第四章
第四章
「お母さん!お母さん!大変だよ!大変だ!」
ある日、晴の経営する製紙会社の事務所に、蘭が飛び込んできた。あまりにも突然だったので、晴も沼袋さんもびっくりした。
「どうしたの、そんなにあわてて。何かあったの?」
晴も、ここまであわてる息子というものは、なかなか見たことはない。
「いや、本当に大変だよ。波布が出たんだよ。波布が!」
「波布?ちょっと待ちなさい。ここは沖縄じゃないのよ。いくら夏が暑かったとしても、そんな毒蛇が出るわけないでしょう?」
「そうじゃないよ。ほら、波布だよ。前にうちの会社に来て、うつ病になってやめた、加藤さんっていたじゃないか!その加藤さんが損害賠償とか、何だとか言ってきたときに、手を貸してきた、あの男だ!お母さんが、波布と言っていた、あの男だよ、曾我正輝!」
「ええ?待ってください坊ちゃん、あの男は確か、社長が議員の先生にお願いして、焼肉屋の差し押さえを命令してもらって、やっつけてもらった筈ではないでしょうか?」
沼袋さんが、素っ頓狂な声で返答した。
「そうだけど、知らないの?お母さん、もう衆院議員の渡邊義正先生は昨年お亡くなりになったじゃないか。新聞にも書いてあったぞ。お母さん、沼袋さんと葬儀にでも出なかったのか?」
「出なかったわけがないでしょう。通知もきたし、ちゃんと出たわよ。奥様も、お嬢様もしっかりされて、次の衆議院議員選挙には、お嬢様の正子さんが立候補するから、安心してくださいねって、ちゃんと言ってたんだから。私はてっきり、そのまま引き継いでくれたのかと。」
「お母さん、そんな甘い考えをするからだめなんだ。いくら娘だからって、お父さんの思想を全部引き継いでくれるわけないでしょう。公約だって、父親の公約をそっくりそのままコピーするという、単純素朴な考えは持たないと思うぞ。」
「そうですよ、社長。昔のように、娘は父親の思想を全部受け継ぐわけじゃないんですよ。それに、あの先生がなくなると、確かに政権は弱体化するでしょうから、そこをねらって新しい党が次々と立っているそうじゃありませんか。」
晴がそういったものの、蘭も沼袋さんも今の時代の様子を語った。確かに、今はそうなっている。渡邊先生を支持しなかった議員が別の党として独立したということも聞いた。
「そうですか、先生がお亡くなりになったのをきっかけに、曾我正輝はまた牙を向きはじめたんですか。多分、先生がなくなって、邪魔がいなくなったから、絶好のチャンスだと思ったんですね。そういうことか、、、。」
沼袋さんは、腕組みをした。
「お母さん、最近、会社の中で大きな動きはなかった?誰か、大きな病気になった従業員がでたとか。」
「そうねえ。今のところいないわよ。特にうつ病になった者が出たということもないし、私だって、今は時代ということもあり、軽々しく発言しないように、気をつけてるわよ。」
「社長の気をつけるは、まだまだ足りているとはいえないと思いますが、、、。」
沼袋さんは、頭の痛そうに言った。
「沼袋さん、今は、そんなことはいいから、とにかく会社の中で起きた変化を!」
「まあね、確かに先日、一人の職人が、退職するんじゃないかっていう噂がでたことはあったにはあったわ。でも私が酷い発言をした覚えはないし、私の発言のせいで彼が退職するという事は、まずないわよ。それに、もうとっくに問題は解決して、彼はちゃんといつもどおりに働いてくれるようになったんだから、もう大丈夫でしょ。」
また得意そうにそういう晴である。
「じゃあ、その職人さんは、どんな理由でやめるといいだしたんだ?他の従業員にいじめられたとか?」
「違うわよ。いじめられたなんて、そんなことあるわけないでしょう。少なくとも、今うちの会社で、いじめが発生したとか、そのようなことは全くないわ。彼は、私的な理由で勝手にやめると言い出したの。子供を長時間預けすぎって、保育園に注意されたんですって。勤務時間を短くしろなんて、不条理な要求してきたのよ。私としてみれば、こんな忙しい時に、そんなことやってられないって言ったのよ。そうしたら、退職するって言い出して。」
晴は頭の痛いはなしをはじめた。
「でもね、突然勤務は通常で良いことになったから大丈夫だって言い出して、退職はしないでくれたから、いつもどおりに働いてくれてるわ。私たちはもう、また人数が減るのかと、冷や汗ぐっしょりだったけど、これで安心できたわよ。まあ、子供が絡んでくることは、よくあることね。最近は。」
「しかし、お母さん。何で突然そんなことを言い出したんだろうね。そんな保育園との軋轢、そんな風に簡単に、解決できるもんじゃないだろう?」
蘭がそう疑問をぶつけると、
「ああ、それはね。なんだか近隣に別の保育園ができて、そちらで長く預かってもらえるから、大丈夫になったって言ってたわよ。だから、そうなのとしか思わなかったけど?」
と、のんびり答える晴。
「なるほど!波布の仕業だな!その保育園はきっと波布が、家の会社を監視するために、建てたに違いない!建物を建てるなんて、波布にとっては、簡単なことだろうし、多少金を出してもなんとも思わないよ!」
「しかし、坊ちゃん、この近隣に、新しいたてものがたたったという情報は一つもありませんよ。」
沼袋さんが訂正するが、
「まあ、確かに空き家は多いわねえ。それも、一般家庭ではなく、空き事務所というのかしら。例えば、この近くに老人ホームがあったけど、それも倒産しちゃって、使い道に困ってたんだけど、あるシェフが買い取って、昨日からレストランになってたわよ。」
と、晴が呟く。
「それだよ!お母さん。きっとその空き事務所の一つを買い取って、保育園として改造し、そこにお母さんの会社の従業員の子供をわざと預かるように仕向けて、うちの会社の様子を伺って、総攻撃の機会を待っているんだよ!議員の先生が亡くなって、波布はもう一回、家の会社を潰そうと、牙をむいたに違いない!お母さん、何か対策を立てなくちゃ!」
「そうですね。確かに共通点はありますよ。手口が明らかに似ていますね、、、。」
「ちょっと待ちなさい!二人とも。手口が似ているなんて言うけど、加藤さんのときのように、私は彼に対して酷い発言した覚えはないわ!」
蘭と沼袋さんがそういうと、晴が女性らしく反論した。
「社長、すぐに逆上するのはやめましょう。そういうところこそ、波布がねらいをつけてくるところですよ。いいですか、加藤さんの時もそうでしたが、今回も彼は小さな子供さんがいる年齢でしょう。そんな年齢で、手すき和紙製造会社で働くのは、実に珍しい年齢ではありませんか。加藤さんもそうでした。つまり、会社内で一番若い人間から手を出す。これが波布の手口ですよ。一番若い人間であれば、まだ、社会経験が少ないわけですから、簡単にその手に乗せられて、情報を聞き出すことも可能でしょう。若い人間をまずとらえて、それを動かすことから始める、というのが波布の手口です。加藤さんもそれにまんまと乗って、波布にいわれた通りに動いたんですよ。そうしなければ、あんな流暢な嘆願書、加藤さんに書けるわけがないじゃありませんか。ほら、社長も覚えているでしょう?加藤さんという人は、随分文才があって、小説家にでもなれそうなくらい上手に告発文書を書くんですなあ、って、弁護士の先生が言っていましたね。」
沼袋さんはなかなか雄弁だ。
「お母さん、そういうことだ。20代から30代そこそこの若い人が、小説家と同じ様に上手に文章を書いて、告発するなんて、ありえない話だ!よほど才能があるのなら別だが、加藤さんはそんな能力はないって、お母さんは散々いっていたじゃないか。あの文章の書き方を教えたのは、波布だよ!今回も、もしかしたら波布が、その職人さんをそそのかして、うちの保育園に来いとか言ったのかも知れないぞ!」
「だけど、何で今になって、彼が、家の会社に手を出すようになったの?あたしたちの会社を潰すのは、諦めたんじゃないの?」
「お母さん。諦めるなんて、きっとしないよ。本物の波布だって執念深く攻撃するじゃないか!きっと、うちの会社を潰すたくらみを、まだ波布は持っている!そして、攻撃するチャンスをじっと伺っていて、今になって少しずつ、牙を剥いてくるようになったんだ。このまま放置したら、きっとその職人を通して、あれやこれやと手を出してくるに違いない!うちの会社は、このままでは波布に潰されるぞ!」
「だけど、困るわよ。彼にはいてもらわないと。今だって、紙の注文が多すぎて、作るのが間に合わないの。もう、人が足りなくて困っているんだから!減らすわけにはいかないわ。まだ働いてもらわなきゃ。」
「お母さん、、、。」
蘭はがっくりとため息をついた。
「そうなんですよ。坊ちゃん。手すき和紙が最近またブームになっていて、段々に販売をしたがる、文房具屋なんかも増えているんですよ。だから、作る側としては、生産が追いつかなくて困っているんです。」
沼袋さんも、会社の現状を言った。確かに、二十一世紀になってから、伝統工芸品はまた見直されるようになってきていて、少しずつ売り上げも増してきているというのは事実である。それは良いことかも知れないが、作る側にとっては、急に増産を命じられて、苦労させる話しだ。
一方、製鉄所では。
「ああんもう、大丈夫?せっかくよくなったと思ったら、又咳が出るようになったわねえ。元の木阿弥とはこのことだわ。」
恵子さんは、咳き込んでいる水穂に、ご飯の皿を渡した。
「すみません。多分、砂埃がはいっただけだと思います。」
水穂は、そういって、ご飯を口にした。
「何を言っているの。今日は砂埃が出るほど、風は吹いてないわよ。普通のご飯で良いって言われたって言うから、気合を入れて作ってきたのに、何でまたこのタイミングで。」
返答しようと思っても、代わりに咳が出て、思わず茶碗を落としそうになってしまう。
「すみません。ほんとに、すぐに逆戻りで、、、。」
それだけやっといったものの、さらにせき込んでしまうのであった。
「ちょっと、ほんとにどうしたの?最近何か変よ。一時よくなったと思ったら、今日はそうやって咳き込むし、顔つきもまた白っぽくなってきて。病院で何か言われたの?それとも、薬の変更でもあったの?」
「病院なんてもうないんです。昨日連絡がありました。後任の医者を見つけられなかったのと、赤字経営の連発で、もう廃院になるそうです。」
これには恵子さんもびっくりしてしまう。
「でも、他の患者さんたちが、いるじゃない。その人たちが、文句言わなかったの?」
「誰も出なかったそうですよ。文句言う人なんて。あの医者がいなくなってくれて、本当によかったねえって、皆さん口々に言ってます。外来だけではなく、入院患者に対しても、暴言を吐いたり、治療体制もずさんで、有名だったそうです。」
「まあ、じゃあ、かえってよかったのかもってこと?それならそれで良いわ。杉ちゃんからも聞いたわよ。患者さんにひどいことを平気で言う医者がいるくせに、あの病院がなぜ続いているのか不思議なくらいだって。」
「そうなんですが、僕みたいな人はどうなるんでしょう。」
「もう、落ち込む必要もないでしょう。昔は確かに一人ぼっちだったかもしれないけど、今は親切な焼肉屋の理事長さんが、味方になってくれたんだし。この前ここに来てくださったときも、又何か必要なものが出ましたら、すぐに調達しますので言ってくださいね、なんて親切に言ってくださったのよ。」
その言葉を聞くと、思わず震えが出る。
「だけど、病院は物じゃないのですから。」
「多分、同じことよ。そういう相談だって乗ってくれるわよ。ちゃんと言えば。病院が潰れてしまったんだけど、代理でよさそうなところを知りませんかって、今度来たときにでも、言ってみたら?それに、曾我さんだって耳鼻科に通っていたんだから、少し考えてくれるんじゃないかしら?」
そういわれればそうなのだが、逆に反論できなくなってしまうのだった。もう、強い味方を得たのだから、その人に頼ればいいのだ、という励ましは、逆にその人さえいれば、何でもなるので、自分には声をかけるなという事を意味することになり、逆に既存の味方が減る、ということにもなる。
「そうなんですけど、、、。」
「水穂ちゃん、せっかくさ、強い味方ができたのに、その人を、いらないなんていうのは、ある意味我侭よ。それじゃあ、悪いでしょう?忙しいのにわざわざ気にかけてくれるなんて、うれしいことはないじゃない。とにかくね、聞いてみないとわからないし、もしかしたら、何か教えてくれるかもしれないわ。こういうときは、有力な人を頼るのも悪くないわよ。それより、今はご飯でしょ。ご飯。」
恵子さんは、落としそうになっていた茶碗をすぐに持ち上げた。
「ほら、食べて。食べないと、ほんとに力も出ないわよ。」
「すみません。」
箸を取り直すと、また咳き込んでしまった。恵子さんが、背中を叩いてくれるのが救いだった。
「ほらほらほらほら。しっかりして。早く診察受けれられて、新しいお医者さんが見つかると良いわね。」
そういう言葉ほど、役に立たない言葉はないのである。
でも、そんなことを言ったら、またわがままだと言われる。
だから何も言わないで箸を取るしか、ないのであった。
とりあえず、咳き込みながら、その日は何とかして食事を取ることに成功したものの、少なくともそれ以降、体調は回復しなかった。
翌日。
あわてんぼうの新聞配達員が持ってきた岳南朝日新聞を広げた蘭は、目を見張るほど驚いた。
「な、何だこれ!こんな記事!」
「どうしたんだよ。蘭。」
杉三が、そう声をかけても、蘭は暫く答えが出なかった。
「どうしたんだよ!」
杉三に怒鳴られて初めて気がつく。
「うん、これだ。あ、そうか読まなきゃいけないのか。いいか、落ち着いて聞けよ。生田記念病院、劣悪医療が明らかに、というタイトルだ。かいつまんで言うと、あの病院が潰れたんだよ!」
「へえ、何でだ?」
「なんとも、診療報酬を患者から騙し取ったということで訴えられたんだって!看護師がさほど多く人数がいたわけではないのにいるようにして、その人分、余分な人件費、つまるところ看護料金を騙し取るんだ。」
「はあ、、、。つまり、金を取りすぎていたのか。水穂さんも、手術で入院した時に、大量に金を取られたりしなかったかなあ?」
そこで蘭ははっとした。つまり、あの時病院に金を払ったのは、水穂ではなく、曾我正輝である。と、いう事はつまり、曾我正輝がこの事実を掴んでしまい、警察に告発して、病院を詐欺の疑いで捜査するように、依頼してしまったことは大いに想像できる。
つまり、
「これも波布の仕業か!にっくき波布のやつめ!絶対に許さん!」
蘭は、思わず、テーブルをバアンと叩いた。
一方、富士警察署では、華岡が、生田記念病院に通院あるいは入院していた患者たち、あるいはその家族たちから、被害状況を聞き出す作業を行っていた。今日は、最近まで入院していたが、父親が別の病院に転院させたために助かったという、ある若い男性患者とその母親に聞き込みをしている。
「もう、あんまりにも酷いものです。家の子が痛いと言っても何も聞かないで、特に強く言ったら、強い睡眠剤で眠らせて黙らせるし。見舞いに行っても、眠っているので面会はできませんの一点張りでしたので、私たちは、長くそれを知ることができませんでした。今考えてみますと、あんなずさんで、なぜこんなにお金を取るのか、わからなかったくらいです。」
お母さんが一生懸命訴えている。その表情からみると、多分嘘を言っているとは考えられないだろう。
「お医者さんも、こんな酷い病気の人間をみてやるのはうちだけだから、必ず従えよ、なんて脅かすんです。だから、他へ行きたいとどうしても言い出せませんでした。でも、我慢できなくて、お父さんにこっそり言って、試験外泊と言って病院を出て、ほかの先生に診てもらって、やっと脱出できました。
と、入院していた男性が、そういった。
「そうですか。で、肝心の治療はどうだったんですか?」
華岡が聞くと、
「ええ。別の病院に診てもらったら、何だこれって言われました。これでは、何も意味はないとも言われましたよ。僕は、その先生から、すぐに新しい薬を貰ったので、回復できたのですが、中には、ずさんな管理のために、お年寄りなんかは、とんでもない症状でなくなった方も少なくないようです。」
と、答えを出す男性に、すかさずお母さんもこう切り出す。
「そうなんです。私もびっくりしました。この子の隣の部屋のおばあさんが、ある日突然なくなった時に、ご家族が、おかしいと思って調べてもらったところ、死因は、ただの風邪をこじらせただけで、ちゃんと抗生物質があれば、治る程度のものだったのだそうです。しかし、病院側は、持っていた病気の悪化だと言って、聞かなかったそうです。」
「そうですか。そこがもう少し明らかになれば、ある意味では犯罪行為になるかもしれませんね。わかりました。ほかにも、そういうことを訴える患者さんはたくさんいますので、これでは、この病院の劣悪ぶりは、まだまだひどいということになりますな。」
華岡は、二人の話を聞きながら、本当におかしな病院というものは、大阪の大和川病院だけではなく、どこの世界にもあるんだなあ、、、と思ってしまった。
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