第12話 重なる面影は誰のもの

 





教室の窓から見える空は、濃い灰色に覆われていた。

淡青も茜もその空には見当たらない。

どこにもないのだ。

だから、俺はここで待ち続けていた。


「……遅いなぁ」


誰もが去ってしまった教室で、廊下側にある自分の机に座って外を眺めていた。

約束などした覚えはない。

暗黙の了解もありはしない。

それでも俺は待ち続けていた。


今日の彼女は自分だけで帰路についていて、俺はただの待ち惚けということもあるかもしれない。

それならばそれでよかった。

だが、そうでない可能性もある。

それが分かるまで、俺はここを動くわけにはいかない。


秒針が奏でる音だけが教室に響いていた。

降り積もる沈黙。

世界から隔離されてしまったような不思議な感覚。

それをどこか、俺は懐かしいと感じていた。


「……あぁ、そうか」


偶然蘇ったそれは、いつの間にか忘れてしまっていた遠い記憶だった。

もう随分と古い。

十年も近い前の出来事。

俺が小学生の頃にあった、あれと今が似ているんだ。


確かあの時も俺の机は廊下側で、そこからいつも離れた机を見ていた。

いや、机じゃなくて、そこへ座る髪の長い女の子の後ろ姿を眺めていたんだ。


「懐かしいなぁ」


「何が?」


声がした方へ視線を移すと、そこにはいっちゃんが立っていた。

やや疲れた様子で苦笑いを浮かべ、「ハルさんは昔と変わらないな」と呟きながら近付いてくる。


「もしかして、待っててくれたのか?」


「まぁね。……といってもお相手はいっちゃんじゃないけど」


「そうか、そりゃ残念。じゃあ誰を待ってるんだ?もう学校には殆ど人なんていないぞ」


「んー……誰なんだろう」


「はぁ?」


怪訝な表情を浮かべるいっちゃんに俺は肩を竦めた。

俺だって分からないんだ。

彼女が誰で、何に悲しんで、何を俺に求めているのか。


「なぁ、いっちゃん。よしかわしおりさんって知ってる?」


「知ってるかって、そりゃ当然だろ」


「ふむぅ、当然なのか」


いっちゃんもよしかわしおりさんという人物を知っていた。

さらに当然だとまで言った。

ならばこの高校では有名な人か、いっちゃんに近しい人物かのどちらかだろう。


矢谷さんは何故、そんな人のことを俺に聞いてきたんだ?


前者の場合、転校してきたばかりの俺が知っている確率は限りなく低い。

それくらい矢谷さんだって分かるはずだ。

ならば、後者だろうか。

いっちゃんの友達であるのならば、知っていると思ったのかもしれない。

それで、俺が知らなかったからあんな風になった……いや、流石にそれはないか。


あぁーもう分からん!

矢谷さんにいっちゃん、そしてよしかわしおりさん。

その三つの繋がらないピースはお互いを弾き合い、一向に完成図を俺に見せようとしなかった。


「それにしても、ちゃんと思い出せたんだな。流石、付き合いが深かっただけはある」


「んー?いっちゃんのことなら、思い出したってもう言っただろ。まだ信じてなかったのー?」


「いや、俺じゃなくってよしかわのことだよ」


「んん?」


何やら互いの認識に齟齬が生じているようである。

俺が首を傾げると、いっちゃんも同じく首を傾げた。


「いや、俺はそのよしかわさんっていう人は知らないよ」


「えっ?じゃあなんで名前を思い出したんだ?」


「思い出す?……俺、過去によしかわさんって人に会ったことあるの?」


「な、なんで思い出してもないのに名前だけがわかってんだ?」


互いの情報が錯綜して、混乱が更なる混乱を呼んでいた。

どちらも質問ばかりで、答えは一つも出てこない。

このままじゃ、埒が明かない。

まずは俺から質問に答えよう。


「よしかわさんって名前は昼に教えて貰ったんだ」


「あーなるほど、それでか。……って、ハルさんにもう話しかけれるクラスメイトがいるのか?」


いっちゃんは信じられないといった様子だった。

流石は昔馴染み。

俺のことをよく知っておいでである。


「んーん、クラスの人じゃない。矢谷さんって女子から聞いた」


「矢谷さん、ねぇ。どこの科の人なんだ?」


「さぁ?全然分からん」


「……本当にハルさんは変わってないよな」


「それって褒め言葉?」


困った人を見るような目が答えだと言わんばかりに、その視線で俺を突き刺すいっちゃん。

その評価は不服である。

でも返す言葉はございません。

えぇ、それくらいは自分でも分かってますとも……。


「よしかわさんって、いっちゃんの恋人とか元カノとかなのか?」


「ち、違う違うっ!そんなの全然!全然ない絶対ないって!だってよしかわはずっと―――」


今度は俺の番だと質問してみると、いっちゃんは途中まで言いかけて激しく咳き込んだ。

あぁ、そんな急に大きな声出すから……。

いきなりな質問だったけど、そこまで過剰に反応することもなかろうに。


「と、とにかくそれはないから。絶対に有り得ないからな!勘違いするなよ。いいか、絶対にだぞ?」


「……おっけい!!」


「返事のよさが逆に不安なんだけど……本当に分かってくれてるよな?」


いっちゃんは不安そうな表情を浮かべて、何度も念を押してくる。

はいはい分かってるさ、いっちゃん。

……フリ、なんだろ?

ふふっ、ここまで丁寧にされれば誰だって分かるさ。

でもな、そのフリの回収はまた今度にしよう。

今は目の前の謎から片付けていこうぜ。


「結局さ、よしかわさんって何者なんだ?」


「はぁ……いいか、ハルさん。よしかわってのは俺が昼前に言いかけた人だ。つまり、小学校の頃からハルさんが転校するまで、いつも一緒にいた人だよ」


「あぁー……あの子そんな名字だったっけ」


「なんだ、名前以外は思い出してたのか?」


「うん。まぁ思い出したのはついさっきだけどね」


脳裏に浮かんでいるはさっきの古い記憶。

小学生の頃に出会い、友達と呼べる人がいない俺の相手をいつもしてくれたあの子。

休み時間になれば二人で話し込み、授業で何かの班を作ることがあれば絶対に隣にいてくれた。

学校から帰る時だってそうだった。

約束なんかしなくてもいつの間にか俺の机まで来ていて、毎日一緒に帰っていた。

俺の傍にいたと言われる人がいるのなら、それはきっとこの子だろう。

仲の良かった三人も近くにいてくれたけど、付き合いの一番古いこの子が最も近くにいてくれた。

転校を決意したあの日までは。

そう、あの――――


「―――髪が綺麗で、長いあの子のことだろ?」


「髪が長い……?あぁ、そうか。ハルさんは知らないんだな」


得心がいったように手を叩いたいっちゃんは、手を鋏の形にして自身の肩辺りに添える。

そして、ゆっくりとその二指を閉じた。


「短く切ったんだよ、ばっさりと。ハルさんが転校してすぐだった。そんで今もそのままだ」


「短く……?」


散らばっていたピースが急速に形を変えた。

古い記憶と現在が繋がり、はまることのなかったそれらは元の位置へと収まっていく。


あの子は知っている。

俺の名前も好物も、友達を作るのに時間がかかってしまうことだって知っている。

あの子はいつも自然に俺の世話をしてくれていた。

俺が何度も世話を焼かせるから、それに慣れてしまっていたんだ。

帰る時は傍にいた。

毎日、学校が終わるとすぐに迎えに来てくれていた。


そうだ。

あの子は俺を知っている。

俺の記憶にある髪の長かった中学二年のよしかわしおりの姿と、髪の短いとある人物の姿が引き寄せられるようにその面影を重ねていく。


「いっちゃん!その子のクラスまで案内してくれ!」


「えっ?……ははっ了解だ!」


いっちゃんは一瞬、わけがわからぬといった様子で固まった。

しかし、すぐにその表情を溌剌とした笑顔に変えた。

教室の扉を勢いよく開け放ち、廊下に飛び出る。

俺も先導するいっちゃんに続いて、誰も居ない校舎を駆け抜けた。

そして一陣の風のように走っていたいっちゃんが、ある教室の前で足を滑らせながら停止する。


ここがあの子のクラスか。

そう問いかける俺の視線に、いっちゃんが頷いた。

扉を開ける。

だが、そこには髪の短い女の子はおらず、ただ物言わぬ空間が広がっていた。


「ふぅー……」


俺は大きく息を吐いた。

考えろ。

思い出せ。

見当をつけろ。

あの子は、こういう時にどこへ行っていた?

目を閉じ、中学の記憶に潜っていく。

一度甦った思い出は、放課後まで思い出せなかったことが嘘のようにつらつらと浮き出てくる。


しかし、どれほど多くの記憶が脳裏を掠めようと、あの子の行方を特定する欠片は出てこない。

そりゃそうか。

あの日以外、俺はあの子とこんなことになったことがないだから。


「いっちゃん、鞄を頼む。家は昔と同じ場所だ」


「はいよ。いってらっしゃい」


何も聞かず送り出してくれるいっちゃんがありがたかった。

礼を言って教室を出る。

廊下を駆け抜け、階段を踊り場まで一足に飛び降りた。

着地の衝撃を前転で逃がし、その勢いのまま一階までの階段を飛び降りる。

着地、前転。

玄関を駆け抜ける。

駐輪場には俺の自転車が寂しげに佇んでおり、隣にいたはずの自転車はすでになくなっていた。


「こりゃお説教だなっ!」


胸ポケットにある鍵を乱暴に突き刺した。

面倒を見始めたら最後まで責任持って面倒をみる。

みれないのならば始めから近付かない。

いい子の皆、これはお兄さんとの約束だぞ!

……まぁ俺が言えた義理ではないけどね。


「いてくれよ……っ!」


これは賭けだった。

なんのヒントもない状態での分の悪い賭け。

外れる確率の方が圧倒的に高い。

だが今の彼女を知らず、昔のあの子しか知らない俺にはそこしか思いつかなかった。


向かう先は俺とあの子の思い出の場所。

俺は自転車のスタンドを蹴り上げた。

強引に方向を変えて跨って、ペダルを力一杯に踏み込んだ。

ちらちらと落ちる涙雨が、俺の制服に染みを作り始めていた。




 

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