第二章

第二章

今日も、伊能晴が経営している、製紙会社では、いつもどおりに製紙業が稼動していた。紙を漉くための職人が何人か在籍しているのだが、その職人なしでは何もできないというのが、製紙会社というものである。とにかく、いつもどおりに人手不足に悩む製紙会社では、一人でも人数が欠けると、上手くできないというものである。だからいつでも誰かがやめるとなれば、一大事になるということである。

「あの人、やめるつもりなんだろうけどさ、やめたらどうするつもりなのかしら?」

女性の事務員が、ある職人について噂しあっていた。

実はこの職人、会社への熱意はあるのだが、年が若く、小さな子供がいることにより、勤務時間が長すぎて、保育園に文句を言われたことがある。それで、社長である伊能晴に、一時間早く退社させてもらえないかと、訴えたことがあるが、晴は、甘えるなと言って、受領しなかった。

と、言うわけだから、やめるという噂が立ってしまったのだ。晴に反抗したものは、厳重な仕打ちが待っているというのは、もう会社中の常識に成っているのである。

ところが、その職人、そんな噂をしていた事務員に向かって、にこっと笑いを返したので、一瞬彼女たちはぎょっとなった。

「すみません。社長室に通していただけないでしょうか?」

笑顔満載でそういう職人。

「社長室?」

「ええ、いい知らせができたとお伝えできませんでしょうかね。」

「はあ、、、。なんでしょうか。」

「ええ。そういうことです。とにかく、いい知らせを社長にお伝えしたいんですよ。」

「はい、、、。」

とりあえず、事務員は彼を社長室に連れて行った。

社長室では、晴が、いつもどおりに書類を書いていたが、

「社長。良い知らせです。入らせていただけないでしょうか?」

と、声がした。

「何よ。今忙しいんだから、後にして頂戴よ。」

「そうじゃなくて、すぐに勤務に入りたいので、入らせてほしいのですが。」

「仕方ないわね。」

晴は、しぶしぶ立ち上がって、社長室のドアを開けた。

「おはようございます。社長。良い知らせを持ってまいりました。」

なんだか自信を持って堂々と入ってくるその職人に、晴は驚いてしまう。

「なんですか。いい知らせって。」

「はい。実は、子供を預ける別の保育所が決まりましたので、勤務時間、変更する必要はありません。子供はその保育所であれば、勤務時間終了後であっても、近くですから迎えにこられます。ですから、これからも、未熟な職人ですが、よろしくお願いします!」

思わず、口をあけてポカアンとしてしまう晴であった。

「ちょっと待ちなさい。別の保育所って、どこにあるの?この近くにあるの?」

「はい。社長は知らないんですか?あ、そうか、子供さんも独立されているのですし、そういう事は、あまり知らないかもしれませんね。実はですね、製鉄所からすぐ近くに、伊澤保育園という保育園が建設されましてね、そこが園児募集をしたものですから、そこに入らせて貰うことが決定しました。ですから、遠方の保育園に迎えに行く必要はありません。ですから、今まで通り、こちらで働かせて頂くことができます。これからも社長、どうぞ、よろしくお願いします!」

「伊澤保育園?そんなものあったかしら、、、?」

聞いたことのない保育園なので、思わず考え込んでしまう晴であったが、

「はい、あるものはありますよ。社長。小規模な保育園ではありますが、良質な保育を売り物にしていることで、少しずつ有名になっているそうです。少子化時代といいますが、保育園は重要なものになってますからね。ま、良かったですね。こういう救世主が現れてくれたので、家の家族も喜んでいます。では、勤務に戻りますので、これからも従業員として、よろしくお願いします!」

と、職人は、でかい声で言って、社長室を出て行った。


確かに、伊澤保育園という建物が、晴の会社から、歩いて数分近くに立っていたが、まだ、開園したばかりの、仮の段階で、看板も「伊澤保育園」という木の看板を、それまであった看板に暫定的に貼り付けてあるだけである。

保育園の庭では、何人かの子供たちが、大縄跳びをして遊んでいた。そのときに、一台の黒い車が、保育園の前で止まった。そこから降りてきた人物の顔を見て、子供たちはすぐに遊ぶのをやめて、彼の方へ駆け寄っていった。

「理事長先生、こんにちは!」

礼儀正しくしっかりと挨拶する子供たち。

「はいはい。挨拶ができて偉いのはわかるのですが、僕は保育士の先生とは違うのですから、先生というのはやめましょうね。」

そこへ、園長の伊澤という、園長にしては若すぎる女性が、建物の中からやってきた。

「どうもすみません。曾我理事長。私たちが、理事長と呼んでいるものですから、子供たちもそれで覚えてしまったようです。」

「そうですか。それでは、園長の貴方から、先生と呼ぶ事をやめるように言ってくれませんか。僕は、確かにこの園を建てることに、一役買ったことは確かですが、保育士の資格を持っているわけでもないし、実際保育現場で保育をしているわけではないのですから、先生と呼ばれる理由はありません。理事長といっても、保育園の経営をしているのはあなた方であり、僕が理事長というのは名ばかりなのですから、僕のことはただのお節介おじさんと呼んでいただければ、それで結構ですよ。」

ちょっとばかり照れくさそうに、ジョチはそう答えをだしたのであるが、

「いいえ、理事長、私たちにとっては、恩人みたいなものですから、そのまま理事長と呼ばせてください。」

と、伊澤園長に、さらりと返されてしまった。

「ええ、まあそうなのかもしれないですけど、勝負はこれからですよ。僕自身は、貴方の保育方針を高く評価していますが、貴方のやり方は、必ず公立保育園などが黙っていないはずだ。そこと戦っていかなければなりません。もともと、30代の貴方が、私立の保育園を建てようなんて、公立保育園のやり方とは相反するものですからね。必ず、何か手を出してくるでしょう。もし、具体的な被害が出ましたら、対策を考えておきますので、遠慮なくお申し付けくださいね。」

「ええ、わかりました。私は、まだこんな若造なのかもしれませんが、子供に対する愛情はぴかいちであると思っています。だから、保育士の先生方が、子供たちにたいして酷いこと言っていたのが、我慢できなかったんです。そうじゃなくて、もっと、スキンシップを大事にした、愛情深い保育をと思って、保育園を退職して、自宅でやっていたんですけど、まさか理事長が、こんな立派な建物を売却してしてくれるとは思いませんでした。本当に、その節は、ありがとうございました。」

伊澤園長は、若い女性らしく純粋な、顔で感謝の意を示した。

「ここで大げさな身の上話をされても、困りますよ。主役は、あくまでも貴方ではなくて、この子達なんですから。彼らが、公立保育園の、心無い保育士から罵倒され続けて、傷ついているということを忘れず、上級学校に上がって健全な生活ができますように、愛情を注ぎ、教育し続けて、あげてください。」

「はい。わかりました。一生懸命やっていきます。これからも様子を見に来て下さい。この子たちが、健全に暮らしていけますよう、胸を張って、精一杯やっていけるように、私も努力します。」

「理事長先生、一緒に遊ぼうよ。」

「ねえ、大縄跳びやらない?」

ジョチと伊澤園長がそんなはなしをしていると、無邪気な子供たちがそういってきた。

「はいはい。遊んで行きたいのはやまやまなんですが、今日はもう一軒訪問しなければならない場所があるので、すぐに帰らないといけないんですよ。」

「ええー、何で。一緒に遊ぼうよ。だって、先生たちは、女の人ばっかりなんだもん。」

子供の一人が、子供らしく正直に言った。確かに保育士というと、どうしても女性ばかりになってしまうのは否めない。子供の側から見れば、父親代わりに遊んでくれる男性の存在も、必要なのかもしれなかった。

「そうですか。それじゃあ、園長にお願いして、若い男性を雇ってもらうんですな。事実、保育士の仕事は、ある意味では力仕事でもあるわけですから、男性が一人か二人、いてもよろしいのではないですか?」

「そうかあ。それ、誰に頼めばいいの?園長先生は、ここで一番偉いのは理事長先生だって、言ってたよ。パパの会社でも、理事長はいるけど、理事長は社長さんより偉いんだって言ってたよ。」

おませな顔をした女の子が、そう聞いてきた。女の子という事もあり、大人の話していることには、すぐに首を突っ込んでしまうのである。

「そうかもしれませんが、一応、この園の責任者は園長さんです。だから、そういうお願いはまず、彼女に言ってくださいね。」

そういいつつ、ジョチは右手にはめた腕時計で時間を確認した。

「さて、そろそろ帰らないと。次の訪問先の、約束の時間に間に合わなくなりますから。」

「ええー。遊んでもらえないのかあ。」

がっかりする子供たち。

「ほら、あんまり邪魔すると、理事長先生に迷惑よ。もうすぐおやつの時間だから、あなたたちも、部屋に入って。」

伊澤園長が、子供たちに部屋に戻るように促した。

「また来てね。」

「よろしく。」

名残惜しそうに、部屋に戻っていく子供たち。中には手を振っているものもいる。そういう、かわいらしい笑顔を見せる子供たちは、元の保育園で散々暴言を言われてきたのだろうなと思うと、やるせなかった。

子供たちが、全員部屋に入っていくのを見届けて、ジョチは車に戻っていった。こういう子供たちこそ、日本の将来を担っていく存在になってもらいたいなと思うのだった。

「じゃあ、つぎはどこへ行くんでしたっけ。」

小園さんが運転席でそういうと、

「ええ、製鉄所へ。」

と、それだけ答えを出した。

「はい。」

車は製鉄所の方へ向かって走っていく。


製鉄所に到着すると、恵子さんが、走ってきて出迎えた。

「どうもこんにちは。忙しいのに、頻繁に訪問してくださって、ありがとうございます。今朝も冷え込みましたねえ。もう、富士山も真っ白になってますよ。」

恵子さんは、おばさんらしくあいさつをした。ジョチは、軽く頭を下げて車を降りる。

「まあ、そうですね。今年は暖冬といいますが、どうも当てにならなくなりそうですな。」

「ええ。どうぞおあがりくださいませ。水穂ちゃんも部屋の中で待っていると思いますので。お会いできるのを、楽しみにしていると言っていましたから。」

恵子さんはそう言いながら、玄関へ招きいれた。

「お邪魔します。」

とりあえず、ぞうりを脱いで、製鉄所に入らせてもらう。ジョチは、製鉄所の中を冷徹に観察した。

「何も面白いものはないですけどね。もう、みんな利用者さんたちから、貰ったものとか、そういうものばっかりで、つまらないでしょ。」

「失礼ですが、この油絵は誰が描いたものでしょうか。」

と、廊下の壁にかかっている油絵を指さす。

「あ、もう、これは以前ここを利用していた方が、ここをでる寸前に描いたものですよ。彼女は、親御さんと、美術学校への進学でもめて、この製鉄所にきたんですけどね。今は、念願の美術学校へも進学して、海外で画家として活動しているそうです。」

恵子さんは、照れくさく答えた。

「つまり、絵のモデルになった人物は、恵子さんなのですか?」

「ええ。でも、彼女はまるで下手で、あたしはこんな美人ではありませんよ。こんな美人に描くなと散々言い聞かせたのに。全く、もう、どうしようもないですねえ。本当に困りますわ。」

「はあ、そうですか。僕としては、彼女の絵の才能に感謝すべきだと思うのですが?困るなんて言うものではありませんよ。それでは行きましょうかね。」

そう言いながら、ジョチは廊下を歩いた。恵子さんは、照れくさい気持ちを抑えられず、笑い出してしまった。

「で、彼はどうなのです?前回訪問したときよりも、具合はいかがですか?」

「ええ、だいぶよくなったようで、前回よりも食欲が出て、食事を取ってくれるようになりました。本当に、あの時はありがとうございました。もう、何回感謝しても、足りないくらいです。理事長が、ああしてくれなかったら、水穂ちゃん、確実に助からなかったって、青柳先生も本当に感謝していましたわ。もう本当にありがとうございます。何回お礼しても、あたしは足りません。あとは、水穂ちゃんが、体調を回復させて、再びピアノが弾けるようになるのを、心長く待っています。」

「お礼など、もう結構ですから、彼の現在の様子について教えてください。」

「あ、ああ、ごめんなさい。余分な事ばっかり言って、もう年ですね。あたしも。」

「年齢を聞いたのではないのですけどね。」

「あ、すみません。とりあえず、今は寝たり起きたりして、少し様子が良いときは、何か書いたりしているようです。」

「何か書く、、、。そうなんですか。一体何を書くのですか。」

「私はわかりません。元々、毛筆なんて、そんなに詳しくないですし。」

「そうですか。もし、可能であれば、彼が何を書き始めたのか、さりげなく観察してみてください。」

「はい。わかりました。じゃあ、部屋はここですから、どうぞ。あたしは、利用者たちの食事作りがありますので、あとはお任せします。」

恵子さんは、ふすままで案内すると、そのまま台所へ行ってしまった。

「こんにちは。」

何の迷いもなくジョチはふすまを開ける。

「あ、どうも。」

水穂も、浴衣から、いつもどおりの羽織と着物姿になって、彼に座礼した。

「もう着替えても良いことになりましたか?」

そう言いながら、ジョチも彼の隣に正座で座る。

「ええ。いつまでも寝ていると、体だけではなく、頭も鈍るかなと思ったので。」

「そうですか。いい傾向ですね。いつまでも寝ていてはいけないと思うのは、それだけ体調がよくなった証拠でもありますし。」

そういうと、水穂は少し不安そうな顔をした。

「どうしたんです?」

「あ、ちょっと不安な事がありまして。なんとも、僕の担当医が辞表を出したらしく、後任を決めるのに、すごく苦労をしているらしいので。」

「そうですか。まあ、このご時世ですからね。医師不足と言うのもあり、優秀な医者をつれてくるのは結構一苦労なのではと思います。」

予想外の反応だったので、水穂はこう切り出すことにした。

「何か、院長から言われなかったのですか?」

「いえ、知りません。医者が勝手に辞表を出しただけで、僕は何も聞いてはおりませんが。」

ジョチは、何食わぬ顔でそう答えるだけである。

「それに良いのではありませんか。貴方に対しても、江戸時代からタイムスリップなんて暴言を出すだけでなく、他の患者に対しても暴言を吐いたことで有名な医者だったんですよ。その医者が、内紛を起こすことなく、自らの意思で病院を退くというのですから、患者である、貴方にとって、これほどの幸運はないはずです。これからの医者が、患者に対して暴言を吐くような、レベルの低い医者でないことを祈りましょう。」

「そうですが、少なくとも僕の手術のあとは、そのようなことはありませんでした。しかし、先日、僕に診察をしたときに、あの医者が突然こう言い出したのです。短い間でしたが、貴方を診察することができて、本当によかった。暫く、この病院を退き、海外の無医村に町医者として赴任することにします。そしてこれまで、医者としての過ちを改心し、より、患者に寄り添える医者になって帰ってきますので、どうぞ貴方も、お体を大切にして、頑張ってくださいと。」

水穂は、先日の診察で言われたことを話した。

「そうですか。それでは、貴方が医者の改心に一役買ったわけですから、それでよかったのではないですか。杉ちゃんが以前言っていた通り、あの医者は、これまで多数の患者に暴言を吐いてきた馬鹿な医者です。天罰が下ったと考えればいいのですよ。」

「本当に、何も知らないのですか?」

「ええ。僕は、患者の一人ではありますけれど、耳鼻科の患者ですし、呼吸器内科のことは全く知りません。呼吸器のことは、たまに院長が話してくれる程度です。」

ジョチは、そんなことどうでもいいじゃないかという顔で言った。

「そうですか、、、。」

そうなると、彼が仕組んだということはないのかなと思った。

「それより、お体はどうなのです?先ほどの恵子さんの話を聞きますと、もう食事もできるようになったそうですね。それでは、もうすぐ、お外にも出ていただけるようになりますかな。」

「ええ、、、。」

返事をする前に、久々に吐き気を感じた。内容物を出したいと思い、またせき込んでしまう。

「大丈夫ですか、水穂さん?」

「あ、すみません、申し訳ないです、、、。」

せき込むと、口に当てた手に、また内容物が付着した。

「ああ、また、またやる。」

「ごめんなさい。すぐに止まると思うんですけど。」

ところが、すぐどころか、いつまでたっても止まらないで、せき込み続けるのである。

「こういうときはですね、前かがみになるよりも、こうしたほうが、気道が広がって楽になるもんですよ。ちょっとよろしいですか?」

ジョチは、水穂の背を捕まえて、軽く背をそらせるような姿勢をさせた。

「はい。ゆっくり呼吸してもらえますか。そうですそうです。はい、お上手ですね。いいですよ。それでいいです。誰かに手伝ってもらって、こういう姿勢を取るほうが、早く止まります。はい、そうです。いいですか、もし、またこういう症状が出たら、すぐに人を呼んで、こういう風にしてもらってくださいね。対策として。」

指示に従ってその通りにすると、少しずつ吐き気も収まってきて、せき込むことはなくなった。

「あ、はい。すみません。もういいですから。ありがとうございます。」

「横になったほうがいいですね。座っているのもおつらいでしょうから。」

「ありがとうございます。」

ジョチに肩を貸してもらって立ち上がり、布団に横にならせてもらった。

「どうもこの布団はおかしいですね。呼吸器に問題があるのなら、このような扁平な布団ではいけないのを、だれも知らないのでしょうか?」

「ええ、今までこのままでしたけど。」

「そうですか、わかりました。それでは誰も知らないのですな。じゃあ、僕が何とかしなければなりませんね。ちょっと、お電話させていただけませんでしょうか?」

「お電話?誰にですか?」

「あ、はい。小園さんにですよ。ビーズのクッション一つ、買って来ていただくようにと頼むのです。」

そういって、ジョチはカバンの中からスマートフォンを出して、電話をかけ始めた。どうも、親切にしてくれてありがとう、という気にはなれなかった。


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