第5話
「これより、各武将の配置を指示する。呼ばれた将軍は直ちに各地へ向かい、文官は兵や兵糧の調整を行い順次報告せよ」
左右に居並ぶ文官武将は、胸元で勢い良く拳と掌を合わせる。
これから戦争なのだ。後は指示を待つのみ、誰もが諸葛亮に視線を向けた。
「先にも述べた通り、トウ芝将軍は一軍を率いて、前線の趙雲将軍と合流せよ。総勢八万で曹真軍との交戦を避け堅陣を敷き、私からの指示を待て」
「ハッ!」
「そして、街亭には──馬謖に行ってもらう。精鋭三万の歩兵を率い、山道を抑えよ」
突然の事に馬謖からの返答はなく、周囲からはどよめきの声が上がった。
確かに馬謖は誰もが認める優秀な人材ではあるが、大きな戦に立ったことはまだ無いのだ。それに、司馬懿軍は十数万、先鋒を率いるのは魏の名将である張コウ。いくら精鋭とは言え、三万の歩兵では守るに少なすぎる。
急ぎ前へ出て膝をついたのは、またしても魏延だ。
「丞相、馬謖はまだ戦場の経験が浅く、この任は重すぎます。ここは、前線の大将の任を陛下に賜った、この魏延にお命じ下され!司馬懿を直ちに蹴散らして見せまする!!」
「都督には別の任がある」
「それならば他に経験豊富な将を──」
「──魏延、下がれ」
しかし、魏延は下がらず膝をついたまま動かない。諸葛亮はそれを無視して指示を続けた。
「馬謖は兵三万で山道に陣を敷き、街亭を死守するのだ。良いか、勝つことを考えるな、守るだけで良い。十日耐え続けよ、出来るか?」
「………やります、いえ、やらせて下さい。必ずや丞相のご期待に応えます」
「よし、よく言った。では副将に、守りに長けた王平将軍をつけよう。王平将軍は馬謖を良く補佐せよ、頼んだぞ」
「ハッ」
命が下る。王平はその瞬間、頭から一切の雑念が消えていくのを感じた。
ただ、街亭を死守する。命令通りに、耐えるのだ。
馬謖が自ら進んで任を受けたことで、これ以上どうしようもないと感じたのか、魏延は立ち上がり、武将が並ぶ列の一番前へと戻った。
「高翔将軍」
「ここに」
「街亭の後方にある烈柳城に、一万の兵を率いて駐屯せよ。もし街亭に何かあれば、すぐに救援へ向かえ」
「御意!」
「姜維、張嶷、廖化将軍はそれぞれ兵を率い、私と共に祁山の張翼将軍と合流する。祁山についた後、直ちに陳倉へ九万の兵を動かし、張嶷将軍は司馬懿の、廖化将軍は曹真の背後を突くのだ。私と姜維、張翼将軍はそのままビ城を落としにかかる」
「「ハッ!」」
「魏延都督」
「ここに」
「都督は後方の陽平関に向かってくれ。副将に馬岱をつける」
「丞相、この魏延は前線の大将。何故後詰を行わねばならないのですか」
「ただの後詰をとして都督を向かわせるのではない。戦況を逸早く見極め、果断に行動できるのは都督の他を置いておらぬ。今回の作戦では主戦場がいくつもある為、一つでも落としてはならない。どこかの戦況に異変が起きた場合、一番早く行動に移せるのは都督だけであると私は思っている。だからこそ、戦場をいくつも潜り抜けてきた二人に後詰を命じるのだ。そして、都督にはもう一つの大任を命じる」
「もう一つ、とは」
「私の本隊がビ城に迫り、趙雲将軍が曹真軍と交戦を開始した時、子午谷より進軍し、曹真、司馬懿が戻るよりも早く長安を急襲せよ。魏の皇帝である曹叡の首を取れ」
「な……そこまで、考えておられたのですか。分かり申した!身命を賭して、陛下に、先帝に、丞相に、必ずや曹叡の首を御覧に入れましょう!!」
「本隊がビ城を襲えば、必ず司馬懿も曹真も浮足立つだろう、好機は間違いなくその時だ。この一戦で決めよう、各自の奮迅の働きを期待する」
間違いなく、この一戦が「北伐」を左右する。
諸葛亮の号令に応える将兵の士気は、天を貫かんばかりに高かった。
今まで率いたことがある兵の数は、最大でも五千程度であり、敵もまた国内で起きた小さな賊の反乱程度。兵の質、数、武具や馬、どれをとっても格下の相手ばかりだった。
敵の歩兵を騎馬で割り、陣形が崩れたところを見て、歩兵をもって揉んで絞めて潰す。敵が騎馬を中心にした陣形であったときは、歩兵を五人から十人単位で固めて敵の馬の機動力を奪い、後にこちらの騎馬で敵陣を割っていく。
降兵は徒党を組めないように、小隊に一人ずつ分けて配置して監視することで、再び反乱が起きないように努めた。いつも、反乱の鎮圧を終えて帰還したときは、兵の総数が増えていたほどである。
天才だと、口々に誰もが呟いた。
しかし、馬謖は、自分の事を微塵もそう感じたことはない。ただ、懸命に孔明の後に付いていただけなのだ。
諸葛亮孔明、まさに一代の英傑。虹を追いかけている感覚に近かった。近づいたと感じることなど、ただの一度も無かった。
『君だけが、将来、私の後継者となり得る素質を持っている』
光栄極まる言葉、しかし、喜ぶ事などは出来なかった。近くに居るからこそ分かる、あまりにも、格が違いすぎると。
孔明は、明らかに痩せた。狩りの前の猟犬には、闘争心や本能を極限まで高める為、餌を一切与えない様にする。今の孔明はまさにそれだ。貪欲に獲物を狩る猟犬そのものである。
重圧と、焦り。早く、虹に辿りつかなければならない。虹はいつか消えてしまうもの。消えてしまえばもう、追えなくなる。
「馬謖将軍、間もなく街亭でございます。丞相からは、この山道に陣を構えよとの命でございます」
隣で馬に揺られているのは、副将である王平将軍だ。
肌は浅黒く、比較的目の彫りも深い。異民族の出身で、文字が読めず、話す言葉も闊達ではない。印象としては、徹底された「軍人」であり、決して命令違反をすることはないような人物だ。
現に、将軍としての地位は王平のほうが高いはずなのに、今回の作戦で副将に据えられても、不満を抱くどころか忠実に馬謖に対してきちんとした礼をとっている。
何故、この王平将軍を副将に付けたのか。きっと、自分を試しているのだろうと、馬謖は思った。
忠実な軍人としての資質を。後継者に足る器かどうかを。言うことを聞けと、親が子に諭すのと同じ様に。
「なるほど……良い地だ。ここに陣を構えれば、十日は何とか耐えることが出来るだろう」
左右には岩肌の露出した山がそびえ、その中央に申し訳程度に整備された細い山道が通る。街亭へ通じる道はこの一本のみで、ここを封鎖してしまえば、一挙に大群が押し寄せてくることが出来ないこの地形で長く守りを固めることが出来る。
しかし、十日だ。引き分けを、十日続けることが出来るだけである。この地に陣を構えれば、北伐が成功するのはまだまだ先になるだろう。まさかそのことに諸葛亮が気づいていないということは無いはずだ。だとしたら、何を見据えているのだろうか。
「馬謖将軍、何をそのように考えておいでですか?」
「丞相は、何を見ておられるのだろうと。常に考えている」
「……失礼ながら申し上げますが、今はその事を考えるべき時ではありません。武将は、授かった命を忠実に果たすべき、それだけにございます」
いつもは、気にもならないその言葉。しかし、馬謖の心は妙にささくれ立った。
自分でも少し驚いた。それほどまでに、いつの間にか心に余裕を持てなくなっているのだと。
「私は、先生に天下を取ってほしいのだ──」
馬謖は街道のそばの山を指す。
「──王平将軍、私はあの山の上に陣を敷くぞ。山道に、兵は置かぬ」
覚悟はとうに出来ていた。街亭を捨てる。この命と共に。
全ては、あの人に天下を握って欲しいが為に。
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