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他人の考えていることを言い当てる人間が新興宗教の教主をしているらしい。そんな噂が流れ始めたのは、ここ一、二週間前のことだそうだ。七月の頭、初夏という概念が消え、夏の全盛期を一足早く経験できてしまう地球規模でのキャンペーンの中の出来事。
ぼくがその話を聞いたのは、有名ハンバーガー店で期末試験に向けての対策を遥とともに練っていた時のことだった。勉強に集中できない遥からこぼれた話題。この件に関して、遥を責めるようなことはできない。試験対策を始めるには少々早く、普段ならば遥は動いていないような時期に、ぼくの都合に合わせて行動してくれているのだから。
友達付き合いの勝手が分からないぼくに合わせてくれるのは、素直にありがたい。
生まれて初めて友達ができてからというもの、ぼくは一般的にいうところの青春に身をやつしている。用事があるなら私の迎えはいいからね、と咲良に釘を刺されてしまっては環や遥との交友を反故にする理由もなく。友達と勉強したり遊びに行ったり意味もなくバイト先を訪ねて冷やかしてみたり。そんないっぱしの青春を送っている。
「どっかの宗教の偉い女の人が、他人の心を読めるらしいよ」
ぼくが遥から伝え聞いているのと同じように、遥の下にその情報が届いたのも人づて、ということらしい。伝言ゲームのように情報の精度が落ちたり、尾ひれが付くのがよくある噂の広まり方だろうから、どこまで信用したものかとも思うが、この話題は少なくともぼくの興味をそそった。その場では興味のないフリをして勉強を再開させたが、その日の勉強会が解散してからすぐに情報収集に移った。
以前、遥をぼくと同じ能力者だと早とちりした例がある。あれは会話の流れからぼくが勝手に推測を重ねていった結果だったが、それからは他の能力者の存在について希望的ではなく懐疑的であろうと心掛けている。いたら面白いが、いなくても困らない。
だからこその情報収集で、こういう時の受信能力だ。街に出て不特定多数の人間の声を聴きながら過ごしているだけでいい。コーヒーを飲んでいてもアイスを食べていてもいい。情報は自動的に集まってくる。普段無意識に閉じている扉を開いておけば、彼らにとっては発するつもりのない声がぼくのもとに集結する、というわけだ。普段あまり能力を使用しないので、多くの声を聴いて精神的に疲れはしたが、必要経費と割り切った。
情報収集に励んでいる中で、意外な人物も情報ソースとなってくれた。出版社に勤める美里叔母さんだ。叔母さんは心霊現象とかオカルトがあまり好きではない。噂話というか街談巷説や都市伝説のようなものも『あるのかないのかよく分からないから』という理由で好んでいないらしい。ゆえに、今回の件に関して言えば叔母さんの口から話題にあがっただけでも予想外なのだ。曰く『社内でも話題になってるけど事務所はうちの近所らしい』とのこと。それが本当ならば、その能力者の声も既に聴こえているのかもしれない。
いざ腰を据えて情報を集めてみると、噂はまさしく噂らしい形を作り上げようとしていた。重なる部分もあれば齟齬もあり、“他人の心が読める教主”の輪郭は曖昧なまま、現在進行形で膨張を続けている。
ぼくの武器は情報量の圧倒的な多さだ。その物量による負荷がぼくの脳を破壊しない限りにおいて無限に情報を得ることができる。ただし、今回の噂に関しては情報の正確性と鮮度が大事だった。何事にも流行り廃りがあるように、情報にもまた鮮度があり、なおかつ足が早いときているから性質が悪い。
どれが信憑性のありそうな言葉で、どれが妄想で作られた幻なのか。
情報の取捨選択には一週間を必要とした。言い換えれば結論を出すまでにはたった一週間で十分だった――その理由は教主本人に訊かせてもらうとしよう。
時は七月の第二土曜日。虫の声が街を賑わしている喧騒の中、ぼくは目的のビルの前にいた。噂の新興宗教が借りているビル。
情報の取捨選択にリソースを割き過ぎて試験勉強があまり進まなかった。その埋め合わせくらいには満足させてくれ、そんなことを思いながら未知の世界へと一歩踏み出した。
なんということもない、どこにでもある雑居ビルを三フロア分。それが話題の新興宗教、アラヤ教の所有する不動産だった。特別なセキュリティロックも屈強な警備員も存在しないのに、オフィスに入るのには異様な気持ち悪さがあった。
大人のルールはあまり知らないのでとりあえず一番下のフロアの扉をノックした。新興宗教という団体に対して一般的なルールを求めることが正しいのかは知らない。
はーい、という返事があった。扉を開け出迎えてくれたのはスーツ姿のお姉さんだった。扉の隙間から、オフィスの内部が覗ける。一見して怪しいところは見当たらず、何も知らない人が見れば何をする団体なのかと疑うことすらしないだろう。
目の前のお姉さんもまた、ここは怪しいところではありませんよ、と言いたげな笑顔を浮かべている。人当たりの良い笑顔を見て、ぼくは却って臨戦態勢をとった。すぐにチャンネルを合わせ、この女性の考えていることを聴き取る。案の定、心の中では「なにこのガキ」とぼくに対する敵対感情を抱いているようだった。
この人にはいくら話をしても無駄骨だ、と早めに諦めて偉い人に呼び掛ける。ただし、その声はオフィス内に一切響くようなことはなく、団体の構成員たちの日常に溢れたキーボードの打鍵音だけが響き渡っていた。
突然の来訪者、それもどこにでもいる男子高校生が訪ねてきたと思ったら何も話すことなく黙っているものだから、お姉さんの表情と脳内には困惑が溢れかえっていた。
「あの、君。この会社に何か用? お父さんかお母さんがいるのかな?」
「もう少しで上の人が来るので。それに従って対応してください」
「?」
実はお父さんもお母さんも蒸発しているんです、なんて必要のない身の上話をすることはなく。あくまで機械的に、無機質に。用件だけを伝えて再び沈黙を守る。
お姉さんもまた、再び対応に困り果てる羽目になったが、すぐに彼女への救いの手が差し伸べられる予定になっていた。十秒ほどたつと、ぼくとお姉さんの下に知らない男の人が現れた。この人はお兄さんというより明らかにおじさんで、なかなかの強面をしている上に白いスーツときた。もしもオフィス内の雰囲気が違えば、ヤのつく自由業と思われても仕方ないだろう。
「ついてきてくれ、上の階で教主様がお待ちだ。君はもとの仕事に戻ってくれ」
え、と予想外の事態についていけていないお姉さんに強面のおじさんは日常業務に戻るように指示を出す。おそらくこの新興宗教団体の中にも階級制度があり、彼の方が上位に位置しているということだろう。
おじさんの背中に追いながら「ありがとう」と呟いておいた。ほとんどのタイムラグなく「どういたしまして」と返事がある。おじさんの声ではなく、若い女性の声だ。ぼくの予想が正しければ、今の会話はおじさんには聴こえていないだろう――このビルの中でぼくと同じ次元で会話できるのは、この女性唯一人。
教主と呼ばれる、若い女性だけだった。
「やあやあ、よく来てくれた。まずは挨拶かい? 名乗るつもりもないけれど」
開口一番から掴みどころのない無礼な挨拶をかましてきたジャージ姿の女性こそが教主である。直接出会ったのははじめてだが、その顔は知っていた。
強面の男性に案内されたのはアラヤ教が所有するオフィスの最奥。その部屋には本棚があり食卓がありベッドがあり、そして何より教主本人がいた。テレビが過剰な台数、数えてみれば六台も設置されているのだけが異様に映ったが、おそらくは教主のプライベートルームであると予測できた。
「はじめまして、教主さん。近江千春です。ご招待ありがとうございます、でいいんですよね?」
まずは答え合わせです、とぼくが続けようとすると彼女もそれを促した。
「貴女は、貴女たちは世間に出回る情報をコントロールした。おそらく“アラヤ教”というキーワードに関してはぼくにだけ伝わるように細工も施した。つまり、今ぼくがここにいるのは貴女たちがそう仕組んだから。どうですか?」
「正解。一応、どういう方法で情報操作をしたのかも教えてもらえるかな」
「情報の拡散があまりに爆発的でした。今回の噂が広まっていく過程は一種の都市伝説が生まれるようでしたが、速度が、いや加速度でしょうか。徐々に噂が浸透していくというより、人為的に後押しされているようで。浸透加速度が不自然でした」
考えてきたことを吐き出しつつ、呼吸で一拍置く。この人にも受信能力があるのだから言語的コミュニケーションは必要ないのかもしれないが、彼女にとっては余興なのだろう。ぼくが発信しようと頑なに受信しようとしないのだろう。着信拒否。
「自分が情報の発信者側なら、拡散する一般市民が飽きないうちに新情報を追加すると考えました。拡散されたキーワードを拾いながら、興味を持った人間は特に多用される言葉をピックアップする。この方式で噂の“教祖”の輪郭までは辿り着くことができる」
「ただし人物・団体の同定までは至らない。至ることができない」
そういう風に制御させたからね、と教主がぼくの言葉を引き継いだ。ぼくの考えを聞いてある程度満足したのか、或いは自分も喋りたくなったのか、それは分からない。
「ぼくも一度は人為的な足跡を追うのを諦めました。何人もの人が同じように匙を投げたでしょう。昨日のぼくのように急に天啓を得ることがなければ、行き止まりこそが正道。アラヤ教というキーワードが心の声という形でキャッチできなければ気づけなかった――自分が最初から渦の中心にいたなんて」
人為的に噂を拡散させ、面倒な手間をとってまで情報の広まりをコントロールする。多くの人間を、一つの都市を制御下に置く新興宗教団体の暗躍はすべて、小さな目的に収束する。ぼくをこのオフィスに呼び込むための、大掛かりな招待状。
「あらためて、ご招待ありがとうございます」
教主がニヤリと笑う。ぼくの言葉をまっすぐに受け止めて、拍手を贈る。
「お礼なんていいよ。こちらも組織の情報制御能力と構成員の統制能力を測るいい機会として利用させてもらったからね。そして何より、君と話がしてみたかった」
整った顔立ちに浮かぶ笑顔には少女の好奇心と大人の賢しさが混ざり合っていた。外見からも内面からも、彼女の人間性を掴むのは難しいように思えた。
「インターネットを使って自分の“声と顔”を限定的に露出させるのは名案ですね」
「だろう? インターネットの優れたところは見せたい相手をコントロール可能なところだと思うんだ。制御下にあるっていうのは君が思っているより快感だよ?」
突如頭に入ってきたアラヤ教という具体的な名前。おそらくは、ぼくが気づかぬうちに接触していた彼女の部下が発信したのだろう。ぼくが情報収集に努めているであろう時間帯を狙えば不可能な話ではない。
ぼくのような能力がなければ、知らない言葉を調べるのに用いる最適解はインターネットだろう。気になる言葉を検索エンジンに入れるだけで何万という候補が表示される。ぼくもまた、受信能力が最適でないと思えばインターネットに頼ることはある。
検索。既知のものには近づけるし、知る由もないものには縁遠いまま。
自分に接触できるものを選抜するために用いられる合言葉、それが“アラヤ教”。
「答え合わせは以上です。合格点は取れましたか?」
「満点だよ。私が作った道を素直に歩んでくれたことも含めて、ね」
真意が読み取れないニヤついた笑顔。彼女について一つだけ分かったことは、清々しいほどに性格が悪いということだけだ。こちらに主導権を握らせるつもりがない。
今度はこちらが欲しい情報を頂く番だ。
「ぼくが貴女と同じ能力を持っているのはどうやって知ったんですか?」
キョトン、と。ニヤついた表情を貼り付けた教主の顔がはじめて変わった。驚いたような、呆れたような。
「能力、ね……なんだい、君。自分は特別だとでも思っているクチかい?」
「特別だなんて思ってませんよ。でも――」
「違うなら言葉の選択を改めた方がいい。君みたいな鬱屈した人間に“特別”なんて称号が加わったら負の感情を増長させることになる。私はこの力のことを“現象”と呼んでいるけれど、私なら“能力”でも良かったかもしれないね」
他の人にはない力を持つなら特別じゃないのか、という反論は遮られた。遮られたどころかぼくの人格の否定までしていった。とんだ辻斬りだ。
ぼくの手番だと思っていたのはぼくだけのようで、教主は好き勝手に話を続ける。
「カクテルパーティー現象を知っているかい? カクテルパーティー効果ともいうがね」
その言葉には聞き覚えがあった。一度調べた記憶がある。あれはそう、叔母さんがバンドの中で求める音を聞き取れるか、という話をした時のことだ。
「雑音に囲まれたような環境の中でも、自分の興味のある会話は自然と聞き取ることができる音声の選択的聴取のことだ。おや、知っていたのかい。それなら話が早い」
会話を続けながらもぼくの心の声を聴き取り続けているらしい。ぼくが一切の声を発さず顔色を変えずとも、情報伝達が行われる。勝手に考えていることを読み取られているというのはこういう気持ちか、とはじめて実感できた。
「理論的にはトレイスマンの減衰器説だとかカーネマンの限界容量説だとか、色々あるらしいけどね。様々な音を処理して再構築する過程においてはある違いが必要になる」
「周波数ですね」
かつて調べたインターネットのページを思い出す。難しい言葉に関しては深追いしなかったけれど周波数という言葉は覚えている。高校に入ってから身近になった言葉だ。
以前調べた時には驚いた。カクテルパーティー効果とぼくの力が似ていると直感的に思いはしたけれど、自分の解釈がここまで近いとは思わなかった。或いは逆なのかもしれない。ぼくが特定の人物に焦点を合わせることをチューニングと呼んだり力の特性をラジオやテレビの周波数のようなものだと考えたのも、カクテルパーティー効果をどこかで聞いたことがあったからかもしれない。
「そう、周波数。正確には基本周波数なのかな、私にもよく分からないけれど。その違いで人間は選択的聴取を行っている。声や物質の出す波の違いを感じ取って。では改めて、私たちの話をしようか」
「ようやく教えてくれるんですか? 貴女はどうやってぼくの力……現象を――」
「ヒトの心にも周波数はあると思うかい?」
可能ならば、その質問を避けたいと心のどこかで思っていたのかもしれない。カクテルパーティー効果とぼくに起きている現象が似通っていると気づいたとき、関連性がまったくないとは言い切れなくて。教主が発した質問を、過去のぼくは既に自分に問うていた。
「答えとしては、イエスです。でもおかしいじゃないですか」
「何が?」
次のぼくの言葉が何かまで読めているくせに、敢えて声に出させる。自分の予測範囲内で余裕を失っているぼくの姿が面白い、と瞳が語っていた。
「前提がおかしいじゃないですか。心に周波数があって、カクテルパーティー効果が適用されるとして。それでも前提として、人間は普通心なんて読めないじゃないですか」
「だったら君は普通の人間じゃないんだろ」
一刀両断、快刀乱麻。そうあってほしくないという希望を切って捨てる言葉。
「人格や、人生、人間性。私たちは人としての全てが壊れた欠陥品」
情報の浸透速度を、浸透加速度をコントロールしたように、今度は言葉の浸透速度を。じっくりと脳髄に、人格に染み渡るようにゆっくりと言葉を紡ぐ。
「欠陥品が人間に紛れて、平和で幸せな日常を過ごせるはずがないだろう」
今までの自分が死んでいく。輝き始めた学校生活や与えられた穏やかな家庭で過ごした日々が否定されているのにも関わらず、不自然なほどあっけなく受け入れることができた。ぼくという人間の輪郭がドロドロに溶けて形を失っていく。
なんとか正気を保てたのは、自分の思い出の中に一際輝くものがあったからだ。それは咲良と過ごした記憶。それを失わない限り、ぼくという人間は今のままの形を保ち続けられるという確信があった。
「……その目。そうか、そうだったね。君にはまだ信頼できる妹がいるんだっけか。訂正しよう、君はまだ完全な欠陥品じゃないよ」
興味深いなあ、という声が教主から聞きとれたかと思えば、彼女の瞳には寂しさが浮かんでいて。線香花火を見るような、儚いものを見守るような瞳に、少しイラっとした。
「悪いけど、ぼくは絶対に妹を失いませんよ」
「精々頑張るといいさ。私はどっちでも面白いと思ってるから。さて、次は現象の発動条件の話でもしようか、お茶でも飲みながらさ」
おーい、と部下を呼びつける教主の姿に毒気を抜かれる。何がしたいんだ、この人。
部下がお茶を届けてくるまでなら、という条件の下、教主はぼくに質問を許した。主導権を握られたまま、というのは落ち着かない気持ちになるが、自分の感情を横に置いてもここは質問を優先するのが正しい選択のように思えた。
「ぼくをどうやって見つけたんですか」
「君を見つけたのは偶然さ。君より私の方が少しだけ早く周囲に目を配り始めただけ、偶然君の声を聴いただけ、情報の大切さを知っていただけ。小さな偶然の積み重ねに過ぎない」
私の現象の方が強いからということはないよ、と保証までしてくれた。その言葉をどこまで信じてもいいかは判断に悩むところだけれど。
「普段この団体では何をしているんですか」
自分と同じ力を持っている人間が宗教のトップに立っていると確信を持ったとき、納得もあったが疑問でもあった。ここはぼく達の現象が活かせる舞台なのだろうか、と。
教主は言葉で答える前に室内の一角をすっと指さした。生活感あふれる部屋の中で唯一異彩を放っている六台のテレビが置かれた空間だ。
「来客があるからということで今日は誰にも対応していないが、普段はあの画面が機能していてね。あれはこのオフィス内のいくつかの部屋を映すんだが、私がここに座って眺めていると色んな人が現れるんだ。若かったり年老いていたり、幼いと言える年齢の人間のこともある。そんな人達の悩みを聞いてあげるのが私の仕事」
「ここから話しかけるんですか?」
教主はゆっくりと首を横に振る。
「間違ってはいないが正確ではない。画面に映し出されるのは悩める子羊たちとうちの部下の二人でね。私は部下と無線で繋がっていて部下の口を通じて私の言葉を届けるわけだ」
「部下の方々に代弁させているんですか?」
「経典上は彼らも神様の代弁者ということになっている。私は神様じゃないから、そういう意味では詐称はしているが、事実が明るみに出たことは今のところない。信者の皆さんも幸せそうだし、宗教団体のシステムとしても上手く回っているよ」
役割の分担とリスクヘッジは大事なんだ、と教主は言う。
「基本的に相談者の大半は自己満足をしにやってくるんだ。話を聞いてもらってハッピーってね。入れ込みやすい人、他者依存の強い人とか自信のない人とかだけど、そういう人には現象を利用して悩みの先取りをする。あとは胸を張ってお話していれば転がるのは一瞬さ」
「随分と他人とのコミュニケーションに自信があるようで」
「この現象が身近にあって君みたいになる方が珍しいだろう。でもまあ、心の周波数を合わせてから悩みを先取りするまでが難しくてね。スピード勝負の情報戦さ。そういう意味では私の力は現象ではなく能力と呼ぶのが相応しいのかもしれない」
なるほど、とこのビルに入ってから初めて素直に納得できた。今までのぼくはできるだけ受動的に、そうでなくとも自分に関心が向いていないであろう時のみ力を使ってきた。他人の悪感情に触れてしまうのが怖かったから。
けれど教主は積極的に他人の心に触れていく。自分の力を活かせる戦場を見つけ、自分を活かせる環境を築いた。作り上げてしまってからは他人の心に躊躇することも配慮することもなく、最大限に自分の技術を磨き自分の力で勝負する。
ぼくのは特性で、彼女は技術。
熟練度の違いを見せつけられる。活用法の善も悪も除いてしまえば、教主が自分より上位の存在であると認めざるを得なかった。
数瞬ばかり、憎たらしい性格の教主を認めたことのショックで茫然自失としていた。
ガチャリ、と湯呑が机に置かれた音で目が覚めた。急須からとくとく注がれるお茶が柔らかな湯気を立て、鼻を近づけずとも茶葉の香りが伝わってくる。
「ボーナスタイム終了だ。なんでもないお茶だが、自由に飲んでくれ」
「……いえ、ありがとうございます。いただきます」
「日本茶だからそれほど抵抗のない味だとは思うけど。口に合うかな」
「美味しいですよ。味の違いとかは分からないですけど」
「君は味のこだわりがなさそうだからね」
率直な感想を述べたら失礼な物言いで返ってきた。まあ合ってるけど。高級料理と冷凍食品の味の違いすら分からないだろうし、気にしないだろう。
結果として食の好き嫌いのない、健康優良児に育っている。
「好き嫌いがないのはいいことだ。私は偏食でね、好きなものばかり食べては注意されたものさ。無視して貫いた結果こういう性格に成り果てたわけだが」
なんとなく想像できた。子供のころから自分本位だったに違いない。
「君が食において好き嫌いがないのは興味がないからじゃないのかい」
「興味がないってことはないと思いますけど……」
断言できなかった。語尾に自信のなさが現れてしまう。自分では意識したことがなかったけれど傍から見ればそう映るのだろうか。
環や遥はおろか、叔母さんや咲良にも指摘されたことはないはずだが。
「君の好きなもの、嫌いなものなんてはっきりしている。一目で分かる程度にね。妹だけが好きで自分が嫌い、あとは世の中全部をその他のフォルダにまとめてる。そんな狭っ苦しいやつだってね」
そうだろ、と確認を求められたが、素直に頷くのは癪だったので「どうですかね」と濁しておいた。言い当てられて驚いているのが悟られないように。
咲良が一番大事なのは間違いない。この世に残る唯一の肉親であり、心から愛せる唯一の存在であり、目に入れても痛くないほど溺愛している妹だ。咲良を大事にできないのなら、そのぼくはもはやぼくではない。早急に頸を切る準備をするべきだ。
自分のことが嫌いなのも間違いない。両親に捨てられた、という自分のステータスを客観的指標にしてしまった時点で、ぼくの自己評価は固定してしまっている。
「たしかに妹は好きで、自分のことは嫌いです。でも他の人に興味がない、みたいな言い方はどうかと思いますよ。友達もいますし大切にしてもらっている人もいます。その人たちのことは好きですよ」
「信じられるかい?」
「……はい?」
「その人たちのことを、妹以外の人間を信頼しているか、と訊いたのさ」
好きや嫌いの軸から外れた質問が急に飛び出てきた。知人友人を信頼しているか、なんて普段意識することがないから咄嗟に答えが出てこない。だからぼくの口から出たのは「分かりませんよ」とその場を濁すような言葉だけだった。
教主はつまらないものを見るような目でこちらを見ている。この力を使えて何故そのことを考えたことがないのか、そう言いたげな瞳だった。失望が混ざったその瞳も、小さな溜め息とつくと消えていた。代わりに口角がニヤリと上がる。想像するに、ロクでもない楽しみ方を見つけたのだろう。
「なあ準欠陥品の少年よ、妹ちゃんの心の声は聴こえるかい?」
「……聴こえませんね、不思議と」
「君の友人知人、私のような他人も含めた全人類の声は?」
「聴こえますよ。毎日絶えることなく。なんですか、妹がおかしいとでも?」
怒りますよ、と言う時には既に若干怒っていたけれど。小さな種火は燃料を失えば消えてしまうものだ。この女性にしては珍しく、燃料を追加するようなことはなかった。
「いや、そんなつもりはなくてね。私の場合は母親だったな、と昔を思い出していた」
「貴女にも、いや違うか。貴女の母親にも咲良と同じことが起きている、と。じゃあ咲良が特別おかしい、というようなことはないんですね?」
無駄な傷を負わなくて済むんですね、と祈るように確かめた。
「兄としては、妹の心に傷がなくて一安心、といったところかな?」
「ええ。傷があったとしてもぼくは妹を愛してますけど。あったとしても肩代わりしてやりたいです」
「ああ、それは良かった。そのまま安心しているといい。欠陥があるのはやっぱり私たちなんだから」
教主が発した言葉の中に、聞きたい言葉と聞きたくない言葉が詰まっていた。
「発信機には異常がなく、受信機の故障なんだ。信頼している人の声だけは聴こえないという不具合が、私たちの現象には備わっている」
逆説的に声が聴こえる人間のことは信頼してないんだよ、と軽々しく付け加えられたが全然軽くない。お前の人間性の根底に人間不信があるぞ、と言われているようなものだ。
「でも、そんなこと確かめられないじゃないですか」
「確かめたんだよ。私の人生を使って確かめたんだ」
現象自体は現実に起こっていることだとしても、理屈に関しては実証が必要だろう、という藁にも縋るようなぼくの指摘に対する答えを、彼女は最初から用意していたかのように切ってきた。
操られているのかと恐怖を覚えるほどに、教主は何でも知っている。
「私は昔からこの現象に自覚的だった。幼心に色々活用してきたよ。そんな私を世間は否定した――世界は拒絶した。そんな中で、母親だけは私の味方だった。どんな時でも守ってくれて、温めてくれた。母の声だけは聴こえなくて、彼女は私の神様だった」
彼女の言葉の続きを、ぼくは予測できてしまった。もういいですよ、と止めようとするぼくの思考すらも彼女は知っていたのだろう。遮る隙を与えずに続けた。
「でも母は死んだ。交通事故であっけなく。そしたら世界は変わったよ。声が聴こえない人間なんて誰もいなくて、誰とも出会わなくて。私は空っぽの世界を抱えたまま」
空っぽで、空白で、がらんどう。
誰とでも繋がれるけど、誰とも繋がれない世界。
あまりにも空虚で、夢も希望も、救いさえない世界を彼女は生き続けている。
「妹ちゃんを大事にしたまえよ」
教主の瞳が寂しさを浮かべ、何を見つめているのか。
ぼくには何も、分からなかった。
意図せず教主の生い立ちという繊細な部分に触れてしまい、わずかに部屋の空気が湿っぽくなった。悪いことはしていないはずだけど、自分がここにいるのが場違いなような居心地の悪さがある。
心の周波数、力の活用方法、現象の効果対象。
知りたかったこと以外の情報も含めて多くの情報を得ることができた。教主との接触によってぼく達の身に起きている現象についてある程度整理することもできた。
情報収集を目的とした作戦行動としては十分な戦果と言えなくもなかったが、どうしても訊かなければならないことが残っている。居心地が悪くとも会話を続けるしかない。
「……すみませんが、もう一つ質問させてください」
「ああ、構わないよ。いらぬ気づかいをさせたね」
自身の母を思い出して少しセンチメンタルになったのだろうか。力こそ宿っていたが、その瞳は潤んでいて、下を向けば雫が落ちてしまうだろう。
周囲と隔絶した存在で、強弱の定規で測れないような人間だと感じた教主。彼女が話の主導権をぼくに譲るほど、母との別離はあまりにもショックな出来事だったのだ。
その悲しみがイメージできてしまうが故に、その細くか弱い姿が痛々しく映る。
もしも咲良を失えば。
ぼくは自分が人の身を保っていることさえ許せないだろう。
でも、だからこそ。近江千春という自我を保ち続けるために。近江咲良という存在を守り続けるために。ぼくは自分に起きているこの現象について深く知らなければならない。目の前の弱った教主の姿に、あり得るかもしれない未来の自分に、鞭を打たねばならない。
「助けを求める声のことです」
反応するように、肩が揺れる。ハンカチで涙を拭いとる動きの中に紛れた、一瞬の動揺。ぼくの言葉がどういったものを指すのか、余計な言葉は必要なさそうだった。
「教主さんにも聴こえてるんですよね?」
「ああ、聴こえているさ。ずっと前から、うるさいくらいに」
涙を拭いとるのと同時に、教主の声に活力が戻る。
「聴こえるはずのない人間の声が聴こえる。この現象にも理屈があるんですか」
四月頃からぼくの頭を悩ませる送り主不明の救難信号。教主ならば、その正体すらも知っているかもしれない、という淡い希望はたった五文字で挫かれた。
「分かんない」
「……別に真実が知りたいんじゃないんです。教主さんの解釈を聞きたいんですけど」
「誤解してもらっちゃ困るけどさ。私も別にこの現象の専門家というわけではないんだよ。そりゃあ君にとっては? はじめてできた自分に起こった不可解な現象について腹を割って話せる希少な人間だし? 過度な期待を寄せても仕方ないとは思うけどね? 私に訊けば何でも解決するなんて気軽に思ってもらっちゃ困るんだよな~」
早口だった。訂正や質問を挟む余地が存在しないほどに、超早口だった。息継ぎを挟まず、顔を紅潮させながら捲し立てるようにして放たれた言葉の弾丸だった。
けれど、弾幕の濃さの割には、喋っている内容は単純明快だった。
「つまり分からないんですね?」
「……分からないね、なーんにも」
開き直って、口を尖らせてしまった。
責めているつもりは全くないのに。
「分からないし、関わろうとしたこともないよ。知らない人間は無関係な人間で、顔を知らない人間はどこぞの馬の骨で、声を聞いたことのない人間は赤の他人さ。うちの団体に泣きついてくるならともかく、ね」
相手にするだけ時間の無駄さ、と小さく呟いたのを見るに、声の主に対して怒りすら覚えているようだった。
「あの声が聴こえた時に胸がざわつく感じはありますか?」
「ざわつく感じ?」
「焦り、みたいな」
四月頃から聴こえ始めて三か月ほど経つ。はじめのころは不気味さを覚えるだけだったが、最近では助けを求める声を受信する度に、焦燥感のようなものが込み上げてくる。
「全くないなあ。だってあいつらうるさいだけだもん。どこに向かって叫んでんだか」
叫び、と教主は言った。だがぼくにはあのSOSが叫びに聴こえたことはない。声を押し殺したような、風前の灯火のような弱々しさを持った囁きに聴こえる。
それを教主に言うと「きっと君が優しいからそんな受け取り方ができるのさ」なんて言って臍を曲げてしまった。よほどあの声のことが嫌いらしい。
「手を伸ばしたことは」
「ないよ。伸ばされた手を掬い上げるので忙しくてね」
「それ偽善ですよね」
「私のは独善さ。人間に助ける価値なんてないんだから」
君だってそう思っているだろう、と訊かれて何も言い返せなかったことに自分でも驚いた。
『助けたい』と思っていないのなら、あの感情をなんと呼ぼう。
あの焦燥感になんと名前をつければいいのだろう。
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