第4話

「何故、祁山へ?ビ城からも長安からも、距離は離れまするが……」

「祁山こそ、長安へ通じる道だからだ。馬謖、私の言っている意味が分かるか?」

「はい」

 馬謖。今、最も将来を有望視されている武将だ。武将とはいっても軍人ではなく、どちらかというと大局を見据える事が出来る指揮官の様な人物だと、王平は評価していた。まだ万を超える大軍を率いた経験は無いものの、諸葛亮の抜擢により将軍へ昇進。小さな反乱を鎮めるような戦では軒並み完勝し、指揮官としての才覚を既に現し始めている。

 王平にとっては、別段親しい仲というわけではないが、嫌いな人物というわけでもなかった。そのくらいの関係性である。

 その馬謖は、幕に掲げられた地形図の前に近づき、まず「祁山」の一点を指した。

「祁山は、ビ城や長安へ通じる大河『渭水』の上流近くに位置しております。背後の天水などの郡は全て抑えてあるので、背後を憂う必要もなく、戦場全体を見渡すことが出来ます。更にこの祁山から兵を出せば、渭水に沿って直線的にビ城や長安へ攻め込むこともでき、今まで頭を困らせていた食料の輸送も、船を使って渭水より運搬することが可能となります。そして最も利となる点は、街亭とビ城を結ぶ地である『陳倉』へ直接進軍することが出来るというところでしょう。陳倉に蜀軍が進めたならば、一挙に司馬懿や曹真の率いる二つの魏軍を背後から突くことが出来る形に持ち込むことが出来ます故」

 なるほど。妙案だ。流石丞相。先ほどまで不安げな表情を浮かべていた周囲が安堵したように、口々にそう呟いている。皆が言うのならきっとこれは良策なのだろう。しかし王平は、ただ一人、浮かない顔をしている馬謖が気になっていた。

 他にも馬謖の浮かない表情に気付いているのは、諸葛亮と魏延の二人だけのようだ。

「祁山には今、張翼将軍を向かわせている。もう既に、陣は築きあがっている頃だろう……さて、馬謖。それでも何か言いたいことがあるなら申してみよ」

「丞相。畏れながら申し上げます。現在、曹真率いる魏軍二十万と対峙しておりますが、祁山へ向かうとすれば、いずれの将軍をこの地に残しておくつもりでございましょうか」

「現在陣の前線にいる趙雲将軍を大将として、副将に『トウ芝』将軍、二人には八万の兵を率いて曹真と対峙してもらう」

「魏軍は二十万、対して趙雲将軍は八万。確かに街亭に迫る司馬懿の軍も脅威ですが、敵の本隊を疎かにしては本末転倒でございます」

「曹真は我が軍との緒戦にいずれも敗北しており、もう迂闊に動くことはしない。そもそも大将軍の器ではないのだ、アレは。保身の為に自ら動くことも無いだろう。そうなると最も目を向けねばならないのは、今は司馬懿のみである」

「蜀軍の本隊が陳倉へ侵攻した時も、果たして同じでしょうか?背後を突かれる形となった曹真軍が、退却ではなく、一か八かの賭けで趙雲将軍の方へ攻勢に出て、そしてこちらが破られてしまうと、形勢は一気に変わってしまいます。今度は我らが曹真軍を追う形になり、司馬懿軍に背後を脅かされます」

「曹真は動かぬ。例え動いても、堅陣を敷く趙雲将軍をすぐに破ることなどは出来ぬ。その間に我らは曹真軍の背後も突ける、心配はいらん」

「昨日も申し上げましたが、私は、魏延都督の策を支持いたします。天の時は、今でございます」

 誰もが息をのむ、そして誰よりも驚いて声も発せないでいたのは、魏延であった。諸葛亮の眉間には、深くシワが刻まれている。

 珍しい光景だった。王平の記憶では、諸葛亮と馬謖が意見を違えた事などほとんど無かった様に思える。

 諸葛亮の決めた戦略の細かな個所を、馬謖が補佐していく。馬謖の献策を基に、諸葛亮が戦略を編む。戦略的な軍議では、この形で意見がまとまることが多かっただけに、今回のこの決定的な意見の違いは、珍しいという気持ちと同じく、どこか一抹の不安を抱かせるものでもあった。

「馬謖、私は今までお前を我が子同然に育ててきたつもりだ。よく無理な難題も押し付けたが、いつも期待以上の結果を出し続けてくれた。しかし、今は私が丞相で、お前はつい最近に将軍に取り立てられたばかり。黙って従えと言うつもりは無い、ただ、お前だけは私の意図を汲み取れるはずだと、そう思っている」

「丞相……」

 諸葛亮が立ち上がった。これは、軍議が終わる一種の合図のようなものだ。

 しかし、このまま解散ではない。それは王平にも分かった。現在、蜀軍の食糧庫である街亭に司馬懿軍が迫り、そして目前には曹真軍が立ち塞がる。このどちらの軍も、蜀の総軍勢とほぼ変わらぬ数であった。

 それでも、王平は顔色一つ変えることなく、諸葛亮の次の言葉を待つ。

 敵が例え何倍も多くても、命令通りに動く。死ねといわれれば死ぬ。文字が読めず、豪傑と呼ばれる力量も無く、才知に長けてる訳でもない、さらには魏からの降将であった王平は、その確固たる芯が通っていたからこそ、いま地位を築き上げる事が出来ていた。

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