第2話

「もう良い魏延、私の腹は決まった。我が軍は斜谷に出でて兵を進め、ビ城を取る。その後に長安へ臨む」

「しかし、丞相!」

「くどいぞ、今日の軍議はこれまでだ。明日、進軍の行路を決めた後に兵を進める。皆、下がれ……あぁ、いや『馬謖』、君は残ってくれ」

 文官武将は皆、胸の前で掌と拳を合わせ礼をし、幕舎を後にする。魏延だけは最後まで何か言いたそうに諸葛亮の前に立っていたが、一言だけ「御意」と言い、強く地面を踏みながら外へ出た。

 そして広い幕舎の中、残ったのは諸葛亮と、武将の馬謖のみとなる。

 馬謖は幼い頃から才知に長け、その並外れた才能を、諸葛亮も高く評価していた。その間柄は師弟同然であり、馬謖は多忙な諸葛亮を良く補佐している。

 性格は常に冷静沈着で、時を見極めて大胆な行動が出来る等、武将としても有能であった。また、自らの才覚を鼻に掛けて驕り高ぶることも絶対にしなかった為、周囲の文官や武将との関係も良好である。

「先生、お疲れのように見えます。しばらく休まれてはいかがですか?私のことは、また後で呼びつけてもらっても構わないので」

「大丈夫だ、心配するな。この『北伐』は、劉備様の悲願であらせられた。この程度で疲れたなどと、言ってはいられないのだ」

「分かりました」

 魏延と同じように、また、諸葛亮もこうして強情な質であることを馬謖はよく理解していた。特に、先帝の劉備に関わることになると、ことさらその強情さは増す。そういう時はこうして素直に、了解の意を唱えるのが一番良かった。

 しかしそれにしても、この北伐での諸葛亮の気の張り様は、未だかつて見たことがないほどである。部下に任せればいいような仕事まで一人でこなし、痛々しいまでに自分を追い込んでいるようであった。

「先生、ご用件は何でしょうか?先生のご負担を減らせるならば、どのようなことでも致しましょう」

「そう緊張しなくてもいい。少し、話し相手が欲しかった。この国の未来について語らえるような、話し相手を」

「お安い御用でございます」

 馬謖は近くの腰掛を手に取り、文机を挟むようにして諸葛亮の前に座る。諸葛亮はそこでやっと思い切り姿勢を崩して、長く息を吐いた。

「なぁ馬謖、お前から見て、私はどうだ?軍略の、内政の、外交の、謀略の能力に長けていると思うか?」

「勿論、先生は当世きっての英傑。全てにおいて誰にも劣らぬ才知をお持ちです」

「……質問を変えよう。私は、司馬懿と比べて、軍略家としての才覚はあるか?大局を見た戦においての優劣は、どうだ?」

「先生の方が勝っていると思います」

「いいや、違う。まともな戦をすれば、私は奴に及ばないだろう。それに加えて、物資量、兵力差、どれも我が軍が劣る。私はやはり、内政や政治の人間なのだ」

「どうなされたのです?いつになく弱気ではありませんか」

 首を傾げる馬謖に、諸葛亮は苦く笑う。

「あぁ、『ホウ統』が、『法正』が生きていれば、私は内政だけに力を注げただろう。君の兄の『馬良』が生きていれば、外交や国政において、ここまで私が頭を悩ますこともなかっただろう。多くの優秀な人材が、早くして逝ってしまった……馬謖よ、今この蜀に、国を支える優秀な人材がどれほど残っているだろうか」

 すぐに否定しなくてはいけないと思いはしたものの、現に、今の蜀は圧倒的に人材が不足していた。だからこそ、当世の英傑とまで言われる諸葛亮に、負担が極端に偏ってしまっている現状がある。内政も国政も軍事や外交に至るまで、諸葛亮は優秀すぎたのだ。

「しかし、私は先生が司馬懿に劣るなどとは決して思いません。現に、孟達が自分勝手に動くのではなく、先生の指示通りに行動を起こしていれば、クーデターを司馬懿は防げなかったはずです。それに、以前に司馬懿が蜀に仕掛けてきた、五つの道から様々な敵勢力を侵攻させるといった策も、先生は見事に完封しました」

「蜀は天然の要害に守られている土地だ、守れて当然よ。馬謖、軍略家としての才は、危険を顧みず、大敗しても生き、なお強く立ち上がれるかどうかで決まるのだ。一戦一戦の勝敗ではなく、最後の一戦に勝てる者が本当に優秀な軍略家なのだ。かの、魏国の礎を築き上げた曹操がそうであったようにな。それを踏まえた上で考えてみよ、私の今回の策は、魏延の策と比べてどうだ?」

 馬謖は困ったように口を紡ぐ。それを見て諸葛亮は、吹き出すように大きく笑った。

「例え誰が相手だろうと、理路整然と弁舌を振るう君だが、こういった嘘は苦手らしいな。わかりやすい奴だ」

「本当に申し訳ありません。ただ、私個人の意見としては、魏延都督の策の方に利があるように思えるのです」

「構わん、理由を話してくれ」

「確たる要因が分かるわけではございません。ただ、申し上げるとすれば、先生の策は『負けない為の策』であり、都督の策は『勝つ為の策』であります。魏は大国です、機を逃せば、蜀が勝利を得るまでどれほどの時がかかるのでございましょうか。都督の策は危険が大きいですが、方針は間違ってはおらぬと、そう思っております」

「長安の周囲には、ビ城も含めた複数の支城がある。その抵抗を押し切って長安に攻め込めるだけの将が、かつての『関羽』将軍のような大器が、今の我が軍に居るか?魏延都督は気が逸り過ぎる、趙雲将軍はもう全盛の頃と比べ老いてしまった。王平、張嶷、廖化、張翼、馬岱、この将軍達はそれぞれ優秀ではあるが、大器とは言えぬ。姜維将軍は、頭も良く、何より平野戦の指揮においては天武の才を持っているが、まだ若く忠烈すぎる故、決戦において身を亡ぼしかねない」

「先生は、欠点ばかりを見つめすぎなのです。各々の将軍達も、欠点を補うほどの長所を持っていましょう」

「───君しか居ないのだ、馬謖。君だけが、将来、私の後継者となり得る素質を持っている」

 細く、骨に皮がついただけのような指が、馬謖の顔を指した。ただひたすらに、まっすぐに見つめられた視線。馬謖は思わず、目を逸らしてしまう。

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