2
人の身にそれほど驚くことは起こらない。一般的に起こりやすいことを知識として知っている前提において、常識や蓄積された知識から大きく外れたことは起こらない。親に捨てられたり他人にない能力を持つ人間が言っても説得力に欠けるかもしれないが。
ぼくの机の中に入っていた手紙も常識の範囲を外れることはなく。人間誰しもに起こりうるように、それは一通のラブレターだった――だから、そう、常識から外れなくても驚愕に足るインパクトを与えることがあるのだと、ぼくは身を以て体験したのだけれど。
ぼくの机の中に見知らぬ手紙が入っていればそれ即ちラブレターであると判断する人間ではない、ということは必要とあらば咲良や叔母さんが証明してくれるだろう。なにせぼくといえば基本的に人間を信用することはなく、友達は作らず恋人も作らず、信頼と親愛を向けるのは妹だけというスタンスで五年以上生きている硬派な生物であって、他人との接触においてはまず疑いをもつところから始まるのは当たり前になっている。
まずぼくはその手紙の実在から疑ったし、その封を開けて中身を確認してからも内容の真偽を見極めるのに時間をかけた。人間関係が絶望的だから、情報の裏をとることは叶わなかったけれど。
結果として、この手紙がラブレターである、という証拠が得られたのは、手紙の送り主こと遠藤環さんという女の子の口から直接真実を聞いた時だった。
「あの、わたし近江君のことが前から気になってて……」
ほう、それは奇特な。なんて口に出せるはずもなく。
手紙に書いてある時間と場所に行ってみれば、茶髪で少し制服を着崩した、言い方は悪いがちょっと遊んでそうな女子が待ち受けている、なんてシチュエーションは予想外で。ぼくの頭は彼女の言葉に反応するだけのリソースが不足していた。
「図書館で何回か見かけてるんだけど、わたしのこと覚えてないかな?」
「ごめん、覚えてない」
反射的に出た返事があまりにもぶっきらぼうで少し自己嫌悪。他人からの評価はどうでもいいのだが無闇に傷つける悪意は持ち合わせていない。
良い返事をする気もないのに傷つけたくないなんて思うのは傲慢だろうか。
「そう、だよね……近江君っていつも遠いところ見てるような瞳してるし、わたしのことなんて見てないよね……」
この遠藤さんも冷静ではないのだろう。ぼくのことを褒めたいのか貶したいのか、はたまた自分のことを卑下したいのか、よく分からない発言だった。そんな彼女の姿を見て、ぼくは逆に落ち着けたけども。
「でも、近江君のそういうところが好きです。もしわたしに少しでも可能性があるなら……付き合って、くれませんか……?」
真っ直ぐな態度で、真っ直ぐな言葉で、真っ直ぐな瞳だった。
きっと遠藤さんが魅力と思ってくれたぼくの瞳には彼女のような眩い光は宿っていないのだろうし、だからこそぼくは自分のことが大嫌いなのだけれど。彼女のような純粋な人が認めてくれるのなら、自分を少しだけ好きになってもいいんじゃないか。
一瞬だけそう思った――血迷ったような、瞬間の幻想だった。
「ごめん、付き合うことはできない。君よりも大切な人がいるから」
その言葉は、一切の迷いなく胸を張って言うことができた。
自分でもこの感情以外のすべての気持ちが、言葉が、表情が、偽物だと思えてしまうような純粋な感情だった。そこには粗悪品も模造品も欠陥品も不純物もなく。大切な人、咲良を想う気持ちだけには見栄も自己嫌悪も混ざっていない、純粋な愛情だと断言できた。
「そんなぼくといても幸せになれないから。悪いんだけど――」
「じゃあ友達からはどう? 友達もダメ?」
――あれ?
脳内処理が予想外の展開に追いつかない。これ以上ない純粋な気持ちが心の底からでてきた、だから付き合えない、バイバイで終わる話じゃなかったのか?
「近江君の今の一番になれないのは分かった。でも未来は可能性ないのかな、分からないじゃん? まずは友達から始められない?」
ああ、この人、押しが強い人だ……。
ぼくは押しの強い人が苦手だ。圧力に抵抗できない弱い自分を嫌いになるから。心の中のぼくは既に敗戦ムードだ、白旗の準備をしている。
ぼく自身の脳は全く機能しておらず、無意識に浮かぶのはやはり咲良の顔だった。ぼくに友達ができることを快く思ってくれるか、それを咲良に尋ねたいのだが、脳内に浮かぶ咲良は何やら必死に口を動かしている。
『兄さん、女の人の相談には“とりあえず共感”が大事なんだよ』
走馬灯のように聞こえる咲良の言葉。昨日した会話の一部だった気がする。これはたしか、叔母さんを運んだ後にした会話だ。叔母さんの話に別意見で返事したことを、なぜか咲良に怒られたんだ。
“とりあえず共感”、“とりあえず共感”、“とりあえず共感”……。
フリーズした脳内に、こだまのように反響する。
「うん、いいと思うよ」
この言葉を発したのがぼくではないことを祈るばかりだったが、目の前の遠藤さんの反応を、キラキラと喜びを反映した瞳を見るに、現実はいつもぼくに優しくない。
「やった! じゃあ今日からよろしくね、千春君!」
「はあ……よろしく、遠藤環さん」
信じがたいことだが、人生を振りかえれば、彼女がはじめての友達に違いなかった。
「千春君ってクラスに友達いないの?」
「あー……まあ、うん、いないね」
一般的に訊きづらい質問だろうに遠藤さんは特に声を潜めることもなく、堂々と尋ねてきた。まるで言い淀む僕の方が間違っているような気がして、独りでに沈んでいく。
そっかー、と嬉しそうにする彼女の方がおかしいはずなのだ。そう言い張るだけのまともさを、ぼくが有しているとは言い難いので黙っているが。
「遠藤さんこそ毎日ここに来てていいの?」
それは精一杯のカウンター。ぼくのことを可哀相な奴とみるのは勝手だが、そういう自分はどうなのか、友達がいないんじゃないのか。そういう含みを持たせた、あくまで直接的表現を用いる勇気もない卑怯者の最大限だった。
「千春君も友達なんだからいいじゃん。他の時間は別の人とも遊んでるよ? あと、環って呼ぶのは無理? このクラスでは苗字呼びはちょっとイヤなんだけど」
無理ならいいけど、と優しさまで混ぜて返されれば、矮小な卑怯者は素直に負けを認めるしかなかった。
彼女と友達になって数日。遠藤さんはぼくの周囲をいとも簡単に凍り付かせていた。陰のようなぼくに太陽のような彼女が話しかけるだけで、クラス中のざわめきが感じられた。脳内のノイズが大きくなり、自分が波の中心にいるのが分かった。それが一瞬であると分かってしまうのがぼくの能力であり、それで安心するのがぼくの人間性だった。
もう一つ安心したのは、ぼくに友達ができたことに対して咲良が喜んでくれたことだ。妹愛の強い兄としては少しくらい嫉妬を抱いてくれても嬉しかったが、排他的なぼくとは違い、咲良は人の縁を大切に思えるようで、ぼくの友好関係に拍手を贈ってくれた。
咲良が本気で嫌がった場合は、遠藤さんに謝って距離をとらせてもらうしかないなと考えていた。幸か不幸か、貴重な友人第一号を失わずに済んだ。
自分でも驚いたことに、人生初の友人を得てからも日々の生活は平穏を保っている。自分の世界には咲良と叔母さんがいて、盗み聴くことのできる他人の声だけで定員上限。そう思っていたはずの世界は既に広がりをみせていて。遠藤さんのエネルギーを今まさに実感している、ということなのだろう。
告白の日にその片鱗を見せた通り、遠藤さんは押しが強く、声が大きく、存在感が強く、力強く、活動的で、我が儘で自分本位なところもある、パワフルな人間だった。表面的な性格だけを羅列すると、ぼくが勝手に縮こまってしまうタイプの人種なのは間違いない。一方でこちらに無闇に踏み込まない優しさも持っていて、会話しているとそのギャップに惹かれそうになることも全くないではない。もっと早く彼女と出会えていれば――そんな仮定を楽しむことができるくらいには友好的な関係を築いている。
それが愛に繋がるかといえば、可能性は皆無であると断言できるのだけど。
「じゃあ環さんって呼ばせてもらうけど。なんで苗字呼び嫌なの?」
「いるのよ、他の遠藤が。このクラスには少なくとも最低一人はね」
鋭い視線で教室を見渡しながら環さんはそう言った。遠藤君と仲が悪いんだろうか。
たしかにこのクラスには遠藤という苗字の男子生徒がいる。けれど、ぼくと彼には接点がないし、環さんと彼が話しているのも見たことがない、はずだ。
「遠藤君がいるとダメなんだ?」
遠藤君の存在を思い出してから質問を口にするまで五秒もかからなかったはずなのだが、環さんがいつの間にか姿を消していた。辺りを見回し、韋駄天のように自分のクラスに帰っていく環さんの背中が教室の入り口で確認された瞬間、午後一つ目の授業が始まるチャイムが鳴り始めた。
もう昼休みが終わったのか、と時間の早さに驚く。少し前までは咲良のことを考えるか、色んな人にチューニングして暇を潰すしかない人間だったのに。ぼくという人間が別個体に変わってしまったようだ――というのは流石に調子に乗り過ぎだ、恥ずかしい。環さんがいなくなれば、元の自分自身でしかないのに。
視界の端に、噂の遠藤君が映った。チャイムと同時に教室に入ってきた彼に紅潮した頬を見られたのではないか、と一瞬心配になった。授業中に心の声を聴いて確かめて安心できるのが幸いだった。既におぼろげな遠藤君の顔を思い出しながらチューニングし始めると、混線するように助けを求める誰かの声が聴こえた。以前より頻度が増しているような気がしたけれど、出逢いもしない世界に気を回す余裕がなくて、すぐに忘れた。
放課後の教室でなぜかぼくは遠藤君に絡まれていた。
絡まれた、という表現では彼に対する印象操作、偏向報道と捉えられかねないので話しかけられた、と換言はしておくけれど百八十センチを超える金髪男子に急に声をかけられたぼくの立場で考え直してほしい。“絡まれた”という言葉に実感が湧いてくるはずだ。
いつも通り咲良を迎えに行くまで図書室に行こうか、と荷物をまとめている時だった。今までなら授業が終われば即図書室をルーティンとしていればよかったのだが、最近では環さんが放課後でも遊びに来ることがあるので動き出しを遅らせたのが敗因だったと分析する。スタートダッシュに失敗しなければ、人の波を華麗に潜り抜け、誰にも話しかけられることもなくその場を立ち去ることができたはずだ。
だが、残念ながら友達を得てぼくは弱くなってしまった。
一度も会話したことのない遠藤君が「今時間ある?」と訊く時間を生んでしまった。話しかけられて固まってしまったのはぼくの対人経験のなさが原因だが、それが分かる者は片手の指で足りるほどしかいない。というか片手でも余る。
随分と簡単な弱体化もあったものだ。
ぼくのことを全然知らないであろう遠藤君にぼくの感情の揺らぎが判別できるはずもなく。彼はぼくの硬直を沈黙、ひいては肯定とまで深読みしてくれた。
「それはよかった。アンタも話したがってるんじゃないかと思って。さっきの時間、随分うるさかったもんな?」
一瞬、自分の呼吸が止まったのが分かった。周囲の喧騒に関わらず決して静かになることがない、常に誰かの声がノイズとして聴こえているぼくの世界にも凪の時間が確かに訪れた。呼吸が止まり心臓までも止まっているような気がする、そんな静寂がそこにはあった。
幼少期の記憶が思い出された。咲良を連れて帰れば両親が消えていた、あの日のこと。世界の変革が暴力的な静寂で伝わってきたのと、同じものを感じていた。
――遠藤君も他人の声が“聴こえる”んじゃないか?
環さんとの会話が尾を引いていたのだろう。或いは遠藤君に恥ずかしい表情を見られたかもしれない、という不安の方が大きかったかもしれない。やたら印象に残った遠藤君のことが気になって、今日の午後は彼にチューニングしていた時間が長かった。
誰かの声を聴いている時に全くの無意識でいるのは非常に難しい。誰にも聴こえていない心の声で相槌を打ったり感想を言ったりする自由がぼくには約束されていたのだから。
少なくとも、先程までは。
「遠藤君はいつからきいてたの?」
「なんとびっくり、今日からだ。驚いたね、こんな日が来るとは」
いきなり他人の声が聴こえてくればそうだろう。ぼくは時間をかけて徐々になれていったけれど遠藤君は平然としている。直球な質問を投げてみても真っ直ぐ返せる余裕すらある。経験値の多いぼくが話をリードするべきなのかもしれないが、驚きで言葉が出てこない。
「嬉しいよ。アンタとは似ていると思ってたが、こんなところで繋がるとはな」
似ている? ぼくと遠藤君が?
どこを見てそう思っているのだろう、と本気で考えてしまった。見た目も性格もかけ離れているのに。どこに類似点を見出してくれていたのだろう。
けれど今なら、そんなことを思い悩む方が野暮だとすら思える。もし彼がぼくと同じ能力を持っているのなら――持っているとほぼ確信しているが――表面的な類似点が誤差に思えるほどに、深い部分でぼく達は繋がりあえる、理解し合える。秘密を、共有できる。
咲良にすら、打ち明けられなかったのに。
「ありがとう、嬉しいよ。もしかしたら、君のような人を待っていたのかも」
そう言ってぼくは手を差し出した。信頼の握手を求めて。
「……? お、おう。これからよろしくな、千春君」
遠藤君は何か掴み切れないような表情を浮かべながらぼくの手をとった。今日はもしかしたら近江千春革新の一日かもしれない。記念日だ。帰ったらケーキを食べよう。
浮かれた気分と同時に、ぼくの内面には上手く消化できない異物感が残っていた。遠藤君の距離の詰め方に引っかかっているような気がするのだ。誰か、他人との距離感が似ている人を最近見たような気がする。遠藤君と誰かに既視感を覚えている。
探し人はすぐに特定できた。知人が少ないとこういう時に検索が早い。
ぼくの脳内回路がその人に辿り着いたまさにその瞬間、教室の扉がガラガラッと勢いよく開き、大きな声とともにご本人が現れた。
「千春君いる? ……いた! 図書室まで探しに行ったんだけど、まだ教室にいたんだね! 今日こそ一緒に帰れるかって、訊き……に……」
いつも通り快活な声、しかし徐々にトーンダウン。視線の動きはぼくから遠藤君へ、笑顔から睨みをきかせた顔に移り変わりながら。
環さんと遠藤君。出会ってはいけない二人が出会ってしまったような予感がした。
「なんでアンタがここにいんのよ。その握手はなんなのよ。離しなさいよ、千春君はわたしの友達なんだけど?」
「はっ、残念だったな! この固い握手が見えるなら分かるだろ。千春君はもはやお前だけの友達じゃない、俺の友達でもあるんだよ!」
わたしの、の部分を強調した環さんの言葉に、俺の、の部分を強調して返す遠藤君。勝ち誇ったように浮かべるそのドヤ顔からは、悲しいほどに知性が感じられない。得意げな顔は小学生のそれだ。
「誰のというなら、ぼくの所有権は咲良にあるんだけどな……」
ぼくの反論は二人の作り出す騒音にかき消された。口喧嘩はヒートアップし、インファイター同士の殴り合いのようなスピード感と緊張感をみせている。殴り合いに発展するまで数秒前、というほど盛り上がる二人を前にして、流石にそろそろ止めなければ、と根性なしのぼくが覚悟を決めるほどの熱量だった。
「えっと、状況を整理したいんだけど。二人はなんで仲が悪いの?」
二人の視線がぼくへと集まる。それまでお互いに向けあっていた怒りの感情が瞳に表れていて、両者から突然それを向けられたぼくの肩が震えた。
先に気を落ち着かせ、口を開いたのは遠藤君だった。
「バカなこいつが『何も悪くありません』みたいな顔してるだけでムカつく」
「ビビりなくせにわたしにだけ偉そうなのが腹立たしい」
すぐに相手の嫌いな点が浮かぶところをみるに、相当に仲が悪いらしい。
「付き合いは長いの?」
「まあ一歳差だから。嫌でも顔は見ることになるよ」
「中学まではともかく、高校は別のところ選べばよかったじゃないか」
「嫌よ。制服が可愛くてわたしが入れるレベルの高校に進んだアンタが悪い」
なにおう、と更に一戦交えようと身構える環さんと遠藤君。この二人はどの話題が導火線に繋がっているか分からない。火消し係の気持ちになってほしい。
すっかりと火消し係に定着してしまったぼくではあるが、先程の会話で素直に呑み込めない部分があった。二人の勢いに巻かれて、思い付きの疑問が口をついて出てしまった。
「え、環さんって一年生なの?」
先程まで怒号が響いていた教室に、ぽつんと空隙が生まれた。静寂という名の空白。
直後、遠藤君の笑い声が教室を埋めた。それはそれは気持ちよさそうに、一生笑えるネタができたと言わんばかりの大爆笑。一方で、環さんは茹で蛸のように顔を真っ赤にして俯き、身体を小刻みに震わせている。
対して発言者のぼくはといえば、自分が何か踏んではいけないものを踏み抜いてしまったという確信だけがあった。周囲にあったのは大量の導火線でなく、地雷原だったのだ。
とんだ火消し係もいたものだ。
「環! お前の“お友達”、お前の学年すら知らんのか!」
さては名前も知らんだろ! と大爆笑する遠藤君を止めるべく脇腹に横槍が入った。槍というか刀、環さんの足刀だった。素晴らしい切れ味だった。
悶絶する遠藤君を――悶えながらも笑い続けていたけれど――横目に見ながらおそるおそる環さんの表情を窺うと、悔しさと恥ずかしさが混ざり合った赤面がそこにはあった。
「う、うるさい! 順番、順番ってものがあるでしょ!」
そう言われればそうか、というレベルで気に留めていなかったが、ぼくは環さんのことを全然知らない。友達として昼休みを一緒に過ごす仲になったのに。あまりにも自然に教室に入ってくるものだから、勝手に同学年だと思い込んでいた。
しかし殊ほかの話題に関して言えば、どう考えてもぼくに非があるのだった。ぼくと環さんの会話の構成はといえば、基本的に環さんが喋りぼくが相槌を打つという形で成されている。ぼくがもっと関心を抱いて踏み込もうとしていれば、今回の件は発生しなかったはずなのだ。
原因はぼくのコミュニケーション不足にあるといっても過言ではなかった。
真っ赤な環さんと、自分の至らなさに失望して青ざめるぼく。傍からみれば不可思議な光景に映ったことだろう。唯一観測し得た遠藤君はようやく回復したところだ。
「てことは千春君、俺とコイツが兄妹だってことも知らない?」
知らなかった、とぼくはぶんぶんと首を横に振る。遠藤君が笑い、環さんが呆れた。
「アンタみたいな恥ずかしい奴、紹介するわけないじゃない」
「お前……! まあその発言は百歩譲って許すとしてもだ。俺のクラスメイトに告白するなら、俺に一言あってもいいじゃないか。今日知ったんだぞ?」
「せめて理解できる理屈で喋ってくれバカ兄貴」
バカっていう方がバカなんだぞ、とバカっぽい兄が怒り始めて喧嘩が再発することは容易に想像できたので、しばらくは聞き流していた。
遠藤君の発言を、反芻する必要があったから。
このほほえましい兄妹で得られた情報と、先程までの遠藤君とぼくの会話。分かりやすい、しかしどこか引っかかる共通点があったはずだ。
キーワードは『今日知った』。
一方では妹の告白を。もう一方では、自分の能力の発現を。
結論から言えば、ぼくは今、後者について疑わしく思っている。彼ははっきりとそう言ったか? 『自分は他人の声が聴こえる』と。言っていなければ、すなわち……。
すっと静かに手を挙げた。二人の視線がぼくに集まる。
「はい、遠藤君。質問です」
「俺の妹をフった千春君、発言を認めます」
「いらんこと言わんでいいから」
自由な兄妹だ。愉快な二人に促されて、ぼくは続けた。
「『うるさかった』ってなんのこと?」
「そんなこと言ったっけ……ああ、環が昼休みに猿みたいに騒いでたこと?」
ああ、やっぱり。全てはぼくの早とちり――遠藤君には他人の声なんて聴こえてはいなかった。ぼくの喜びも悲しみも、一切の感動は一度として彼には届いていなかった。
誰が猿よと兄に殴り掛かる妹の姿と、恥ずかしさから顔を覆うぼくが並ぶ。
遠藤君に声が聴こえていないのならば、全幅の信頼を込めたあの握手はなんだったのだろう。咲良以上の理解者という夢みたいな期待は儚く散った。
あり得たかもしれない未来のぼくが、一人死んでいった。アーメン。無宗教だけど。
「そもそもなんでアンタが千春君に話しかけてんの。無関係でしょ」
「ハル仲間だろ」
遥。それが彼の名前だったと思い出すのは一瞬だった。
「“遥”に春関係ないじゃん」
「千春君キビシイっすわ……」
そのまま遥呼びでいいから、と笑って流す遠藤君……遥に救われる。
「いつ千春君と友達になったのよ」
環さんが遥を細かく尋問する光景も見慣れてきた。妹が兄に質問する姿を指して言うには物騒すぎる表現だがこの兄妹には似合ってしまう。
咲良との間にもこういう未来があり得るのだろうか。
また新しい友達ができた、と咲良に言ったらどういう顔をするんだろう。また笑ってくれるだろうか、それとも少し妬いてくれたりするのだろうか。近い未来を想像すると、自然と頬が緩んでしまう。
「さっきだよ。“俺のような人を待っていた”、らしいぜ?」
「それはもう忘れてくれ!」
その記憶は焼却炉にでも捨てていってほしかった。環さんに続いて顔が真っ赤になる。再び顔を覆い隠すぼくと、それを笑い宥める友達が二人。
ぼくは着実に、人間らしい一歩を踏み出していた。
ソファで隣り合う咲良に、学校での出来事を報告した。咲良は笑ってくれた。喜んでくれた。でも、ぼくと同じように喜んでくれているのか、少しだけ不安になった。
ぼくと咲良の二人だけの世界。愛に溢れた、穏やかで居心地のいい世界。
その世界に亀裂を入れたのはどちらの心だったのだろう。
世界に刻まれた僅かな罅の存在にすら、ぼくはまだ気づけていなかった。
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