賢狼族は月を見ない そのさん
聞きてえことは山ほどある。だが、ひとまず重要な話を進めねえとな。
マーベラが長老の椅子に乗って丸くなると、俺達は彼女を囲むように地べたへ腰かけて、目前に突き付けられた最も大きな問題について話し始めた。
「……こんなに綺麗なのに、ボクって……。男の子って……」
「やかましい! 泣くんじゃないわよ!」
「そこまで伝説と一緒じゃなくてもいいじゃねえか貴様! 名前は!」
「は、はいいぃ! メルクは、メルクハート・ファンダスティンと申します!」
「くぅ。名前まで可愛いじゃねえか……」
「死ね! 一回死んで奇跡の復活を遂げたことに驚いてショック死しろ!」
最も重要な課題の間中、死ね死ねうるせえアイシャを見て怯えるメルクハート。
伝説では獣人になるはずなんだが、見た感じはまるで人間族だ。
背はすらりと俺よりも高くて、それでいて出るところは出ていて。やたら精巧で頑丈そうな白い上着は紺の襟に赤いスカーフ。襟と同じ紺のミニスカートは、一体どう織られているのやらいくつも折れ目が入っているんだが、これが白い太ももに良く似合う。
そして賢狼族の証、輝く銀色の髪。長くてふわふわな髪をなびかせながらマーベラの椅子に隠れちまったが、怯えた優しそうなタレ目で俺達を窺いやがって、てめえ。
「その見た目で男って……。俺、この森に火をつけていいか?」
「あ、あはははは……」
あの伝説、少女だと思ってた相手がオスだと知って、自暴自棄になった男が賢狼族の森に火をつけるってオチなんだ。だから賢狼族は月を見ねえ。住みかを追われることになるからな。
しかし、なんで世界は俺にだけ残酷なんだ。
仕方がない。ミカン箱より小さくなろう。
「あんたは膝抱えてんじゃねーわよ。……それよりマーベラ。あなた、あらぬ疑いをかけられてるのよ? 町を何度も襲ってるって」
アイシャが外面を外したまんまでマーベラへ話しかけると、銀の賢狼は鼻から息をついて呆れながら首を左右に振った。
まあ、当然だな。
「やっぱりそうよね。じゃあ、デルトン卿がお金欲しさに嘘をついてるって事?」
「だな。……そして野郎は、俺達がその事実を賢狼族から聞き出したんじゃねえかって今頃思ってるだろうよ」
これに、ジルコニアとマーベラが同時に頷くと、メルクハートがおどおどと話しに混ざって来た。
「えっと、では皆様は、賢狼族を信じてここまで来て下さったのですか?」
「そりゃそうだ。おっさんよりおばはんの方が信用できいってええええっ!」
久しぶりに噛まれた!
ちきしょう! 左腕にもプリムローゼの臭い擦り付けときゃよかったぜ!
「遊んでる場合じゃないわよ。そのせいで、あたし達に賢狼族をみんな殺せって命令が出てるんだから」
「ひええええええ!? 狼さん! 今すぐ逃げましょ! 今すぐ!」
メルクハートが叫び声をあげてやがるが、お前さあ、狼さんってなんだよ。てめえも賢狼族だろうが。
「そいつの言う通りだな。マーベラ、みんなを連れてちょっとの間だけどこかに逃げておいてくれ」
いつまでも腕に噛みついたまんまのマーベラに頼むと、瞬きで返事をされた。
だがそれと同時に、粗忽女の馬鹿でかい声が洞窟内を埋め尽くす。
「なに言ってんのよあんた、バカなの!? デルトン卿の兵隊見たでしょ! あいつら全部と戦うなら、賢狼族の皆さんにも戦ってもらわなきゃ!」
「バカはお前だ粗忽女」
「はあ!? バカにバカって言われたかねーわよこのバカ!」
ぐへっ!
胸倉掴み上げるんじゃねえよ、この粗忽!
「こいつらは被害者だっての。それを一緒に戦えだあ? てめえはどの面下げて人間族がやらかした罪をこいつらに押し付けてんだよ」
俺に言われて、途端に青い顔してやがるが。
だからてめえは粗忽だってんだ。
「ご、ごめんなさい! あたしったらなんてことを……」
今更マーベラに頭を下げてしょんぼりしてやがるが、もっと反省しろ。
そして俺に隙でもできてたのか、ジルコニアが今なら殺せると言わんばかりにうっとりとした流し目ですり寄って来たから退避だ。
……その時、腕に噛みついたままのマーベラを抱えて立ち上がった訳なんだが、腕の中から俺を見上げる美人さんを見ていたら、一つ閃いた。
今の状態でデルトン卿の悪事をばらしたら、賢狼族、騎士隊、そして俺達揃って皆殺しにされちまう。しかもその責任を、全部賢狼族に擦り付ければ済むわけだ。
これを思いとどまってるのは、単に事をでかくしたくねえから。俺達にバレる前に賢狼族を退治しちまえばいいとか考えてるんだろうな。臆病者のデルトン卿らしい。
だったら……。
「いい手を思い付いたかもしんねえ」
俺は、思い付いた知的な作戦を説明する。
だがそれを聞いた全員が、揃って眉根を寄せちまった。あれ? どうしてきゃあ素敵ってならねえんだ?
「ほんとに来るの? バルバーツ党が?」
「ああ、それは間違いねえ」
だって、俺が呼んどいたから。
「でも、彼らがデルトン卿の敵になるなんて保証はどこにも無いわよね?」
「そこんとこも平気だ」
だって、俺が指揮するんだから。
寄せた眉根の皺をさらに深くさせた二人に、お前からもなんか言ってやってくれ。
そう思って腕の中のマーベラを見つめると。
「そこまで嫌そうな顔すんじゃねえよ、ポチ」
こいつは端正な顔を歪めてうんざりって言葉を表現すると。
改めて、俺の腕に噛みついた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
時間も無いから。不本意だけど。そんな言葉と共に渋々合意した皆と森を出る。思ったより時間を食った。もうじき夕刻って頃合いだ。
荒れ地を進む俺達に気付いた連中が慌ただしく出撃準備を始めたんだが、さらに足を進めると、準備をする手がぴたっと止まる。気持ちは分かるぜ。この状況を見たら、俺だってそうなるさ。
見渡す限りの全員が、目と口を、ぽかんと開けてやがる。そんな表情が見て取れるあたりで足を止めた俺を抜き去って、アイシャ、ジルコニア、メルクハートの三人は騎士達の陣営へと走った。
「やれやれ、壮観だなこりゃ」
呆然って言葉を壁画にしたらこんな感じなんだろう。いや、わかるぜ兄弟。俺だって逆の立場だったらそうなるさ。
だって、自分達の総大将が胸に抱えてるの。
敵の親玉。
どうなってるのか見当つかねえだろ? 待て待て、今説明してやっから。
胸いっぱいに空気を詰めて。俺は、荒野中に轟くほどの大声で宣言した。
「俺ーーーっ! こいつと結婚することにしたからーーーっ!」
そして、心底嫌そうな顔をするマーベラの鼻先にキスをすると、悲鳴に近い罵声が一斉に上がった。
『そこまで堕ちたかバカ王子ーーーーっ!』
ちょっと泣きそう。てめえら覚えてろよ?
俺は大混乱に陥った連中を尻目に森へ向けて走り出した。
ここからが本番だ。気合い入れてかねえと。
でも、俺は見てたからな、アイシャ。帰り道で泣くまでいびり尽くしてやる。
てめえまで大声で叫んでんじゃねえよ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
夕焼けが、森を真っ赤に燃やし始めた。じきに炎が森を燃やし尽くして、暗い炭の色で辺りを塗り尽くしちまう。急がねえと。
「じゃあな、ポチ。また会おうぜ」
俺が差し出した指先をぺろりと舐めたマーベラは、先に逃げた賢狼族の仲間を追って、しなやかにその身を森の中に消した。
見送るまでもねえや。一瞬で姿が消えちまったが、下手うって連中に掴まるんじゃねえぞ?
俺も腰袋から『悪魔の骨』を出して、右目に装着。トレードマークの全身を覆う黒フードを羽織りながら走る。えらく遠回りになるが仕方ねえ。集中して、うねる木の根を尾根から尾根へ、森の中を北へ向けてひたすら走った。
そして胸高の雑草が左手に見えたあたりで森から飛び出すと、腰を低くさせて見つからないよう町へ向けて走る。
さすがに疲れたぜ。どんだけ長い事走りっ放しなんだよ。ちょっと休憩。
俺は荒い息に肩を揺らしながら髪をひっつめに結ぶと、雑草から顔を覗かせた。
「お。良い感じ」
二十人の騎士隊は、アイシャ、ジルコニア、メルクハートを伴って荒れ地を半ばまで進んだ辺りで途方に暮れている。
そして、デルトン卿の軍勢は軽装の衛兵じゃなくて、より重装備の私兵ばかり五十人程にすげ替わって、跳ね橋の前に整列してやがる。
「ヤツが臆病者で助かったぜ。狙い通りじゃねえの?」
まず、臆病その一。衛兵達が一人もいない。
俺のバカ宣言を見て、皆殺しを決意したんだろう。百五十人いた衛兵達は、こっちの草むらより遥かに忍びやすい南側の丘の灌木に紛れて森へ進行中って訳だ。
次に、臆病その二。私兵を全部引っ張り出してきた。
賢狼を仕留めそこなうと悪事がバレる。だから全軍そっちに差し向けたいところなんだろうが、騎士に町へ入られると厄介。そんな思いがこの配置だ。
まあ、こいつは臆病ってよりも、確実な手を打ってきたってことなんだが……。
だが、臆病その三。こいつは悪手だぜ、デルトン卿。
大物だったら、自分は町に引っ込んで高みの見物を決めるとこだ。でも、他のやつに任せるのが不安だったんだろうな。あいつは私兵の正面で、偉そうな野戦椅子に腰を据えていた。
いやはや、思うつぼだぜ。
俺がマーベラと仲良くなったところを見たせいで、奴の取るべき行動は絞られた。
つまり、騎士達に気付かれる前に賢狼族と俺を倒し、その軍勢と荒野に残った兵とで騎士隊を挟み撃ちにする。そんな各個撃破だ。
兵の差が圧倒的だからとは言え、一人残らず討ち取らなきゃなんねえ。そんな不安が隙を生む。さて、こっちの打ったもう一つの手は上手くいってるかな?
賢狼族で最も俊足。そんな美人さんに託した作戦指示。上手く事が運んでりゃいいけど。
「……そんなに頭を出していたら、危険でございますよ、小僧」
「お。……ゴホン。エクスボルトさん。合流できて良かったです」
「ほうほう。素人丸出しですな。そんなに火矢の的になりたいのでしたら、今度そう言ってください。このエクスボルト、最近腕がなまっておりますので」
「エクスボルトさんは矢ではなく、そちらが得物ではありませんか」
俺の見る先でニヤリと口角を上げた副官は、左の肩に担いだ身長の何倍もあるロッドを軽く撫でた。
てめえ、今度の会議で武官にしちまうぞ?
「エストニアス様。密書通りに、すべて準備は整っております」
エクスボルトの後ろで腰を屈めたバーゼットが低い声で報告してるが、お前もっと屈めよ。でけえ体が丸見えだっての。
「……デルトン卿は、何と?」
「はい。エストニアス様の密書通り、こちらの申し出に飛びついてまいりました」
だろうな。
ようし、準備は整った。
「では、早速作戦を開始したいのですが、長距離走って来たので少しだけ待ってください。息が整ったら草むらから飛び出しますよ?」
「ほうほう。小僧は軟弱でいらっしゃる。後から情けない姿を晒してついてくればよろしいでしょう。……全軍! かかれ!」
てめえこのやろう!
一斉に上がった鬨の声。こいつが草むらを二つに割って粘土質の荒れ地に突っ込んだ。その目標はもちろん……。
「敵襲!」
「賢狼族か!」
「いえ! あれは、山賊?」
「バルバーツ党と思われます!」
総勢百人にも及ぶ俺達が大声を上げて向かう先。それは、『
だが、そこはさすがに王国の騎士。暴徒が迫る中、落ち着いて円陣を組んで待ち構える。
そんな陣の中央で、バカ女が騒いでやがる。
「こっちじゃねえでしょ! バカなの!? でも、エストニアス様のためにバルバーツ党の皆に剣を振るう訳にはいかないし! どうしたらいいの!?」
こんだけ騒がしい中届くとか。でけえ声。
そして、見る間に俺達に取り囲まれた騎士達は、どいつもこいつも剣を構えたまま呆然と俺達を見つめている。
「なんだ? ふざけているのか?」
「どうしたいのだ貴様ら! 剣をあさっての所で振り回して、何の真似だ!」
そりゃあ、ヤツらをおびき出すためさ。
デルトン卿の戦術としては、騎士隊を倒すのは賢狼族の後。兵隊が二百人しかいない以上、これはどうしようもない。
だが、もう百人の味方がいたら話が変わる。
百人のおっさんによる、大声をあげての剣の素振り。だがこんなおふざけも、遠目に見れば超激戦。憎き国王の軍勢を屠る好機に力を貸して欲しいと大金を握らせたデルトン卿も、慌てて私兵を動かした。
なんせ、奴にとってこれ以上の援軍は無い。金までくれて口封じに手助けしてくれる友軍がいるんだ。そりゃあ、化けの皮も剥げるってもんだ。
「よし! かかった!」
森の中で、どこにもいねえ賢狼達を探す百五十人の衛兵が戻ってくる前にケリつけるぜ!
「全軍! デルトン卿の軍をうまく誘導してください!」
そこにデルトン卿の私兵どもが殺到して、騎士隊に襲い掛かった。
「今度は何だ!?」
「兵長! デルトン卿の兵が襲ってきます!」
「ええい! 血迷ったか!」
さて、こいつらの正体を暴いたところでとどめと参りますかね。
俺は最後の号令を出すと、バルバーツ党の百の兵が二十人の騎士と共に、一気にデルトン卿の軍勢を取り囲んだ。
「デルトン卿! 剣を収めなさい! あなたの悪だくみは、すべて
「きっ、貴様! 寝返りやがったのか!?」
今度はデルトン卿の私兵達が主人を中心に円陣を組む。だが、さっきの騎士隊とはまるで違う。私兵達は剣を捨てて諸手を上げ始めた。
底が知れるってもんだぜ。
「国賊、エストニアス! これは何だ!? 説明しろ!」
騎士隊の兵長が大声を上げてやがるが、すげえなあんた。まだ分からんの?
「国賊とは心外ですが、お教えしましょう。デルトン卿は虚偽の申告をしていたのですよ。賢狼族が町を襲ったという事実などありません」
「なんだと!?」
「その事実を隠すために、森の中へは賢狼族を滅ぼすために衛兵を送り込み、そしてあなた方をも亡き者にしようとしたのです」
そんな告発に、でっぷりとした顔を赤くさせながら抵抗する声が響く。
「でっ、でたらめな事を抜かすな小僧!」
「……ならば卿に問おう。何ゆえ我らに刃を向けた」
「そそっ、それは……」
赤い顔が途端に脂汗で覆われちまったが、これに言い訳出来たら尊敬に値するわ。
騎士達が迫るのに合わせて、デルトン卿の私兵どもが道を空けていく。悪党の取り巻きなんてそんなもんだ。これにて一件落着だな。
……なーんて思ってたのにさ。
お前らは、なんでそんなことやり始めるの?
「ちょっとジル! バールなんか持ちだしてどうする気よ!」
「うふふ。ちょっとそこにいる下衆野郎をぶっ殺しに行くだけよ?」
「下衆野郎って、エストニアス様!? あたしのエストニアス様になんてこと言うのよ!」
「あらやだ。これがアイシャのお気に入り? 男を見る目が無いのねえ……」
「あったまきた! プリムローゼの錆にしてくれる!」
妖艶に微笑むジルコニアの行く手を阻むべく立ちふさがるアイシャ。
誰もが口を開けて見守る意味不明な光景。
俺もだぜ、意味分かんねえ。
だってジルコニア。お前、俺の秘密知ってるじゃん。
いつだって俺のこと殺せるじゃん。
なんで今ひっかきまわし始めた?
「……エストニアス様。私があなたの盾となりましょう。この命を懸けて、あなた様を必ずお守りしてみせます」
そしていまさら外面な。あったまきただの刀の錆だの、可憐に粗忽を振りまいてたじゃんかお前。
「……私と、本気でやる気なのね。どうなっても知らないわよ?」
「それはこっちのセリフよ! ひいひい悶えさせてやるわ!」
なにやら盛り上がる二人を見つめながら呆れて物も言えない俺たちの口は、次の瞬間、さらにあんぐりと開くことになった。
先手を取ったジルコニアが猛烈にダッシュしながらバールを投げつける。
それをアイシャは体を半身だけ逸らして鼻先すれすれでかわすと……。
「げっ!?」
空間転移でも使ったのか、アイシャの後ろにいつの間にか立っていたジルコニアが自分の投げたバールを掴んで、それを躊躇なくアイシャへ向けて振り下ろした。
だが、アイシャも並みの剣士じゃない。プリムローゼは既に頭の上に構えられ、バールの必殺をその肉厚の刀身で受け止める。さらに剣の柄をジルコニアの顔面目掛けて突き出すが、既にジルコニアはバールから手を放してバックステップ。そして着地するなり低空に足を突き出して、アイシャの軸足を狙ったが、アイシャもバック転をひとつ挟んで回避。
息つく暇もなく、今度は着地したばかりのアイシャが剣を突き出しながらジルコニアに襲い掛かるが、しゃがんだまま伸ばした足に引っ掛けたバールをそのまま振り回して切っ先にぶつけたジルコニアの体に、軌道が逸れた剣は突き立つことなく空を切った。
そしてそのまま超接近戦。近い間合いに不利な両手剣による斬撃を、ジルコニアは手で足でバールを器用に操って防ぎきる。
妖艶な笑みを浮かべて楽しそうに舞い踊るジルコニアに対して、アイシャは奥歯をバキリと鳴らしながら必死に剣を振り回し続けた。
……これはまずい。誘っている。
俺が慌てて二人の元に走り出した時、ジルコニアの狙いがまさに発動した。
迂闊にバールを突き出して構えながら距離を取ったジルコニアに、ここぞとばかり渾身のフルスイングを放ったアイシャ。その狙いはジルコニアの体ではなく、突き出されたバール。魂が掻きむしられるような激しい音を放ってバールがジルコニアの手から吹き飛ばされたが、それを横っ腹にもろに食らったのは。
「ぐはっ!」
……ジルコニアに転移させられたアイシャ自身だった。
「ぐうっ……、何が? ……がはっ!」
あまりの激痛に呼吸もできないんだろう。剣を取り落として膝を突いて、立ち上がることすらできないアイシャにジルコニアはゆっくりと近付く。
まずいまずいまずい!
「よ、よすんだ! 取り返しのつかないことになるぞ!」
俺の叫びが届かないのか。ジルコニアは真っ赤な舌で唇を一舐めすると、もがき苦しむアイシャの細い首に、両手をかけて吊り上げた。
間に合わなかったか!
「いやぁぁぁぁん! ダメッ! やめて! きもちいいいいいいい!」
「なんてバカなんだてめえはっ! 直ぐ放せ今放せ!」
自分からアイシャに触ってどうする!
戦闘に夢中で忘れてた?
「あはっ! あはははっ! いやぁぁん! きんもちいいのおおぉぉぉ!」
次元を超えた戦闘に目を奪われていた全員の頭から、急にすこんと思考を奪ったジルコニアの嬌声。それが鳴りやむと同時に、こいつは辛うじて地に立つアイシャの足元に転がって幸せそうにピクピク痙攣し始める。
「うへ、うへへへへ……。ごめんなさい。塾で隣に座ってたムルカジ君のおでこに『後ろ』って書いてごめんなさい……」
「ひでえけどおもしれえな! じゃなかった、ゴホン! お、落ち着いて下さいお二人とも」
やべえ、外面忘れてた。どうすんだよ、てめえのせいで俺の正体ばれちまうだろうが!
だが、救いの手なのか最悪の事態なのか。
俺の豹変っぷりについて考える余裕が、全員からあっという間に奪われた。
ぴーーーーーーーーーっ!!!
荒野に響き渡る笛の音。隙をついて合図を出したデルトン卿。
これ合わせて、一斉に鬨の声が上がる。そしてすっかり更けた暗闇に、月光の反射が無数に煌めいた。
やばい。
賢狼族の捜索を中止した百五十人の衛兵達が森から姿を現して向かって来る。
百二十対二百。
数の優位を一瞬で悟ったデルトン卿の私兵どもも、慌てて剣を掴んで身構えた。
「メルクハート! 手を貸してくれ!」
「は、はいなのです!」
ずっとべそをかきっぱなしだったんだろう。
月を見ちまった賢狼が、ぐしぐし鼻をすすったままこっちに来たところでアイシャを託す。そして俺がジルコニアを抱きかかえて、みんなでバルバーツ党の後ろに逃げ込んだ。
こりゃあ参った、逃げ切れるか?
俺だけ逃げるのはわけねえが、こいつら置いて行けるわけにゃいかねえ。
バルバーツ党が私兵どもの包囲を解いてじりじりと町の方へ向けて後退すると、騎士共がその前面に横隊を作って守ろうとする。すげえなあんたら。
だが数の上でも装備でも劣るくせに、デルトン卿の私兵どもが戦況を作り始めて、町を背にするために俺達の側面に回りこんだ。
まずい、このままじゃ挟み撃ちになる。焦る思考にいい手が浮かばない。
次第に足の速い衛兵がデルトン卿を囲む私兵どもに混ざり始めて、俺達はあっという間に半包囲されて身動きが取れなくなった。
だというのに、さっきまでべそをかきっぱなしだった賢狼が、心底助かったと言わんばかりのため息をつく。なんなんだよお前。
「よ……、良かったのですよこっち向きで。月がとっても綺麗に見えるのです」
「え? あなたは、何を言っているのです?」
「賢狼族は……、決して月を見ることが無い戦闘種族なのです」
何を言ってるのか分かりゃしねえ。そう思いながらメルクハートを見上げてみれば、目に涙を浮かべながら、南の丘に浮かんだ満月を眺めてやがった。
あまりの事に気でもふれたか。そう思った俺の耳に。
アオオォォォォォォォン
どこからか、震えがくるほど甘いマーベラの遠吠えが届いた。
月を見ない。……それは、常に月を背負うという意味だったのか。
つまりヤツらは、月と逆を向くことが本能に刻まれているんだ。
丘の灌木から躍り出る黒い影。水平に近く、低い位置から届く月光がごくたまに銀色の流星を荒野に落とす。だがその正体が敵に気取られることは無い。月を背負った者は、戦いにおいて絶対的に有利なんだ。
魚影にも似た波が、背後からデルトン卿の兵を飲み込むと、壮絶な叫び声が荒野を埋め尽くした。
「賢狼族だーーーー!」
「どこから現れたんだこいつら!」
「たっ、助けてくれー!」
銀と銀とが交錯するたび、けたたましい悲鳴が次々とうめき声に変わる。
あいつら、食うため以外には無益な殺生しやがらねえから、足を狙ってやがる。
自分達に四倍する敵に対してこの余裕。大した連中だぜ。
「賢狼族だと!? ばかな!」
慌てふためくデルトン卿の叫び声。
さて……、そのだみ声を、ようやく大人しくさせることが出来そうだぜ。
「総員かかれ! 彼らを殺すことなく、縛り上げてください!」
待ってましたとばかりにエクスボルトがバカみてえになげえロッドを振るうと、敵さんをするりと縫ってデルトン卿の顔面を打ち据えた。
てめえ、手元が狂った、じゃねえ。
死んじまってねえだろうな、あれ。
しかしそんな一撃を皮切りに、いきり立ったバルバーツ党のおっさん達が突っ込むと、せっかく一人ずつ縛り上げれば済みそうだったところがあっという間に乱戦になっちまった。
騎士達が落ち着けと叫びながら祭りの中に飛び込んでいくが、おめえら、それも逆効果だろうが。そのうち、恐慌に陥った敵さんがこんな混戦だってのに火矢なんか撃ち始めた。
「さすがに死人が出てしまいます! 弓を止めてください!」
ああいけねえ。俺の声も逆効果。
必死になった連中に弓なんて言ったもんだから、飛び交う火矢の数が増えちまった。
乱戦がずるずると移動して、町のそばまで近付いてるし、フィン・ツェツェに火矢が飛び込んだら火事になっちまう。
そんな悪い予感が一番悪い形で的中しちまった。今、でかい木製の何かが弓矢のせいでぶっ壊れた音がしたんだが……。
「アイシャが置いたオリーブ油か!?」
炎がゆらりと上がったせいで良く見える。跳ね橋のそばで、三つあった巨大な樽のうち一つがぶっ壊れて、そこに火矢が飛び込むと、さらに明るさが増した。
そのうち炎が大きくなって、二つ目の樽を飲み込んでぶっ壊すと、一瞬弱まった炎があっという間に火柱へと姿を変えて復活した。
さすがに戦闘どころじゃねえ、呆然と俺達が見守る中、堀の中に燃え広がった炎が跳ね橋を飲み込んでいく。
水ん中からも炎って上がるんだ。初めて知った。今度みんなに自慢しよう。
……そんな現実逃避をしたくなる光景。今や城壁が黒煙を巻き上げて燃え盛り、町からは避難警報だろうな、鐘の音と叫び声が、怒涛となって響き渡る。
「歴代、最大の地図改変になるな、こりゃ」
まるで賢狼族の伝説のよう。物語の最期を告げる業火が星空まで焦がし尽くすために気勢を上げる。伝説じゃあ、娘の正体を知った男の身勝手な怒りが森を燃やしちまったんだが、こいつは誰の身勝手が原因なんだろうな。
いろんなやつの勝手が合わさって、都市が一つ消える。
でもその結果を、世間はたった一人のバカのせいにすることだろう。
俺は一体何に腹を立てて都市に火をつけたことになるのか。
そいつを考えるのは吟遊詩人達の仕事だが、実は一つ思い当たるフシがある。
行く先行く先の地図を塗り替える粗忽女。呆然と炎を見つめるこいつを抱えたメルクハートが、勢いよく俺に振り向くとこんな事を聞いてきた。
「…………これ、誰のせいになるのです?」
「教えてやろうか?」
俺は外面も気にすることなく、メルクハートに答えてやった。
「てめえが、オスだったせいだ」
こうして一つの町がまた。
月に見守られながら姿を消した。
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