65話『禁断の果実』

 1月18日(火)


 相変わらず曇りが続く朝早くのこと。いつもながら朝が弱い俺は未だに布団からでることができず、眠りについていたのだが、


「んー……なぁんだよぉー……」


 こんな朝っぱらから携帯に着信があった。そのわずわしい音のせいで俺の意識は強制的に覚醒かくせいさせられてしまう。嫌々ながらも、音を止めるために手探りで携帯を掴んでその相手を確認する。すると意外にもそれは『諫山いさやまみお』からで、


『今日私先にいくから、お姉ちゃんと2人で登校してね』


 とメッセージが入っていた。どうしてそんなメッセをこんなにも朝早くに送ってきて、そしてなぜ俺が既になぎさたちと登校する前提で話が進んでいるのか。寝ぼけた頭の割にはそういった思考ができていたが、とりあえず色々と深く考えるのはめんどいの『りょーかい』と打って返信することにした。そして俺は携帯を投げて再び夢の世界へと旅立つことにした。とにかく今は後もうちょっとでもいいから寝たかった。頭がボヤーッとして、まぶたも重い。まだ学校に行く時間には早いし、いいだろう。そんなわけで、俺は気持ちよくすやすやと夢の世界に再び戻っていくのであった。


「――ふわぁぁー……」


 それから十数分ほど経った頃、ちょうど自身の体内時計が目覚めのベルを鳴らし、それと共に自然と意識が覚醒していった。俺は伸びをしながらベッドから起き上がる。そして先程の澪の頼みを思い出して、俺はそちらに頭を切り替えていく。正直な話、俺も渚と2人きりで登校するのはいささか悪い話ではなかった。むしろ俺にとっては嬉しいそれで、澪との利害の一致によりそれができるのはこの上なく嬉しかった。だけれど、これでは傍からみたら完全に澪におんぶに抱っこ状態。それもそれでどうなのだろうか。と自身に疑問を投げかけつつ、俺は眠い目をこすりながら起きることにした。これで渚が俺の準備よりも先に家を出てしまってはいけない。でも、


「これ、いつ渚出るんだ?」


 次にそんな疑問が俺の中に浮かび上がってくる。おそらく今の渚の思考を考えると、直接誘うのではどうせ『なら澪も』とか何とか言って俺と澪を一緒に登校させようとすることだろう。でも俺が望んでいるのはそうじゃない。完全なる『2人きり』の状態で一緒に登校したいのだ。そのためにもここは偶然を装った流れで一緒に登校するという作戦が得策なはず。だとするならば、まずその疑問を解決しなければならない。なので俺は以前に渚が使用した手法を使ってみようと思う。双眼鏡を使って部屋を覗き、相手の出る時間に合わせるのだ。善は急げと俺は早速双眼鏡を取り出して、自分の部屋の窓越しから渚の部屋を覗いてみる。


「おっ、ラッキー!」


 するとなんとも幸運なことに、渚の部屋のカーテンが開いていた。もしかすると、澪が開けておいたのかもしれないが今はそんなことどうでもいい。もう渚のことしか頭になかった。まだ早い時間だからか、渚はちょうど今のタイミングで起きたらしく、伸びをしている。そしてあくびをした後、なんと――


「うわ、うわっ!」


 寝間着をおもむろに脱ぎだしたではないか。いや、そりゃこれから学園に行くのだから制服に着替えるというのは至極しごく当たり前のことなのだが……でもそうなると、今のこの状況は割とマズいのではないだろうか。客観的に見れば、俺はただの着替えをのぞいている変態なのだから。


「あぁー……くぅー……」


 俺の心の悪魔と天使が判断を鈍らせていく。天使に従って覗くのをやめるべきか、悪魔に魂を売ってこのまま覗き見るべきか。そんなことを頭の中で天秤にかけながらも、現実ではバッチリと双眼鏡でその着替えを見続けていた。ぶっちゃけ、こんなのバレなければいいのだ。それに本来の目的はあくまでも出る時間を確認するだけ。やましい感情なんて一切ない。これはあくまでも不可抗力によるもの。俺はそう頭の中で言い聞かせながら、自己を正当化していく。そんな間にも渚は上着のボタンを1つ、また1つと開けていく。それと同時に俺にはとてつもない背徳感がやってきた。その、人に秘密で悪いことをしていることがあまりにもゾクゾクして、ぶっちゃけちょっと楽しかった。覗き魔はこんな気持ちで覗いているのだろうか。そんな思考を巡らせながら、いよいよ全てのボタンが外されたことを確認する。俺は生唾を飲みながら、それを見続ける。そしてついに渚の下着が――


「おいおい、マジかよ!?」


 お目見えしたのはいいのだが、それは俺にとんでもない衝撃を与えた。なんと、渚が今身に着けている下着の色が『青』だったのだ。ついこの間に俺が茶化した下着の色を、はたして渚はどうして身につけているのだろうか。もちろん彼女がそんなこととっくに忘れていたり、そこまで気には止めていないのかもしれない。でもこれはあまりにも偶然にしては出来すぎてはいないだろうか。


「おぉー……」


 そんな偶然に驚かされつつ『覗き』を続ける。渚の上半身はもはやブラジャーという布一枚とだけになってしまっていた。そしてそのうるわしの肌が晒されたことで、やはり渚はとんでもなくスタイルがいいことに改めて実感させられた。まず脇から腰にかけての芸術的なほどに美しいあのくびれ。そして何を食ったらそうなるんだと言いたいほどのウエストの細さ。腕も細いし、肌も透き通るようにキレイだ。渚を俯瞰ふかん的に見ても、何一つ文句のつけようのない美しい体型であった。極めつけはあの渚の背中。なぜだろうか、ただの背中だというのに肌色が多いだけでこんなにも男を惑わせるエロさがあるのは。ホント何から何まで俺の心をグッと掴んで離さない。もう俺は完全に渚に釘付けになっていた。


「――あっ……やっべッ!?」


 そんな渚の上半身に無我夢中になって見つめていると、最悪な事態が起こってしまった。ふとした拍子に、渚が俺の部屋の方をチラッと見て、何か気になるものでも見つけたのか二度見してきたのだ。そして目を細めて、まるで獲物を狙うタカのように鋭い目つきでこちらを凝視ぎょうしする。その顔がいぶかしんでいるところを見るに、おそらく何かに気づいたに違いない。できれば気づいてほしくなかった、知らないままでいてほしかったそれに。対する俺はここですぐさま退散すればまだマシになったのかもしれないのに、まるで石のように固まってしまい動けずにいた。そんな状態がしばらく続き、渚の方はようやくそれが何だったのかわかったようで、幼馴染の俺でも見たいことがないような驚いた表情をして、カーテンをバッと勢いよく閉めてしまった。


「あぁー……」


 終わった。俺は直感的にそう悟った。それから頭を抱え、うずくまる。ついに、俺が危惧していたことが現実となってしまったのだ。確実に、渚は俺を『着替えを覗いていた変態』ととらえただろう。このままでは間違いなく変な誤解を持たれ、関係にヒビが入る。どうしたものかと慌てふためいていると、さらに最悪なことに『彼女』から着信があった。正直な話、それには絶対に出たくはなかったが、どうせ無視したところで後がもっと怖くなるだけ。どうせ後で怒られるなら、今怒られた方がマシだろう。俺はほとほと諦めて通話ボタンを押す。


「れぇーんー?」


 開口一番、渚は『もしもし』も言わずにあきらかに怒っているような声色で俺の名前を呼んでくる。


「やっ、これは誤解だ!」


 こういうのは始めが肝心。渚のペースになって話が変な方向に行ってしまわぬ内に俺は必死に弁明を始める。今、渚は完全に思い込んでていてあまり効果は薄いかもしれないが、やらないで後悔するよりはマシだろう。もちろん俺にも非があるけれど、100%俺が悪いわけじゃない。事情があるのだ。それを証明しなければ。


「誤解なわけないでしょッ! こっちは警察に通報したっていいのよ!?」


 俺の弁明に対し、渚は完全に頭に血が上っているようで、まともに俺の言葉など耳には届きそうにない感じだった。でも俺はここで諦めるような人間ではない。必死で対抗策を頭の中でフル回転させて捻り出そうとしてみる。このままでは俺が死んでしまう。それは御免だ。俺だってまだ生きたい。


「ちょっと待てッ! お前だってついこの間、同じことしてただろ!?」


 必死に考えた結果、俺は『以前にも渚が同じ犯行』をしていたということを思い出し、そこをつつくことにした。ちょっと汚いやり方だが、ここまで極限に追い込まれている状態は致し方がない。実際問題、あの時はスルーしていたけれど渚も大概なことをやっているのは事実だ。それをネタにすれば、乗り切れるかもしれない。


「えっ、そ、それは……」


 俺の思惑通り、さっきまでの勢いはどこへ行ってしまったのか、その話が出た途端に渚は急に萎縮いしゅくしてしまう。


「俺が出る時間までわかってたってことは、俺の着替えだって覗いたはずだよなぁー? 男が女の着替えを覗くのはダメで、女が男の着替えを覗くは許さるなんてこと、ないよなぁ?」


 これはかかったと思い、俺はすぐさま渚を攻め立てていく。渚がどこまで見ていたのかは知らないけど、さっきの反応からしてもこれは『クロ』っぽい。だとしたなら、渚だって今回の俺と同罪なはずだ。もう過ぎたことをほじくるのは情けない男かもしれないが、渚だけが許されて俺が許されないのはちょっと納得がいかない。


「くぅー……」


 そんな俺に言いくるめられて、明らかに悔しそうにうなっている渚。ただ自分の犯した罪が事実なだけに、何も言い返せないみたいだ。


「じゃあ、それでおあいこってことで勘弁してもらえませんかね?」


「うぅー……今回だけだからね……あと! 双眼鏡はもう没収!」


 そんな許しをうと、どこから不服そうにしながらもやっぱり優しく俺を許してくれる渚だった。だけれどせめてもの抵抗なのだろうか、そんなつれないことを言ってくる。


「えぇー渚との大切な思い出の品なのにぃー?」


 それにわざとらしい感じで返す。冗談半分、本音半分ぐらいだろうか。実際、アレはなんだかんだ言って俺と渚の大切な思い出なのだ。その何よりの証拠として、10年もの間お互い捨てずにとってあるのだから。それを奪われてしまうのは、ちょっと嫌な気持ちがあった。


「その大切な品を、犯罪に使ったのはどこのどいつよ!?」


 そんなノリに渚はもっともらしい正論で返してくる。『素敵な思い出が汚れる』といった具合に、たしかに俺がそれを使用した目的は不純なものだった。だけれど……


「その言葉そっくりそのまま渚にお返ししますよ。何度も言うけど、先にしてきたのはお前の方だからな」


 くどいようだが渚だって同じことをしていた。しかも俺よりも先に。つまりは大切な品を犯罪に使ったのは渚の方が先なのだ。俺はお返しと言わんばかりにその事実を渚に突きつけてやる。


「ぐぬぬぅー……煉のバカッ!」


 今回の件では圧倒的に渚が分が悪く、それも本人もそれがわかっているからこそめちゃくちゃ悔しそうに唸りながらも、それに言い返す言葉が思いつかなかったようで結局のところまるで子供のケンカみたいに俺をののしった。


「あっ、ちょっと待て渚!」


 そしてあきらかに声で電話を切ろうとしていたのがわかったので、俺はそれを制止する。俺にはまだ用件がある。電話してきたついでにそれも頼んでみようと思ったのだ。今の状況だと、偶然を装って出たとしても変態扱いされるだけだし、もう直接誘うしかないだろう。


「何よ!」


「こんなことあってこういうのもアレなんだが、今日一緒に学園行かないか?」


「なんで、あんたみたいな変態なんかと?」


「いや、しょうがないじゃん? そのために覗いてたんだし……」


「ぶぅー……」


「お願い、渚!」


 相手には見えていないのはわかっているけど、ついつい俺はその場で土下座をしてお願いしてしまう。このまま失態したままで終わってしまっては、澪に顔向けできない。それにぶっちゃけ土下座してでも勝ち取りたいほどに、俺はもう渚と一緒に学園へ肩を並べて行きたくてしょうがなかった。


「……わかった、一緒に行く」


 そんな俺に根負けしたのかしばらくの沈黙の後、渚がそんな天使のような言葉を投げかけてくれる。


「あぁりがとぉお! じゃあ、外で待ち合わせなっ!」


 もう俺は泣きそうになるほどそれが嬉しくて仕方がなかった。あんなことの後だし、8割方ダメかもしれないと思っていたから。やっぱり渚って優しい。なんやかんや言って、こうして俺のお願いを聞いてくれるのだから。それによって渚がさらに好きになりつつ、俺は意気揚々とさっそく制服に着替えて、渚を待たせまいとさっさと出かけるための準備をしていくのであった。


「――よっ、渚!」


 そして朝食を済ませ、いよいよ家を出る。すると同じぐらいのタイミングで向こう側の家から渚が出てきた。それに俺は軽く手を挙げて、渚に挨拶する。だがこうして直接面と向かって会うと、脳裏に『さっき覗いていた渚』と目の前の渚がリンクしてしまい、あの映像がチラついてちょっと渚を直視するのが恥ずかしくなってしまう自分がいた。


「おはよ、変態」


 そんな俺の挨拶に対して、渚は露骨なぐらいに不機嫌そうな顔をしてこの上なく酷い呼び方で挨拶を返してくる。でもそんな嫌そうな顔をしていても、結局のところはその原因のヤツと一緒に登校するわけだ。そんな不一致な渚の言動が可愛くてたまらなかった。


「おい、その呼び方やめろって」


 十中八九冗談だとはわかっているけれど、いくらなんでも『変態』はヒドいだろう。もはや蔑称べっしょうみたいになっているし。定着するのも嫌だし、俺は一応それに言い返す。


「だって事実でしょ?」


「ゴメンて。俺が悪かったから、もうこんなことは二度としないから」


 このまま不機嫌なまま登校するのも気分がよくないし、さっきは色々とあってちゃんと謝っていなかったので、ここでしっかりと渚に謝罪する。


「当たり前よ。私だからよかったものの、これが他の人だったら大騒ぎよ」


「お前じゃなきゃ、こんなことやんねーって」


 渚のそれにまるで口が勝手に動くみたいに自然とそんな言葉が漏れていた。俺があんなことをしていたのは、決して『好きな人だから』とかではなかった。たぶん『渚だから』なんだと思う。こんな風に俺を許容してくれる、そんな安心感から俺はそれをしてしまったのかもしれない。


「ふっ、ふんっ!」


 そんな俺の言葉にわざとらしくそう言ってそっぽを向いてしまった。ただそんなことを言いながらも、一緒に登校する気はあるようで俺と歩幅を合わせて歩いていく。今日着替えを覗かれていた者、覗いていた者が一緒に肩を並べて歩くという、事情を知っている人からすれば変な光景であった。


「――なあ。1つ訊いてもいいか?」


 気まずさからか、特に会話もなく歩ている登校風景。そんな中で、俺は朝の一件でふと疑問に思う、重大なことがあった。あれをぶり返すのはちょっと危険かもしれないが、俺の好奇心がうずいて仕方がなかった。


「な、何?」


「なんでよりによって『青』だったんだ?」


 それは例のアレの色。ついこの間、あの原始的なやり取りでネタにした色、それが『青』だった。それがなぜわざわざその色だったのかが気になって仕方がなかった。いや、だいたいは偶然なのだろうけれど、もしかしたら何か理由があったのかもと思ったのだ。


「なっ!? あっ、うぅー……」


 それに一瞬驚いた顔を見せたかと思えば、すぐに顔を真赤にしてうつむいて黙ってしまった。そして――


「えっ!?」


 どういうわけか手を繋がれた。その全くもって脈絡のない行動に、俺はただただ戸惑うしかなかった。しかもそれが昨日の放課後と同じ、恋人繋ぎ。渚は何を思ったのかと、頭の中を整理しようとしているところに、


「なぎっ……イテッ!? イテテテッ! な、渚っ……痛いッ!」


 渚がこれでもかと言うぐらいに俺の手を強く握りしめてくる。しかも指を絡めているから、指が締め付けられて尋常じゃなく痛かった。


「……えっち」


 そして顔を俺の耳に近づけたかと思えば、今までの元気ある罵倒とは違って弱々しくそんな言葉を言ってくる。俺は実は変態なのかもしれない。そんな言葉が俺にとってはもう『ご褒美ほうび』でしかなかった。そんな弱々しい渚があまりにも可愛すぎて、胸がキューッと締め付けられる。なんかあの日に澪に例の宣言を受けてからというもの、俺の頭のネジは2、3本くらいは飛んでいってしまっているような気がする。『渚だから』だろうか、こういうこと茶化したふざけあいも、いっぱいしてしまう。それはたぶん、こんだけしたって俺と渚の関係はそう安々と壊れはしないと、心のどこかで思っているからだろう。渚はこうやって俺に怒っているような感じで暴力をしたり、罵声を浴びせたりするけど、もう本当は俺のことは許している……と思う。それは本人から直接それを訊いたわけじゃないけど、なんとなくこのやり取りでそれがわかる。だってその証明に、ある程度落ち着きを取り戻したら、までる朝のことがなかったかのように普通に会話しているから。これが俺たちの関係。この十数年という期間一緒にいて得たものなかもしれない。そう思うと、嬉しい気持ちでいっぱいだった。俺はそれが表に出てしまわないように必死で抑えつつ、心の中でニヤニヤしながら渚と共に通学路を歩いてくのであった。

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