第7話

「将軍、昨夜の脱走兵は三千を優に超えています。今夜は、その倍以上になる恐れがございます」

「分かった……戦支度を整えよ」

「御意」

 もう少し、耐えることは出来なかったのか。無性に腹が立った。

 兵士には馬謖が抱える個人的な事情なんて知ったことではない。分かっているが、それでも苛立ちが募る。最初からこうなることは分かっていただろう、何度もそう自分を叱咤した。

 槍を持ち、具足を強く縛る。後は、派手に死ぬだけだ。出来るだけ長く、司馬懿の目をこちらに向けさせておく。それが馬謖が一人で編んだ戦略だった。

 確かに、諸葛亮の言う通りに山道に陣を構えれば、絶対に十日持ち堪えることが出来るだろう。後方には高翔将軍の一万の兵もいる、心配はいらなかった。

 しかし相手は、あの司馬懿であるということも加味しなければならない。こちらの軍が山道に陣を構えた上で、魏軍がどのように動いてしまったら不利になってしまうのか、恐らく司馬懿はその最も嫌なことを躊躇なくやるだろう。最も嫌な行動、それは、戦わずにそのまま魏軍が街亭を諦めて引き返してしまうことだった。

 魏軍が引き返したとき、次に陣を構えるのは恐らく陳倉だろう。そうなれば、諸葛亮率いる本隊は陳倉でぶつかるか、祁山にとどまるかの二択。

 もし司馬懿がそのまま街亭へ攻め込み山道で戦ったとしても、予め諸葛亮が話していた本隊がビ城まで攻め込む作戦だが、兵の総数を考えればそんな余力はどこにもない事は分かる。曹真軍と司馬懿軍の背後を突くので精いっぱいだろう。そうなると、急ぎ退却した曹真と司馬懿がビ城付近で合流し、そこで蜀軍は総力戦を行うことになる。魏延将軍の奇襲などは、孤立して意味のないものになる。

 恐らく、諸葛亮が描いていたのはこの総力戦までの戦略なのではないだろうか。この一戦で決めるつもりは毛頭無く、総力戦に持ち込むことを想定しての戦略。

 しかし、曹叡は長安から遠ざかるかもしれない。さらに戦は長期化すればするほど、国力の差が明確に出てくる。

 そこで馬謖が考えたのが一つの賭けであった。山頂に布陣することで、司馬懿は優位を目前に必ず麓を囲み水を断つ。そして出来るだけ時間を稼いだ後に混戦に持ち込めば、戦況が優位な司馬懿軍は心境的に撤退が遅れる。勝ち戦の真っただ中での退却は、必ず心に躊躇いを生むからだ。

 そうすれば諸葛亮率いる本隊は魏延将軍と合流しながら、真っすぐに長安へ攻め込めるだろう。この命を引き換えに、諸葛亮は天下を掴めるはずだ。そう考えると、いつの間にか体の震えも止まった。

「出るのは夜明けだ。日が顔を出しきった瞬間に出陣する」

 見る限り兵の士気は低い。これでどれほど耐えられるだろうか。

 それでも、戦うしかなかった。無理やりでも士気を振るう為、馬謖は馬に乗り、兵の先頭に立つ。日は、昇りきった。

「目指すは王平将軍の陣だ、そこには水も十分にある!死力を尽くせ!!」

 もし王平の陣に入れたならば、時間を稼げるどころか、街亭を守り抜けるかもしれない。つまり、あの陣に入ることが出来ればこちらの勝ちだ。それも、完勝と言っても良い。

 しかし、敵もそんなに甘くはない。今日、この日に、こちらが全軍を打って出る事なんてとっくに分かり切っているはずなのだ。

「私に続けっ!第一陣、突撃!!」

 馬謖を先頭にした、およそ千程の騎馬隊。乗っている馬は普通の平野の馬とは違い、脚が短くどこか不格好な馬ばかり。しかしこの種類の馬は素早く走れない代わりに、斜面や荒れた地面を難なく力強く踏ん張ることが出来る馬であった。

 申し訳程度にしか整備されていない下り道を全力で駆けているのに、隊列は乱れず安定している。重く力強い馬蹄。敵が見えた。小さく固まった隊が詰め寄り、魚の鱗の様な陣形だ。騎馬相手に行う歩兵軍の陣形で、中央が厚く攻防に優れていた。馬謖もよく知っている。勿論、破り方も分かっている。

 馬謖を先頭にした騎馬がまず魚鱗の中に突っ込む。勢いはすぐに止まる。ここで深く切り込んでいくのではなく、ある程度敵陣に入り込んだこの切り口を、今度は横に横に力押しで広げていく。鱗はそれで剥がれ、重なり、防衛の前線でのみ陣形が力押しで崩れていく。

「一陣は引き返せっ、第二陣突撃!!」

 一斉に馬の鼻を引き返し、騎馬隊は鮮やかに坂道を駆け上がる。下りも上りも平地と同じく駆け回る、馬謖はこの不格好な馬が比較的好きだった。

 その駆け上がる騎馬隊と入れ替わるように坂を下ってくるのは、歩兵の第二陣。それぞれの隊が先を尖らせた丸太を抱えて突進する。前衛の防御が乱されている最中に打ち込まれていく巨木、魏軍の隊列は大きく乱れた。

 高いところから低い位置の兵を蹴散らすのは、それほど難しいことではない。逆落としと呼ばれ、山に慣れた蜀軍の歩兵が最も真価を発揮する戦法でもある。

「蹴散らせ!足を止めるな!!」

 歩兵を追い抜き、再び騎馬隊が前へ躍り出た。陣は、崩れた瞬間に叩くだけ叩く、再び隊列を組まれる前に、乱すだけ乱すのが鉄則だ。

 群がる敵の歩兵に対し、槍を叩きつけ、穂先で並んだ頭を横に凪ぐ。崩れた魚鱗では、この馬は止まらない。騎馬が切り開いた後を、歩兵が駆けていく。このまま包囲を突破できるかと、馬謖の心にか細い希望が芽生えた時であった。

 先を走っていた騎馬隊の勢いが急に止まり、馬上から兵士が次々と引きずり下されていく。馬謖は慌てて右手を挙げ、騎馬隊の動きを止めて歩兵を先行させた。

 いつの間にか、魏の兵が掲げる旗が「司馬」から「張」に変わりつつあることに気付く。張コウの旗下である精鋭の「重装兵」の軍であった。本来は城攻めにおいてその真価を発揮する兵であり、逆落としの勢いを止めることも、このように難なくやってしまう。馬謖は思わず歯噛みした。

 重装兵は動きが鈍く、険しい街亭の地まで移動させるには倍の時間がかかるはずだった。どこか張コウを甘く見ていたのかもしれない。彼の率いる重装兵は、間違いなく中華一だろう。実際目にしてみてよく分かった、街亭まで進むのなんて訳も無いことなのだ。

「馬謖将軍!別動隊の司馬懿軍が後方より出現!!」

「な……上手く誘い込まれたのか」

 今度は、こちらが逆落としを喰らう番になる。それも、強固な壁を眼前に構えたままだ。

 一度勢いを失った自軍は明らかに士気を落としていた。水を飲んでおらず、疲労も蓄積している。この兵士を抱えての前面突破は不可能に等しい。

「前面は、全騎馬隊でもって突撃、ただひたすら王平将軍の陣へ走るぞ」

「御意!」

 ここで死ぬのだろう。確信にも似た予感。ただ不思議と、馬謖の心は熱く滾る。これが戦なのか。馬謖は大きく吠えた。

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