杉ちゃん医療編 第二部 波布とマングース
増田朋美
第一章
波布とマングース
第一章
製鉄所の池に初氷が見つかった。まあ、そういう季節がやってきたということであるが、なぜか今年は、そういう季節の変わり目というものが、特にいとおしいというか、なんだかほっとするのである。まあ、それだけ、夏が暑かったというか、すさまじいものだったのだろう。台風は頻発し、大地震は起こるし、とにかく、危険な季節だったといえる。まあ、それが終わって、冬がやってきたということは、なんだか、安心したというか、嬉しいなあというか、希望を感じさせた。
今日も、恵子さんに作ってもらったおかゆを食べて、お医者さんにもらった通りの薬を飲み、さて、又寝ようかなと水穂が考えていたところ、ふすまががらりと開いて、恵子さんが入ってくる。
「あ、ご飯食べたのね。どう?全部食べられた?」
「あ、はい。」
おかゆのお皿を恵子さんに差し出す。中身は空っぽになっていた。
「まあ、今日も完食?良かったわねえ。気分はどう?何か変わったことは?」
「特に変わりはありません。かったるさも頭痛も何もないですし。」
「そう!よかったわねえ。だいぶ食欲も出てきたし、手術する前と比べると、顔色も随分よくなったわよ。」
「そうですか。あんまり自分の顔なんて意識したことはありませんが。」
「いいえ、そうやって普通に言葉が交わせる事も、いい変化じゃない。前みたいに、一言一言話す度に、咳き込む事も全然ないでしょ。ほんとによかったじゃない。やっぱり餅は餅屋ねえ。手術して、本当に良かったわ。安心した。」
恵子さんは中年らしく、感慨深く言った。
「この調子なら、もうちょっとしたら外へ出ても良いって、青柳先生が言ってたわ。かといって、はじめは遠くには行かないで、少しずつ慣らしていってね。そのときは、焼肉屋の曾我さんも、協力してくれるって、言ってたわよ。」
「あ、そうですか。ジョチさんが、そんなこと言ってましたか。」
「ええ、はじめは音楽会とか、展示会とか、そういう体に負担がかからないところへ出ることからはじめて。行きたいところがあれば、車出しますからって、そう言ってた。」
「あ、ありがとうございます。本当に何から何までやってもらって。なんだか申し分けないくらいですね。あの方には。」
「そうね。手術の費用まで出してくれて、退院してもこうして声をかけてくれるんだから、ほんとにすごい人と、知り合ったのねえ。人脈の神様に感謝しなさいよ。」
「あ、はい。あれはあの時、病院で。偶然という物は恐ろしいといいますか。なんだかあの時は、杉ちゃんが強引に、、、。」
正直に言えば、水穂もよくわからないうちに知り合ってしまったのである。でも、杉ちゃんにしてみれば、そういうやり方で友達になってしまうのは当たり前であるから、それに便乗して、自分も助けてもらったとしかいいようがない。
「まあね、杉ちゃんはそういう著名な人物と友達になるのは、もう、十八番なの、水穂ちゃんも知ってるでしょ。だから、それに便乗して、幸運を掴み取っちゃえば、それでいいのよ。」
「そうですけど、なんだか不自然な気がするんですよ。」
「不自然?水穂ちゃん、こうでもしないと、あなた、血まみれになって永久に帰ってこれなかったかもしれないのよ。もしかして、あの時もう二度と顔を見ることも叶わないんじゃないかって、おばさん、内申心配だったんだから。それを見事に解消して、帰って来てくれたんだから、もうちょっと、おばさんの気持ちも考えて頂戴。青柳先生だって、厳しいことばっかり言っているようだけど、本当は、嬉しくて仕方ないんじゃないかしら。ブッチャーだって、脈が弱くなった時は、気がおかしくなりかけたそうじゃない。それをみんな助けてくれたんだから、とにかく、曾我さんに感謝して。そして、こういう幸運をつかめて、それを与えてくれる、すごい金持ちもいるんだって、考えと体を治して、もう一回ちゃんと生きなおして。これで、体が回復すれば、また演奏ができるかもしれないじゃない。そうすれば、又、ゴドフスキーの達人として、音楽界に戻れるわ。そうでしょう?」
恵子さんは、女性特有の先走ってしまう感情に囚われてしまっているのだろうか、女性というか、素人のおばさんらしいことをいい始めた。
「とにかく、手術受けて、ちゃんとした病院まで用意してくれたんだから、素直に通ってくれれば、きっとまたピアニストとして、やっていけるわよ。ゴドフスキーが弾けるんだから、他の作曲家なんて、軽々でしょ。ちょっと練習すれば、すぐに弾けちゃうわよ。そうすれば、またリサイタルが開けてさ、ピアニストとして、散々馬鹿にしてきた同級生たちも見返してやれるわ。あたし、もう嫌で嫌でしょうがなかったのよ。ほら、いつか言われてたでしょ、今でこそ間単に治る病気に倒れるなんて、どういう神経なんだって。あの小川とかいう人に。」
「はあ、ええと、そうですか、、、。」
「おかしいわね。何でそんなこと言うの?せっかくここまでよくなったのに。だれよりのも、本人が一番喜ぶはずなんだけどなあ、、、。」
恵子さんは、そんな反応しかない水穂を見て、変な顔をした。
「あ、すみません。多分、薬が回って、頭がぼんやりしてて。」
とりあえず、それだけ答えを出すと、
「あ、そうね。そうよね。てか、まだその薬貰ってるの?じゃあ、これからは、薬を変えることを、次の目標にしてね。きっと手術に耐えられたんだから、大丈夫。きっと、必ず回復して、ピアニストとして、戻れるわよ!」
不用意なはげましをする恵子さんだった。
「あんまり期待しないでください。すみません。眠ってもいいですか?」
水穂は、そういって、布団に横になった。
「あーあ、結局それかあ、、、。じゃあ、次は、薬で眠らないようにしてね。もう、これだけ食べられるって、咳き込む事もないって、ちゃんとお医者さんにいってね。」
「はい。」
「頼むわよ。水穂ちゃん。」
恵子さんは、そういって水穂に、かけ布団と、黒豹の毛皮をかけてやった。
一方。杉三の家では。
「何?波布が出た?何を言ってるんだ?こんなさむいときに波布が出るか?もうとっくに冬眠しているはずでは?蘭の家の庭に出たのかい?」
蘭のはなしを聞いて、杉三は素っ頓狂に答える。
「まあ、今年は夏が暑かったからな、まだ波布が出てもおかしくないか。じゃあ、消防署だっけ、そこで駆除してもらうか、それか動物園で調べてもらうか、あるいは、青柳教授の仲間で、爬虫類の研究をしている人でも探して、手伝ってもらうんだな。波布は、危険な毒蛇だから、ちょっと特殊なやり方が必要みたいだから、お前も気をつけろよ。」
「ちがうよ。その波布じゃないよ。それに、波布は沖縄に生息している毒蛇で、日本本土には生息していないし、沖縄では一年中活動していて、冬眠はしないよ。」
蘭は勝手な勘違いをする杉三に呆れてしまうのであった。
「だって、波布が出たって言うから、対策を考えてやったんじゃないか。」
「違うよ、杉ちゃん。もう、しっかりはなしを聞いてくれ。いいか、その波布じゃないんだ。そうじゃなくて、危険な人物のことを蝮といったりするだろう?有名人でいえば、齋藤道三とか、聞いたことあるだろう?」
「齋藤道三?あ、美濃の蝮か。だけど、それと波布とどう関連性があるのさ。」
「だから、君がこの前あった人物だ。あの、曾我正輝という男だよ。曾我正輝。わかる?」
「曾我?ああ、水穂さんのこと散々助けてくれた、ジョチのことね。度々、製鉄所に現れて、水穂さんの様子を見に来てくれるみたいだよ。ブッチャーも、恵子さんも大助かりだって。青柳教授も、実業家にしては珍しく、腰が低くて偉いなあって褒めてたよ。」
「杉ちゃん、あの男に、モンゴルの英雄の名前を愛称にしてどうするの?そんなりっぱな人物の名前をつけるほど、すごい男じゃないんだよ。美濃の蝮どころか、蝮より強力で乱暴な、言ってみれば波布なんだよ、あの男は!」
「はあ、、、。それで波布なのね。じゃあ、齋藤道三みたいに、主君殺しで名をはせたとでもいうのかい?少なくとも、殺人ができるような人ではないと思うけどね。じゃあ、誰か、被害者がいるとでも言うのかよ。」
杉三がそう聞くと、蘭は自分の顔を指さした。
「あのね、かなり以前のことなんだが、うちのお母さんの会社で、大変なことがあったんだ。」
「なんだ?」
「いいか。これは紛れもない事実だから、今から話すことに、横槍は入れるなよ。」
蘭は、一つ息を吸って語り始めた。
「あのねえ。もうかなり昔の話になるが、うちのお母さんのやっている会社で、従業員が突然鬱病になったことがあるんだ。今であれば、会社を休むことも結構あるけどさ、当時は、あまりそういう制度がなかったから、お母さんも扱いに困ったらしくてね。」
「ああ、まあ、そうだな。そういうことはあるな。」
「で、本当に仕事ができなくなってしまって、お母さんも、すごい罵倒したんだよ。いい加減にしろとか、それどころじゃない。仕事ができないなら出て行けとか、ずいぶんひどいことを言っていたらしい。」
「へえ、蘭のお母さんらしいな。さすが母御前だな。」
「うん、で、その人は、ちょうど育ちざかりの子供さんもいる人だったから、どうしても仕事はやめられなかったんだよ。だから、お母さんが、基本賃金の無駄遣いをさせるなとか、すごいひどいことを言って、ほかの従業員から、同情をかうことだって、本当にしょっちゅうあったんだ。」
「なるほど、それじゃあ、スクラムを組んで内紛勃発か。」
「いや、それはお母さんが許さなかったから、ほかの人はだまってみているしかできなかったんだよ。そうしたら、ある日突然、その従業員が、会社を辞めさせてくれって言いだしたんだ。お母さんは馬鹿にして、中年のくせに、ほかに働くところはあるのかって言ったら、その人が、焼き肉屋の曾我さんのところへ働きに行くと言い返したんだ。まあきっと、どうせ焼き肉屋さんで働いても、職人気質の中年男が、なじめるはずはないから、あてが見つからなくて、頭を下げてくるってみんな予言していたんだが、、、。」
「はあ、で、その予言が外れたのか?」
「そうなんだよ。その数日後、弁護士という男がうちの会社に来てね、元従業員の加藤さんが、不当なパワーハラスメントをうけて、著しい精神的な打撃を受けたため、社長さんに慰謝料を払ってもらいたいと言ってきたんだ!しかも、彼の直筆嘆願書まで持って来て、その中にお母さんがしてきた発言が、全部書かれていたために、証拠も明確だということで、うちはその加藤さんに損害賠償を支払う羽目になったんだよ。」
「はあ、、、すごいな。でも、それが何の関係があるというのさ。」
「また話の腰を折るな。お母さんが頭にきて、興信所に頼んでその加藤さんの行方を調べてもらったんだ。本当に、曾我という焼き肉屋、つまり焼き肉屋ジンギスカアンで働かしてもらっているのか、真偽を確かめるためにね。それで、興信所が調べてくれた結果、加藤さんは、日本の精神医療に絶望し、焼き肉屋を退職して、アメリカに行ったってことがわかったんだよ。そのアメリカでの生活費は、お母さんが出した慰謝料で賄っているというのさ!もうそうなれば、こっちも手の出しようがなくて、しかたなく、加藤さんを退職に追いやったことを認めざるを得なかったんだ。これのせいで、うちの会社がものすごいパワーハラスメントをしていたことが、新聞で代替的に報じられてしまってね。ここぞとばかり、職人が大量にやめて行ってしまって、お母さんも、新聞報道のあとだから、止めることもできなくてさ。もう、うちの会社は、大打撃を受けた。それから、しばらくは、製紙業を縮小しなければならなかった。」
「はあ。事実だけ聞かされても困るわ。それと、ジョチの関連性を言ってもらわなくちゃ。」
「だからね、ここからだよ。鬱病って、杉ちゃんも知っていると思うから、わかると思うけど、考えをまとめるなんてとてもできないだろ?それなのに、あんなふうに綺麗な文字で嘆願書を書き、パワーハラスメントの内容を詳細に記すなんて、できると思うか?だから、絶対に手伝った人物がいるんだよ。その人物は、まぎれもなくあいつだよ。曾我正輝。あいつが、焼き肉屋で働きだした加藤さんをたぶらかして、嘆願書を書かせ、うちの会社に慰謝料を支払わせて、その慰謝料で、アメリカまで行かせて、僕たちの手が出ないところへ追いやったんだよ!嘆願書の内容が、あまりにも明確すぎていて、明らかに加藤さんは被害者であるように書かれていたので、加藤さんに悪意はなく、うちが全部悪いということになった。同時に、パワハラから加藤さんを救い出した英雄として、焼き肉屋ジンギスカアンは表彰までされたんだよ。その知らせを聞いたお母さんときたら、波布が出た!波布の仕業だ!って半狂乱になって机をぶっ叩いて。もう、僕も見てられないくらい、辛かったんだからね!」
「は、はあ、、、。なるほどねえ。」
杉三は、お茶をずるりとすすった。
「ね、これで分かっただろ。曾我正輝は、ああいう弱い人を味方につけて、いいひとぶっておきながら、こういう風に、経営者から金を巻き上げて、従業員を奪い取り、企業をつぶすんだ。幸いお母さんの会社は、つぶれることはなかったけど、中には本当につぶれた企業だってたくさんあるんだから。」
「そうか、それならパワハラをした蘭のお母さんのほうが悪いんだ。弱いものを味方にして何が悪いんだよ。ただ、人助けをしただけじゃないか。それなのに、波布が出たなんて、おかしなこと言うな。」
杉三は、はっきりと結論をつけてしまった。
「でも、お母さんは、手を出して一生懸命波布狩りをしたから、何とか大丈夫って、言ってたから、あまり気に留めなかったのだけど、波布は完全にお母さんの罠には捕まらなかったようだな。お母さんは、かなりの金を送って、政治家なんかを味方にして、無理矢理条例を作ってもらったりして、法の縛りを利用して、動けなくさせて、波布を何とか退治したと言っていたけどさ。お母さんが、海外に力を入れ始めたら、波布はまた息を吹き返して、牙をむき始めたということだね。その牙が、水穂たちを利用して、製鉄所に向き始めたということだな!」
「はあ、、、。確かに、そうだな。波布は体が細いから、動物園の檻からすぐ逃げちゃって、捕まえるのにすごい苦労したというニュースを聞いたこともあるよ。攻撃的だし、毒蛇だから、危険な動物なので、皆さん家の中から出ないでくださいとか市の放送で言って、警察が、捕獲作戦に乗り出したという、騒動があったこともあったね。それに、この前蘭が言っていたけど、波布狩りができる人は、すごい貴重なんだってな。波布狩りをすると、行政機関から、ものすごい大量の賞金を貰えるそうじゃないか。生活に困らないほど貰えるそうだよ。」
「本物の、波布狩りと一緒にするな。今は、曾我正輝の悪人ぶりを考えなくちゃ。」
「だから、それくらい癖のある人物なんだろ?」
なるほど、そういうことでわかってくれたのか。
「じゃあ、今度は僕が聞く。杉ちゃん、波布はいったい、どこまで牙を伸ばしているのか教えてくれるか?この間、水穂のやつ、開胸手術してもらったらしいが、その時に何か高額な医療費でも要求しなかったか?」
「いや、僕はお金のことはほとんど知らないよ。ただ、ブッチャーの話によれば、手術の費用は全額支払ったらしいよ。それ以外は何もない。製鉄所をもし何かしようとするのなら、青柳教授に手を出すと思うけど、それもないって言っていたよ。」
「じゃあ、病院側には?」
「えー、知らないよ。そんなこと。ただ、ジョチが言ってたけど、病院の付属施設であった、障害者施設を、買い取ったということは聞いた。」
「杉ちゃん、それは本当なんだな!」
「うん。本人から聞いたんだから。」
「つまり、波布は生田病院に対して、牙をむいていたんだな。つまり、製鉄所を味方にでもして、生田病院をつぶそうとたくらんでいるんだろう。きっとその施設だって、利用している障害者を味方にして、生田病院を敵にするように仕向けて、利用者みんなで生田病院の悪さを広め、世論を利用して、挙句の果てにつぶすんだ。こういう手口でやるんだよ。それが、波布だ。一度噛みついたら離さず、獲物が死ぬまで毒液を注入してくる。水穂も、由紀子さんに聞いたが、医者にひどいことを平気で言われて、かなり傷ついていたそうじゃないか。波布はそこを狙ったんだ。水穂を、自分の味方にするために、手術代だとかなんだとか、そういうことを援助して、病院をつぶすための武器にするつもりなんだろう。そうやって武器を増やして、いざという時に、不祥事を明らかにして、一気につぶす!倫理的に言ったら、悪いことをした病院をやっつけたわけだから、すごいヒーローという評価を貰えるから、悪人とはみなされない。でも、そういうやり方で、つぶされた企業は、本当にたくさんあるんだぞ!」
蘭は、一生懸命説明した。とにかく杉三に、わかってもらいたかった。
「いや、そうだけど、蘭は大事なこと忘れてるぞ。さっき蘭は、波布は沖縄に生息していて、日本本土にはいないって言っただろ。だから、波布が静岡に出没することはまずないね。」
「杉ちゃん、、、。なんでわかってくれないんだ。」
蘭は、またテーブルをバアンとたたいた。
「さて、買物に行くか。」
杉三は、口笛を吹きながら、部屋を出て行った。
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