最終話 遅れた再会
「ハァ……ハァ……」
苦しかった。
肺が張り裂けそうなほど吸い込んでも酸素が足りていない。
上手く考えられなかった。
熱に浮かされたようにさっきから全然頭は回っていない。
それでも身体は動きを止めなかった。
ただ自分の意志に従い、それを忠実に実行していた。
「着い、た……っ!」
自転車をその場に寝かせ、荒い砂利が敷かれた地面を歩く。
息が詰まり、激しく咳いた。
視界が収縮するように狭まっている。
でも足は止めない。
降りしきる春の雨に打たれながら、神楽の舞台と石の鳥居を通り過ぎる。
昔から変わらずそこに佇む大樹を越えたところで、俺はようやく足を止めた。
―――いた。
あの子はそこにいた。
屋根もない雨雲の下、傘もささずに座っていた。
大粒の雨があの子を責めるように打ち付け、あの子のもまたそれを受け入れるように動いていなかった。
安心した。
よかった無事だった。
遅れて心配になった。
何やってんだ、いくら春でもまだ雨は冷たいだろうに。
とりあえず家まで送るのが先決だな。
話を聞くのはそれからだ。
俺はあの子が風邪を引いてしまう前にと、止まっていた足を動かす。
「……ぇ?」
息を呑む。
踏み出そうとした足が俺の意思に反してその場に留まっていたのだ。
いや、違う。
これが俺の意思だったんだ。
どう声を掛ければいい。
それが分からなかった。
どんな顔をしてあの子の前に出ればいい?
何も告げず、謝ることを放棄して逃げ出した俺が、今更あの子に何を言ってやれる。
鈍い痛みが胸を刺した。
俺では相応しくないのかもしれない。
あの時と同じく、座り込んてしまった彼女に手を差し伸べるのは。
そうだ。
あの子の両親に頼むべきだ。
そんな賢そうな選択肢が頭にちらついた。
熱せられた思考は雨で冷やされ、聞いてもいないのにその選択が如何に賢明か説いてくる。
だから俺は背を向けた。
座り込んだ彼女からも、そして過去の罪の意識からも目を背けた。
それでいいんだ。
俺はあの時と変わっていない。
むしろ、あの子にとっては酷くなっているとも言えるだろう。
そんな俺はあの子に寄り添う資格などないんだ。
「―――ハル」
全てを遮っていた激しい雨音がその時、消え去った。
耳鳴りが聞こえてきそうなほどの静寂。
落ちる雨粒、揺れる木葉、流れる時間。
振り返るとその全てが動きを止めていた。
この空間で動いているのは、俺とあの子だけだった。
「……会い、たい……会いたい……よ……」
昼まで言葉を交わしていたあの子はそう言った。
まるで未だ俺達が再会出来ていないように。
「ごめんな、さい……ごめん、なさい……お願い……もういち、ど私に……」
あの子は涙を流していた。
それはとても冷たく、痛々しかった。
あの時と変わらない。
全てを自分一人で抱え込んでいた。
いいのか、このままでも。
そんな言葉が脳裏を過る。
逃げて、見捨てて、それで満足か?
お前が今しようとしていることは、あの時と比べて上等な行いか?
恩を返さず、罪を償わず、それで本当にあの人の役に立てるのか?
いいわけないだろう。
握りしめていた手が熱かった。
あの子が俺の名前を呼んでいる。
ならば、俺はのうのうと逃げ回っていいはずがない。
雨粒と今までの考えを振り払うように頭を振った。
あの時下ろした罪の意識を再び背負おうとも構わない。
あの時のように罵られてもいいじゃないか。
それは俺が苦しむだけ。
あの子が俺を恨むことでまた立ち上がれるのなら、今こそ罪を償う時だ。
「俺は追崎幸治」
静寂が支配する世界で、俺はあの子の背に声を掛けた。
もう迷いはなかった。
「ずっと気になってた。なんでだろうって思ってた」
目を見開いたあの子と真っ直ぐに目を合わせた。
一瞬たりとも逸らさない。
俺は逃げなかった。
素人が片手間で作った雑な長椅子に腰掛ける。
それは勿論、あの子の隣。
一人分の空白はそこにない。
本当のあの子と俺が隣り合う。
あるべき場所に二人が収まったんだ。
「教えてほしい、君を―――」
遠い昔に紡いだ言葉を、一言一句違わずあの子に伝える。
「―――もう一度」
あの時とは違う新たな言葉を付け加え、あの子に笑いかけた。
俺達は互いに目を逸らさなかった。
震えるあの子の手が緩慢な動きで俺に伸びる。
俺の頬にその手を添えようとして動きが止まった。
再び伸ばそうとして躊躇し、またじわりと動かしては引っ込めた。
「―――あっ」
行き先が目の前にあるというのに、その近くを彷徨い続けるあの子の手を取った。
こんなに冷たくなってるじゃないか。
その体温の低さは彼女がどれだけこの場所で涙を流していたのかを物語っていた。
「……わ、私……ごめん……なさ……ぃ……ごめ……ごめん……さい……」
「何に対してか分からないけど許すよ。俺が許す。……それでも駄目ならさ、一緒に謝るよ、俺も」
悲痛な涙を止めてあげたくて、俺は空いている手で彼女の目元を拭った。
何に謝っているのか、何をしたのかもわからない。
もしかすると決して許されない過ちを、あの子は犯してしまったのかもしれない。
それでも俺は味方でいたかった。
あの時とは違う感情で彼女に寄り添いたい。
要らないと拒絶するまで力になりたい。
それに、面倒を見始めたら最後まで責任持って面倒をみる、みれないのなら始めから近付かないっていい子と約束したしな。
「だから泣いてくれるな、志織(しおり)」
「―――っ!」
矢谷さんと初めて出会った場所であり、記憶の中のあの子、志織と三年ぶりの再会を果たした場所。
そこに声を掻き消すような騒がしい雨音が一気に戻ってきた。
雨は絶え間なく降りしきる。
冷たい雨粒が平等に俺へ打ち付けられる。
腕の中で幼子のように泣きじゃくり、しがみつく志織にだって雨は降り注ぐ。
世界は厳しい。
そう痛感する。
こんなに傷付いている子にも容赦がまったくないんだ。
華奢な身体に腕を回した。
志織を雨から守るように優しく包み込む。
寒くはない。
だって体温を分け合う俺達は一人じゃないからだ。
俺は彼女の背中を撫でながら、何も言わずいつか来るその時を待った。
止まない雨はない。
きっと、すぐに訪れるはずだ。
空を覆う厚い雲が溶け切って、輝く夕日が茜色の空に見える時が。
そして、彼女の頬に伝う熱い雨粒が俺の胸元を濡らさなくなるその時が―――。
――――――――――――――――――――
朝が来た。
けたたましい電子音で目が覚める。
朦朧とした意識の中でそれを止め、俺は緩慢な動きで布団から這い出た。
部屋を出て、波に打たれる海藻のような歩みで廊下を進み、階段を降りて扉を開ける。
「おは……」
掠れた声を絞り出すと、三者三様の返事が戻ってくる。
どうやら今日は全員揃っているみたいだ。
殆ど開いていない目を擦りながら、俺は崩れるように席に着いた。
手を合わせ、箸を持って味噌汁を啜る。
うん、今日もおいしい。
「なぁ兄ちゃん。母さんの惚気話っていつまで続くかな……」
「……カズ、兄ちゃんもう考えるの止めた」
「防衛本能だね、兄ちゃん」
「心、折れる。……羨まし過ぎで」
「分かる。俺、その所為で昨日血涙出たかと思ったよ」
「ちょっとあんた達、聞いてんの?」
「あい……」
「はい……」
「ならいいわ。それで―――」
母さんの惚気話にうっつらうっつらと相槌を打ちながら、小声で弟と励まし合う。
ぶりの照り焼きを食べ終え、熱いお茶を飲み干すと俺は席を立った。
歯を磨き顔を洗って、寝癖を直す。
まだビニールに包まれていた替えの制服に袖を通すと、やっぱり動きにくかった。
「いってきます」
三人に見送られて、俺は裏口から外に出た。
自転車を押して隣の空地に行くと、歓迎するように風がふわりと吹き抜ける。
その行方を追って視線を上げればそこには澄んだ空が広がっていた。
雨の気配は、もう地面にしか残っていない。
昨日の出来事は、結局あのままで幕が下りていた。
志織は泣くばかりで何も言わなかったし、俺もそんな彼女に何も聞かなかった。
言葉ないまま二人して雨に打たれ、いくらか時間が経った後、志織が泣き疲れて眠ってしまったのでそれでおしまい。
矢谷さんとして彼女に出会った時の焼き回しみたいだった。
そんな終わり方だから志織が身投げをしようとした理由も、涙の意味も、俺に何を求めているのかも当然分からず終い。
判明したことは、彼女が矢谷という偽名を使って俺に近付いたこと。
それと彼女のお母さんから寄せられていた絶大な信頼が、現在も変わっていなかったという二つだけだ。
それにしても、まさかずぶ濡れで眠る志織を見て、非難されこそすれ歓迎されるとは思いもしなかった。
それどころか、
「ありがとう、ハルくんのおかげね」
なんてよく分からないけどお礼まで言われる始末。
昔もそうだったけど、この手放しの信頼は何を根拠にしているのだろう?
いやはや、親子そろって謎が深まるばかりである。
欠伸を噛み殺しながら、家の表へ歩いていく。
俺の家によって作られた影から出ると、陽光が真っ直ぐ俺の下へとやってきた。
今日はいい天気になりそうだ。
じんわりと染み入るその温かさに、俺の心に残っている霧がほんの少しだけ晴れた気がする。
でもそれと同時に、この霧が完全に晴れることはないだろうと、諦観に似た思いがあった。
志織はいっちゃん達と同じ昔馴染みであり、その中でも一番付き合いの古い親友だ。
彼女はそんな風に思っていないだろうが、少なくとも俺は今でもそう思っている。
そんな彼女が抱える問題。
一人ではどうにも出来ず、世を儚んでしまうほどの苦しみ。
出来ることなら、それを取り除いてあげたい。
代われるものならば、変わってあげたい。
掛け替えのない親友が窮地に陥っている今、俺はそう思わずにはいられない。
未熟者の俺でも力になれるのなら、喜んで力を貸そう。
大した知恵はないが、一緒に頭を捻ることくらいは出来る。
でも駄目なんだ。
それじゃ昔と変わらない。
同じ過ちを繰り返すだけだ。
ふと脳裏に過る、三年前のあの言葉。
鮮明に甦る胸の奥底で蠢く疼痛に、思わず顔をしかめてしまう。
それでも。
そうだと分かっていても彼女が求めてくれるのならば、俺はそれに付き合おうと思っていた。
身代わりでも、囮でもなんだっていい。
どう使われようとも構わない。
それが彼女の助けになり、それが彼女への償いとなるならば―――
「―――お、おはよ」
消え入りそうな声がした。
鼓膜が震えたことが奇跡なくらい小さな声だった。
東の空に上がった煌めきから、声がした方へ視線を移す。
「―――っ!」
目が合った。
不安と怯えに支配されている表情がより一層強張った。
胸の前で握られている元より白く美しいその両手は、痛々しい程の白さに染まっていた。
見れば、かたかたと身体の至る所が震えている。
昨日あれだけ泣いたのに、その目尻にはうっすらと涙まで溜めていた。
口を開いた。
戦慄かせる。
でも言葉は出なかった。
そして小さく俯いてしまう。
まるで審判を待つ罪人みたいだった。
まったく、なんて顔をしてるんだ。
それはそっちがする表情じゃないだろう。
「おはよう、志織」
そう言うと、彼女は弾かれたように顔を上げて目を見開いた。
信じられないといった様子だ。
なにをそんに驚いてんだか。
呆れと困惑が混じった微笑みが、自然と俺の顔に浮かんだ。
「お、は……よう」
涙声でそう言う志織が真っ直ぐに俺の下までやってきた。
俺の制服をしっかりと掴む。
ぎゅっと音が聞こえてきそうなくらいだった。
「おかえり、なさい。―――ハルっ!」
あぁ、眩しいな。
俺の世界が細くなる。
昨日から隠れていた太陽が、ようやく顔を出したようだ。
こっちの空は雨の気配をまだ残している。
雲が隠れるように浮かんでいる。
だけど澄んだ美しい輝きは。今何にも邪魔されず真っ直ぐ俺へと向けられていた。
「うん、ただいま」
何も分からず、何も解決していない。
現実は難儀なものだ。
作られた物語のように綺麗さっぱりと終わらせてなどくれない。
いつまでも引き摺って、何処かにそれは残っている。
それは明日があるからだろう。
俺達の世界には無数の始まりと続きがあり、終わりはない。
繋がってしまうからこそ終わらない。
過去は変えられない。
過ぎた時は戻らない。
だからといって、逃げ続けてもなくなりはしない。
だからこそ、返していかなければならないんだ。
そう思った。
俺の前で太陽が煌めいている。
とても綺麗で、すごく眩しい。
そんな輝きが二度と沈んでしまわないようにすることで返そう。
本当の輝きを取り戻せるように償おう。
恩返しと罪滅ぼし。
その似た二つの行いが俺と彼女を結びつける。
いつか許されるのではなく、拒絶されるその日まで―――。
綺麗な彼女は世話を焼く 山城 @mon_
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