第7話 海の上の女子高生

 星の綺麗な夜だった。月はなく、海面は漆のように黒い。


 古代こだい希海のぞみは隠岐諸島北方で哨戒任務についていた。彼は、海上保安庁第八管区所属、一等海上保安正。高速特殊警備船「あしたか」の船長である。


 夜の海上は肉眼では何も見えない。レーダーが頼りだ。が、古代は、無数のモニターと計器に埋め尽くされた船橋の中から、暗い海に目を向けていた。




「あしたか」は最新の「つるぎ型巡視船」であり、ディーゼルエンジンを三基、ウォータージェットを三軸搭載している。出力は一万五千馬力以上、速力は四十ノット以上。


 RFS射撃指揮装置、対水上捜索用レーダー、赤外線捜索監視装置を装備し、視界が悪い時でも、波が高い時でもターゲットに対し、正確な射撃が可能だ。兵装はJM61‐RFS20mm多銃身機銃。毎分六千発の弾丸が秒速約千メートルで発射される、いわゆるバルカン砲だ。


「あしたか」は不審船を捜索していた。


 北朝鮮の工作船はドイツ製のOMCエンジンを四基ずづ搭載しているものもあった。一基が五百馬力以上。五十ノットの航行が可能だと考えられている。また、ZPU‐2対空機関砲、82mm無反動砲、AKS‐74自動小銃、82式機関銃、RPG‐7対戦車ミサイル、9K310イグラ対空ミサイルなどで武装されている。


 工作船は母船と子船のセットだ。母船は三十メートルほどの大きさが一般的であり、外見は日本の漁船に偽装してある。船尾に格納庫があり、そこには高速小型船が隠されている。


 母船は海岸までは近づけないため、公海または公海上から三十キロメートルほど侵入し、そこで子船を出して海岸に近づく。


 もっとも侵入が困難なのは韓国だった。そのため、北朝鮮の工作部本部、三号庁舎はスパイ船に莫大な投資をした。潜水艇を開発し、またレーダーに捕捉されにくい特殊塗料を船体に塗る。


 それでも多くの工作員の命が失われた。北朝鮮最大の英雄と称される工作員は、韓国の駆逐艦に包囲され自爆して果てた。工作員の基地のひとつ、南浦ナムポ連絡所には彼の銅像が建てられている。


 韓国と比べて、日本の領海はザル同然だった。工作員の養成所で成績が悪いものが、対日の基地、清津チョンジン連絡所へと送られた。「つるぎ型」が配備されるまで、日本の巡視船の速度はカメのように遅く、北朝鮮の工作船にまったく追いつけない状態だった。


 海では簡単に逃げ切れる。また、日本で捕まったとしても、一年ほど拘留されれば、そのまま北朝鮮に送還してくれる。工作員たちにとって、楽な仕事だった。


 1999年の能登半島沖不審船事件、および2001年の九州南西海域工作船事件により、北朝鮮が日本領海に侵犯していたことが明るみに出ると、その危険性が広く知れわたった。つるぎ型巡視船は、それを反省して建造された船だ。




 古代希海をひと言で言うと、実直慎重。「念には念を」がモットーだった。


 寝る前には必ず目覚まし時計を確認する。いつも鳴る前に起きるのだが、それが日課である。風呂に入る前には風呂の温度、出かける前には天気予報を確認する。将棋をさす場合は、駒から手を離す前に、必ず相手の顔を確認する。しめしめと言った顔色だったら、その手を考え直す。娘にキスする前には、嫌われないように口臭を確認する。


 すべて確認してから行動。それが古代だった。



 その日の午後、9月9日の13時23分に、自衛隊の情報本部電波部、および、警察庁警備局の外事技術調査官室は、不審な電波を捕えた。暗号化されているので内容は不明。海自のP‐1対潜哨戒機が出動した。


 それから半日も経っていない。不審船は発見していない。まだ大規模な警戒態勢ではなかった。



 古代は、隠岐の接続水域(沿岸から四十四キロメートル)を越え、竹島の東南約百キロメートルにまで「あしたか」を進めた。


 他の船の配置を確認し、場所だと思ったからだけではない。古代には妙に勘の働く時があった。ふだんは実直である。しかしこの勘が働いた時は別だ。命令を聞き流し、担当区域から大幅に外れた。


 二等海上保安正の沖田がレーダーに反応を捉えた。そして一隻の船を発見する。


「船長! 船を発見!」


 不審船は速度を上げる。「早く連絡を!」と、皆が慌てるなか、古代は暗視双眼鏡を使い、ひとつひとつ確認した。


「甲板上に漁具が見えない……。漁船にしてはアンテナが多い……。船尾に旗章を掲揚していない……。船名は日本語だが、ここは鳥取県沖なのに漁船登録番号がNGではじまっている。NGは新潟だ。鳥取ならTTのはず……。そして船尾の観音開きの扉……」


 古代は、すぐさま本部への報告する。乗組員全員に防弾ベストとヘルメットを身につけさせ、武装の確認をするように指示を出した。


 古代はこれからの流れを確認する。不審船に停船命令を出し、無視した場合は威嚇射撃、警告射撃へと移る。それでも停止しない場合は、船体射撃だ。


 もし北朝鮮の工作船であれば、重武装している可能性が高い。うかつに近づくことはできない。自衛隊の護衛艦ですら危険なのだ。




 すずが目を覚ました時、そこは真っ暗だった、地面がうねるように動き、身体が転がった。大きな袋のようなものに入れられて動くことが出来なかった。


 ただ、すぐ近くで、「ガガガガガ!」「パパパパパ!」と銃撃戦のような大きな音と、日本語ではない叫び合う声が聞こえた。


 すずは恐怖した。


 突如、袋が開けられた。すずは男に腕をつかまれ、無理やり、船内から甲板に連れてこられた。


 数十メートル離れている巡視船から強力なサーチライトが浴びせられていた。火薬の煙と臭いがする。巡視船は、停船するように命令しているが、この船に止まる気配はない。激しい波の音、エンジン音、銃撃音とともに、船尾の方で、バリバリと船体が弾けていく音が聞こえた。


 すずは、何が起きているのか、理解することはできなかった。ただ、このままだと死ぬ。そう確信して震えた。すずを固くつかんでいた男は言った。


「やめるように頼んでください」


 異常な状況なのに、落ち着いた丁寧な言い方だった。すずは頷く。身体が震えるのを抑えることは出来なかった。




「撃ち方、やめ! やめろ! おい!」


 古代は、甲板に少女の姿を認めると、すぐさま攻撃を中止させた。


 砲手は頭に血がのぼっていて反応が遅れる。バルカン砲も停止まではコンマ数秒、時間がかかる。


「あしたか」は攻撃を中止したが、工作船は「パパパパパ」とひっきりなしに自動小銃を撃ってくる。時々、船体に穴が空く。油断はできない。敵の持つカラシニコフは普通の防弾チョッキだと貫通するほど殺傷力が高い。


「あの少女、日本の高校の制服を着ている。どこの学校の制服か知っている者はいるか」


 古代は艦橋内の士官たちに聞くが、知っているがいるはずはない。士官たちは、どこの制服だろうと興味がなかった。


「船長。なぜ攻撃を中止するのですか。RFSがあるから目標を外すことはありません」


 沖田が言うが、古代だって、「あしたか」なら海上での精密射撃が可能だということは知っている。


 が、100%安全ではない。問題は工作船の沈没の危険性だ。実際、九州南西海域工作船事件では激しい戦闘のあと、工作船は爆発し、工作員は全員死亡している。


 彼女が日本人だった場合、もし何かあれば大問題になる。船を体当たりさせることも危険だ。対戦車ミサイルRPG‐7を撃ち込まれて、自分たちが木っ端みじんになる可能性が高い。


「距離を取れ。通信、自衛隊の状況は」

「まだ何も……」

「本部に状況連絡。停船命令はこのまま出し続けるように……」


 古代は艦橋の壁をガンッと蹴飛ばした。




「あしたか」は、少女の映像を本部に送信し、そして連絡を待ちつつ、つかず離れず工作船を尾行した。竹島東方を進んでいたころ、P‐1哨戒機とF‐35A戦闘機がやってきた。しかし攻撃することはできない。


 四十ノット以上で航行する「あしたか」に護衛艦が追いつくはずはなかった。はやぶさ級ミサイル艇でも無理だ。もっとも、人質がいれば、来ても役には立たない。


 古代は半ばあきらめていた。


 工作船はそのまま竹島に近づくことなく通りすぎ、防空識別圏外、北朝鮮の排他的経済水域(EEZ)へと消えて行った。古代は悔しさに拳を震わせ、いつまでも工作船が消えて行った先を睨みつけていた。




 工作船に残されたすずは絶望した。自分を助けてくれると思っていた船が、暗い海の彼方に消えて行ったのだ。足の力が抜け甲板にひざまづいた。自動小銃をもった男たちがすずを取り囲む。


 彼女は震え、涙は尽きることなく流れ落ちた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る