第六章
第六章
「おっはようございまーす。」
ブッチャーが、いつもどおり製鉄所にやってきた。今日も庭はきの掃除をするためだ。
「あ、おはようブッチャー。今日も頼むわねえ。もう、昨日の風で、また汚くなっているけど、この季節だし、我慢して。」
恵子さんが出迎えて、恒例の挨拶をした。
「いや、俺は仕事を与えられれば余計に喜ぶタイプですから、気にしません。それより、水穂さんどうなんです?あれから、悪化したりしてませんかね。」
「ええ、大丈夫みたい。多少咳き込むことはあっても、血をだすことはないし、本人は砂埃が入っただけだって言ってるから、そういう事だと思うようにしてる。」
「あ、そうですか。じゃあ、寝たり起きたりしているような感じですかね。」
「そうね。まあ、例外的に今日は出かけるみたいよ。」
「出かける?どこへですか?」
「うん、水穂ちゃんに是非会いたい人がいるから、会いに行くんだって。何でも曾我さんが迎えに来てくれるらしいわ。」
「はあ、、、。そうですか。大丈夫かなあ。まあ、でもあの高級車で行くわけですし、電車を使うわけじゃないから、何とかなるかあ。」
そういえば今日は日曜日だった。先日、話していた内容を、ブッチャーは急いで思い出す。
そのとき、きゅきゅきゅ、と鴬張りの廊下を歩いてくる足音がして、黒の紋付羽織袴姿になった水穂が、玄関先にやってきた。
「じゃあ、すみません。行って来ます。多分お昼を頂いて帰ってきます。」
水穂は、そういって礼装用の畳表のぞうりをはいた。
「あら、もう出るの?だってお迎えは10時でしょう?まだ九時半よ?」
恵子さんがあわててそういうと、
「いえ、道路がすいていて、思ったより早く着きそうなので、そろそろ待機してくれと、電話がありました。昨日まで工事をしていると聞いたので、早めにでたそうですが、実際に道路に出たら、工事は終わっていたそうです。」
と、返って来た。
「訪問先はどこだっけ?」
恵子さんが聞くと、
「僕も詳しく聞いていないのですが、本吉原だそうです。岳南鉄道の。」
と答える。
「本吉原かあ。まあたいして遠いところじゃないわね。すぐ帰ってこれるわね。」
「でも、体調よくないのではないですか?顔が真っ青ですよ。いますぐ連絡して取りやめにしてもらったほうが良いのでは?」
ブッチャーが水穂の顔を見て、心配そうに言ったが、
「いや、何もないですけど?それに、もう近くまで来ているのに、いまさら取り止めなんて失礼でしょうに。」
軽く笑みを浮かべて、水穂はそう返した。
「水穂さんこれ、悪いんですけど、曾我さんにお渡し下さい。青柳から、いつもお世話になっているほんのお礼だといって。」
懍が、丁度そこへやってきて、水穂に高級な和菓子の箱を渡した。
「あ、はい、わかりました。じゃあ、教授、行って来ます。お昼は、多分訪問先で頂いてきます。」
「くれぐれもお体には気をつけて。」
「ええ、わかりました。本当に、先日は砂埃が入っただけのことですから、気にしないでください。」
といって、水穂は箱を持ち、軽く敬礼して、製鉄所の玄関を出て行った。
「大丈夫かなあ?なんだか痛々しい雰囲気ですねえ、、、。」
「そうねえ。砂埃が入っただけなんて、なんだか隠し事して、言い訳しているだけのようねえ。」
「一体何しに行くんでしょうね。ただでさえ、着慣れていない礼装なんか身に着けて。まあ、確かに吉原は遠くはありませんが、、、。」
ブッチャーと恵子さんが、二人で相次いで話していると、
「ええ、大丈夫ですよ。こんな言い方をすると失礼ですが、彼を紛失すると、間違いなく大損害になりますから、そのようなことは向こうも決してしませんよ。いいですか、今回、曾我正輝がこちらに手を出してきた狙いは、蘭さんの会社を潰すためでもなければ、悪質な病院を成敗することでもありません。」
と、懍がまるで勝負審判のように冷静に解説した。
「えっ、じゃあなんですか?他に狙いは別にあるとでも?」
「はい。そうですよ。須藤さん。曾我の一番ほしい物は水穂さんの身柄ですよ。おそらく、自身が率いている団体の、看板商品にでもしたくて、ここへ手を出してきたのでしょう。ですから、それを傷つけたりするようなことは絶対にしないはずだ。勿論、水穂さんが、共産主義を掲げる団体に賛同するとは到底思えませんが。」
「じゃあ、まさしく神風特攻隊じゃないですか。敵の陣営に突っ込むなんて。それじゃあ、飛んで火にいる夏の虫ですよ。先生も、少し冷酷すぎます。」
懍の解説にブッチャーは反発するが、
「いいえ、こちらも、親しく付き合うように装えば、敵の弱点を入手することも可能になりますから、僕は今回、行ってもらう様にお願いしました。多分、あの顔色では間違いなく倒れるとおもいますが、何かしら処置をとって、きっと生かしてくれますよ。」
懍はまたさらりと言った。
「だったら、別の人に行って貰うとか、そういうふうにしてくださいよ。何でわざわざ倒れるようなマネをさせるんです?それに、敵の弱点を調べて来いなんて、まるで、スパイじゃないですか。そんな大役、体に負担をかけすぎて、かえってかわいそうですよ。」
恵子さんが女性らしい発言をしたが、
「大丈夫ですよ。先ほども言いましたが、一番ほしいものを失ったら、大損害になることは疑いないでしょう。ですから、決して悪いようにはしません。」
また、クールなままでそう返って来るのであった。
「それに先生、見抜いていたんですか?水穂ちゃんの体のこと。」
「当たり前じゃないですか。砂埃が入っただけで、ああいう風に連続して咳き込むことは、ありえないはなしです。まあ、いくら開胸手術をしても、根本的に解決することはないでしょうから、すぐに戻ってしまいますよ。さて、僕は資料の執筆に戻りますね。二人とも、早く仕事に戻らないと、午前中はあっという間にすぎてしまいますよ。」
懍は、車いすを方向転換し、応接室に戻ってしまった。
「すごいですなあ。はじめっからお見通しだったんか。」
「まあ、戦前の人は、すぐにそうして見通しがつくけど、あたしたちの気持ちのことは何にも考えてくれないのね。」
ブッチャーと恵子さんは、顔を見合わせて大きなため息をついた。
一方そのころ。
黒いセダンは、本吉原へは向かわず、吉原駅へ行って、駅前駐車場で止まった。
「で、電車で行くんですか?」
水穂が思わず言うと、
「はい。そうなんです。すみません。本当は直接ご案内したいんですけど、立地条件が悪くて、セダンが止められないんですよ。軽自動車であれば何とか入れるんですけどあいにく軽自動車を持っていないものですから、こうして近隣の駅から電車でいくことになります。幸い、彼の家は駅からすぐ近くですから、ご心配なく。」
ジョチは、どんどん車を降りて、吉原駅に入っていった。水穂も、彼の後を追って駅に行った。小園さんは、自分は電車に乗る必要はないと言って、同乗しなかった。
「えーと、本吉原までの切符は、これですね。はいどうぞ。」
ジョチは、すぐに切符を買って、水穂に渡した。二人が改札口まで行くと、
「水穂さん今日は。」
いつもどおり、吉原駅に勤務していた由紀子が声をかけてきた。しかし、一緒にいた人物が杉三やブッチャーではなく、立派な着物を着た、堂々とした人物だったので、驚いてしまった。もしかしたら、音楽関係者かなと思う。
「今日は何か、音楽関係の打ち合わせですか?」
思わず、声をかけてしまうと、
「ええ、僕は音楽関係者ではないのです。音楽というより、政治関係といえばいいですかね。」
と、カチッとしてジョチが答えた。
「政治関係?水穂さんが?」
思わず声を上げると、
「ええ。そうなんです。彼を、うちで運営している政党で、筆頭メンバーとして使おうと思っているのです。」
「政党?」
ジョチの答えに、由紀子は思わず声を上げるが、丁度そのとき、電車がやってきたので、それ以上は、質問はできなかった。ただ、その政党という発言を聞いて、水穂の青白い顔が、それまで以上に辛そうになったのは見逃さなかった。
二人は、連れ立って電車に乗り込んでいったが、水穂さん大丈夫かなあと、心配にならずにはいられない。
電車は、二人を乗せて走っていったが、由紀子は笑顔の裏で大きなため息をつく。
そのまま、本吉原駅に到着すると、二人は一両編成の赤い電車を降りた。
ジョチの案内で、二人は住宅地の間を通った。確かに、軽自動車一台がやっと通れるほどの狭い道で、セダンでは、とても通れない道路だった。
「はい、ここです。この家ですね。」
二人は、その一角にある小さな家の前で止まった。
「こ、ここ?」
「そうですけど何か?」
思わず聞いてしまうほど、小さな家であった。事業所と聞かされていたが、一般的な家庭と大して変わらない。
「何ですか。訪問先はここですよ。とにかく入りましょう。」
「あ、はい。」
ジョチは、何の迷いもなくインターフォンを押した。
「どなたですか?」
応答した声は、ちょっとどこか発音が不明瞭で、成人男性であることは間違いないが、どこか小さな子供の口調にも近かった。
「あ、曾我です。今日、こちらに伺うとお電話したはずですけど、八重垣さんいますか?」
「すこしお待ちください。」
暫くすると、ドアが開いて、
「どうもお待ちしておりました。今日はわざわざお越しいただきまして、ありがとうございます。ずいぶん早いご到着で、まだ、準備も何もできておらず、散らかっておりますが、どうぞおあがり下さい。」
立派な黒スーツに身を包んだ、30代初頭くらいの若い女性が出てきた。この人が、その八重垣さんという人物なのだろうか?
「えーと、お客様は?」
「はい、こちらの方です。えーと彼の名前は、」
ジョチが、水穂の肩を叩くと、
「は、はい。磯野水穂です。自己紹介が遅れて申し訳ありません。」
水穂は、急いで最敬礼し、挨拶をした。
「あ、どうぞおあがりください。八重垣です。あ、正式な名前は、八重垣麻弥子です。」
女性とは思えないはきはきした口調の人で、ちょっと引いてしまうのだが、ジョチに促されて、水穂は家の中に入った。
「どうぞ。水穂さん。もう、羊羹は用意しております。水穂さんが、羊羹が大好物なのは、曾我理事長より伺っております。そう思いまして、羊羹の中でも、特に有名な羊羹を用意させましたの。」
と言って、二人は、小さな居間の中に通された。製鉄所の応接室よりも狭い部屋であるが、しっかりとテーブルとソファーが置かれていて、客を応答できるような設備になっている。床には、イグサの敷物が敷かれていた。どこかのホームセンターにでも、普通に見られる簡素なものだ。
「どうぞ。座ってください。」
確かにテーブルの上には、羊羹が置かれていた。二人は、言われた通りソファーの上に座った。
「どうぞ、お茶でございます。」
先ほどの不明瞭な発音の男性が、お盆に湯呑みを乗せてやってきた。その顔は、一見するとモアイ像のように見えて、水穂は思わずびっくりしてしまう。
「ああ、ごめんなさい。彼は、先天性の障害で、頭が異常に大きくなってしまう病気で、知的障害があるのです。確かに、変な顔かもしれませんが、悪い人ではありませんから、普通に接してあげてくださいね。」
八重垣さんが、そう説明すると、男性が申し訳なさそうに頷いた。
「もし、必要なら障碍者手帳も持たせてありますから、拝見したいなら言ってくださいね。うちでは、障碍のある人には、必ず手帳を持たせてありますのよ。ほら、世の中には、演技している人もいますから、その防止のために。」
まあ、そういう事件は、多かれ少なかれ、報道されたことがある。
「しかし、ここは普通のお宅でしょう?事業なんて何をしているのでしょうか?」
水穂がそう質問すると、彼女はにこっと笑って、
「そうなんですよ。まだ試験的に始めたばかりの事業なので、軌道にも乗ってなかったんですけどね。でも、偶然曾我理事長が見つけてくれて、私たちの事業を高く評価して下さって、これは日本を変えるきっかけになるかもしれないから、私に国会議員に立候補してみないか、なんて持ち出してくださったんですよ。私が、興味本位で始めた事業なのに、曾我理事長は、大変感動してくださって、初めのころは半信半疑だったんですけどね。でも、理事長が、是非やってくれなんて、頭を下げてくるもんですから、私も、曾我理事長のお願いを受け入れることにしました。」
と、得意げに語った。
「事業ですか?な、何の事業ですか?」
「もう、水穂さん。きがつくのが遅すぎます。彼女が社長で、職場はこの家。仕事内容は先ほどのお茶の給仕ですよ。」
水穂が驚いてそういうと、ジョチも笑ってそう答える。
「ほら、説明してください。説明もできないようでは立候補もできませんよ。ある程度、口のうまさも必要になりますから。」
「あ、はい。そうなんです。例えば知的障害のある人は、日常的なことをこなすので精いっぱいで、外で仕事をするのは無理なのではないかと思われる人はたくさんいるんです。だけど、こうやって料理をしたり、洗濯をしたりすることはできる人もいますよね。でも、日本では、外で働くことがどうしても重視されて、日常の仕事は無駄になってしまう。だったら、そういう風にすればいいと思ったんです。つまり家事仕事を、知的障害のある人たちの仕事にしてあげればいいと。雇用形態のモデルは、イギリスのビクトリア朝時代にあった、メイドの雇用形態を参考にさせてもらいました。ほら、よく文献にも書かれるじゃありませんか。着替えを手伝うレディースメイド、部屋の掃除をするチェインバーメイド、お客さんの応対をするパーラーメイド、洗濯をするランドリーメイド、そういう風にいろいろいるでしょ。一人の手伝い人が一から十までの家事を全部やるという、今のメイドとは違って、昔はそういう風に、分業していたんですから、そういう風にすれば、知的障害のある人にも、こなせるんじゃないかしら。そう思って、今ここで実験的に始めたんですよ。幸い、彼も、ああして楽しく仕事をしてくれていますので、少しずつ軌道に乗り始めたかもしれませんわ。もちろん、今は男女平等の時代ですから、この事業に性別は一切関係ありませんのよ。意外にも、応募してくる方は、先ほどの方のように男性の方が多いのです。何でしょう。女性は抵抗があるのかしら。今の課題は、そういう偏見を払しょくすることかしらねえ。」
八重垣さんは、長々と説明を始めた。確かに、政治家として答弁するのなら、こうして長くしゃべることも必要なのかもしれないが、この長話を聞くことも、ちょっと、疲れてしまうのだった。
「ああ、ごめんなさい。私ったら、まだ駄目ですねえ。素人が政治に出ようなんて、今のの世の中は不可能ではないと、曾我理事長はおっしゃっていますけど、まだまだ難しいわ。」
「これでわかったでしょう。彼女を当選させるため、一人か二人に応援演説をしてもらう必要があるんですよ。まあ、幸い、党の本部には、僕が言っておきましたが、委員長も、是非やらせてくれと言っていました。だた、もう一人、強い味方がほしいと、党本部からも言われていますので、だれかよさそうな人材を探しておりました。」
ジョチと八重垣さんはそういう話をしている。
「ええ。ですから、お願いしようと思っているんですよ。幸い水穂さんは、女性の私から見ると、俳優並みに容姿が端麗ですから、そこを狙って集まってくる若い人たちも少なからずいるのではないかしら?決してお世辞ではありませんよ。学生時代とか、すごいもてたんじゃないでしょうか?きっと、お若いころはもっとお美しかったでしょうから。なんだか私も、水穂さんのピアノ、聞いてみたくなりましたわ。」
さすがに、政治家を目指す女性らしく、褒めの言葉を並べるのは達人と言えるが、水穂は最後まで聞くことができなかった。二人が話しているのは聞こえてはいたのだが、、、。
「どうしたんですか?具合でもお悪いのですか?」
ジョチが心配そうにそう聞いてくれるのだが、
「ごめんなさい、すみません。ただ、砂ぼこりが入っただけなんですが、、、。」
そう言いかけるが、猛烈な吐き気がして、最後まで言えない。
「砂ぼこり?こんな狭い庭に、砂ぼこりが立つはずはないし、今日は風なんか吹いていませんよ。」
確かに小さな庭が窓から見えるが、芝生がしいてあって、砂ぼこりが立つことはまずありえないし、確かに風もない。
「水穂さん、本当のことを言わないとだめですよ。」
ジョチに少し厳しい口調でそう聞かれたものの、
「すみません、吐き気が、、、。」
と、激しくせき込み、再び内容物が吹きだして、イグサの敷物の上に倒れてしまったのである。
そのころ。蘭の家では、蘭が下絵を描く作業を続けていたが、急に彼のスマートフォンが鳴った。
「あ、もしもし。伊能ですが、あ、由紀子さん。どうもご無沙汰しております。はい、え、水穂?彼がどうしたんでしょう?」
「ええ、ちょっと様子がおかしいなと思ったので、心配になってお電話をおかけしたのですが?」
と、電話口で由紀子が心配そうな声でそういっている。
「様子がおかしいって、何でしょうか?僕は何も知りませんけど?」
「え?蘭さんなにも知らされてないの?じゃあ、杉ちゃんに電話を掛ければよかったのかしら。蘭さんなら、何か知っているかもしれないと思ったんですが?」
素っ頓狂に聞いてきた由紀子に、蘭はさらに面喰い、
「どういうことでしょうか、、、?」
と急いで聞いてみた。
「ええ、水穂さん、今日吉原駅で電車に乗ったんですけどね。どうも顔色が変だなあと思ったんですよ。数時間後に帰ってきたんですけど、何だか歩くのもやっとっていう感じで、あたし、声を掛けることもできなかったんです。まあ、その時はご一緒してくれた方がうまく誘導してくれていましたので、何とか歩けてましたけど。そのあとどうなったのか、病院にでも行かれたのか、あたし、心配でたまらなかったので、、、。」
「ちょっとまって。由紀子さん。あの、一緒に行かれた方というのは、どんな人物なんでしょう?」
「あ、はい。あたし、具体的な名前は聞かなかったんですけどね、なんだか身なりもすごく立派で、歩き方から見ても普通の人ではないなってのが、ありありとわかる方でした。たぶん、会社でもやっている偉い方だったのでは?」
「にっくき波布のやつめ!絶対に許さん!」
蘭は、大声で怒鳴りつけて、そのまま電話を切ってしまった。由紀子さんが電話をしてくれたのもどこかへ消し飛んでしまい、すぐに製鉄所へむかうため、タクシー会社に電話を始めた。
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