第3話

 気づけば齢は、三十を超えていた。そして、諸葛亮は五十に及ぼうとしている。目の前にいるこの諸葛亮は、間違いなく歴史に大きく名を遺すほどの英雄である。その英雄に付き従ってきて、常に格の違いというものを見せつけられてきた。例え一生を費やしたとしても、自分はこの人には遠く及ばないだろうと、尊敬と同時に、諦めも感じていた。

 そんな馬謖にとって「英雄の後継者」は、あまりにも荷が重すぎる話であった。

「せ、先生。後継はまだまだ先の話でございましょう。天下は依然として先生を必要としておりますし、ましてや先生の代わりとなるような人物はおりません。それよりも、まずはこの北伐です。魏を滅ぼし漢を復興させれば、軍事は他の者に任せることも出来ましょう」

「そうだな、私が北伐を成さねば……劉備様の、遺志を……」

 眉間に深くしわを寄せ、諸葛亮は目を閉じたまま動かなくなった。

 きっと、相当疲れているのだろう。日中、緊張の糸を張り詰めすぎているだけに、最近の諸葛亮はこうしてプツンと、急に眠りに入ることが多くなっていた。

 数回、諸葛亮に声をかけるが反応はない。深い呼吸を繰り返しているだけだ。馬謖は幕舎の外の従者へ呼びかけて、諸葛亮を寝所へ運ぶように指示した。

 幕舎の外へ出ると日はもう沈みかけており、陣中のあちこちでかがり火が煌々としている。

「先生は恐らく、今回の北伐が長くかかると……それも、自分の命数よりも長引くと読んで、死後の事まで案じているのだろう」

 この北伐を開始して以来、確かに諸葛亮は、自分の命を削るように職務をこなしていたように思えた。

 諸葛亮の死後。それはまだまだ先のことだと、そもそも考えもしなかったことだったが、もしかしたらすぐ近くまでに来ているのかもしれない。馬謖は、目の前に底の見えない穴が開いたような、そんな気分に陥った。


 蜀軍の将「王平」は、軍人であった。

 元は少数の異民族の長であったが、魏に降って武将の一人となり、後に蜀に降伏して、また将軍として戦場に立つことになった。他の異民族の長であった者達は、魏に降る際に「誰かの指示を受けるのは辛い」と口々にぼやいていたが、王平は一度もそのように感じたことはない。

 自分が戦う理由を、他の誰かが考えてくれる。むしろ気が楽な程であった。自分が民族の長になった時は、戦う理由も、これから何を目指せばいいのかもさっぱり分からなかった記憶がある。

 王平は字も書けず、頭も良くはなかった。しかし、そのせいで困ったことは一つもない。何かの岐路に立ったときは、一つも迷うことなく、不思議とすぐに「根拠のない決断」が出来たからだ。小さな頃からずっとそうで、養母はいつも「お前は、後悔をしない生き方が出来る、芯がしっかりした男なんだ。きっと大物になるぞ」と褒めてくれていた。

 魏軍の将として蜀軍と戦い、敗北し、兵達の命を守る為に降伏。その後は蜀軍の将として戦い、功績が認められ軍を任されることも多くなった。

 正直、誰から指示を受けようと関係ない。例えそれが諸葛亮でも司馬懿でも、上の人間に言われたことを確実にこなすのが自分の、軍人としての務めである。きっとこれが、自分の曲がらない「芯」というものなんだろうと、王平は感じていた。

「───物見でございます!」

 軍議の最中であった。

 またいつもの様に、諸葛亮丞相と魏延都督の意見に相違点が出始めていた頃合いである。幕舎に、鎧を付けていない一人の物見の兵士が、激しく息を切らして飛び込んできた。

「司馬懿、張コウ率いる軍勢およそ十万は、進路を『街亭』に定めている気配でございます!このままだと、早ければ翌週には街亭へ到着するものと思われます!」

「……あぁ、分かった。引き続き斥候を続けよ」

「御意」

 息も落ち着かぬうちに、物見は幕舎の外へと飛び出していく。

 周囲は神妙そうな面持ちで騒めいているが、王平は相変わらずその事態がうまく呑み込めないでいる。そもそも、「街亭」が自軍の拠点の一つであるということは分かってはいるのだが、それ以上の事は何も知らなかった。

 そんな中、明らかに顔に怒りの色がありありと浮かんでいる魏延が、幕舎の幕が破れんばかりに怒りの声を上げる。

「丞相っ!街亭は我が軍の食料が貯蔵されている場所、いかがなさいますか。曹真率いる魏の主力軍は我が軍の正面、斜谷に陣を構えており、先日丞相が話しておられたビ城を取るという策も困難。長安を攻めるにせよ、街亭を守るにせよ、ビ城へ向かうにせよ、迅速な決断が必要でございます」

 鬼気迫る剣幕の魏延。しかし諸葛亮の顔は涼やかなもので、大したことはないとでも言いそうな雰囲気で、地図を眺めていた。

「丞相!!」

「くどい、と昨日も言った筈だ。学習してないのか、魏延。将軍達も皆、落ち着きが足らないな。そもそも、司馬懿がまず街亭へ向かうことなど、予め分かっていたことだ。大軍が自国を離れて遠征しているとき、最も急所となるのは食料なのだから」

「な、それでは丞相には策がお有りで……?」

「この策で、司馬懿の裏がかければ良いのだが。これから指示を出す。まず、我が軍が進むべき場所はビ城でも長安でもない。準備が整い次第、我が軍は『祁山』へ進む」

 一同のざわめきがピタリと止まる。

 眉をしかめ、一層不可解な表情をした魏延が地形図を眺めながら口を開いた。

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