったの?」


 法務大臣の下川は、薄紫色のメガネの奥から、徳川を見あげた。


清津チョンジンから出航する船は、監視していますが、衛星は、主にミサイル基地の動きを……」

「今は、それはいい。で、なんで船を止められなかった」


 須田が徳川の回答を遮った。


 水井も「自衛隊はなんで間に合わなかったのです。対テロチームだってあったのでは」と口をはさんでいたが、尾道も徳川も心の中で、「あんたの要請が遅れたからだよ」と思って、水井を無視した。


 海江田は、女性の人質がいたからだと、先ほども説明したが、もう一度繰り返した。


「本当に日本人なのかね」須田は蛇のような目をして言った。

「音声は拾えていませんが、撮影された映像の口の動きから、日本語で『助けて、やめて』などと泣き叫んでいることが判明しています。それから、服装が日本の高校の制服でした」

「工作員だって日本語を話すだろう。制服はどこのだ」

「現在、全力で調査中です」と、内閣情報調査室長の古谷が答えた。

「早くしろ」


 須田が言うや否や、「京都の桜田高校ですね」と、大門が口をはさんだ。


「おそらく、失踪届は、まだ出されとらんでしょう。今さっき、京都府警に所在地の三柱町に向い、事実確認するよう指示してあります」


 須田は「うむ。そうか」とうなづく。


 古谷は公安から内調に出向している。彼は、大先輩の行動の速さに畏敬の念をいだいた。


 総理の矢部が重々しく口をひらく。


「もし、あの女性が日本人だと判明したら、拉致事件になりますね」


 北朝鮮とは国交はない。現在、拉致問題や、核、ミサイル問題など、問題は山積みだ。良い関係とはまったく言えない。矢部は先日の総裁選では辛くも勝利したものの、支持率は低下傾向。ここで対応を間違えたら、政権はくずれる。憲法の改正も不可能になるだろう。憲法の改正ができなければ、このまま日本はアメリカからいいように扱われるだけだ。日本の主権を取り戻すためには、それは譲れない。矢部はそう信じていた。


「いくつかの可能性を含めて対応案をまとめましょう」


 矢部の眉間のしわは深くなる一方だった。




 火曜日。


 翔一はすずに借りたハンカチを返そうとブレザーのポケットに入れた。昨日洗濯してアイロンをかけたのだ。


 登校中、翔一は警官を何人も見かけた。いつもは一人も見ないので、生徒たちは「何だろう」と思い、ひそひそと話しあった。それは朝の全校集会で明らかとなった。


「本校の三年生、琴乃葉すずさんが拉致されました……」


 校長が重々しく発表する。体育館は騒然となった。翔一は、何を言っているのか分からずに、ただただ立ち尽くした。



 すずがいなくなった事実を理解できず、時間が過ぎていく。翔一はすずを探す。部室にはいない。校庭のケヤキの下にもいない。翔一は何をしたらいいか分からなかった。涙も出ない。文芸部員たちも、信じられないといった感じで落ち込んでいた。


 明るく笑い声の絶えなかった部室は、嘘のように暗くなった。

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