第9話 たこ焼きは丸かった

 





俺は意気揚々と足を動かす。

年季の入った自転車は新品の頃の滑らかさがなくなっていて、ペダルも若干重たくなっている。

ブレーキも悲鳴を上げるようになったし、そろそろ修理に出すべきかもしれない。

だけど今はそんなことなんのそのだ。

上機嫌でペダルを踏めば、自転車はそれに応えてくれてすいすい進んでいった。


昨日、買い物をしたスーパーを曲がって数百メートル先。

高校からは十分程度。

やや色褪せた白色の壁に、店名らしき文字がでかでかと書かれた建物の前で矢谷さんは自転車を止めた。


ほほう、ここが美味しいたこ焼き屋さんか。

俺はめぶみするようにその佇まいを眺める。

白色の壁はやや色褪せているくせに、その上に掲げられた店名部分はやけに色鮮やかだ。

やる気がなさそうなのれんには、たこの絵とたこ焼きの文字がでかでかと踊っている。

ガラス窓に貼り付けられた大小様々な紙には、ふーまんやソフトクリーム、かき氷とも書いてあった。

まぁぱっと見たところ、綺麗とは言い難い店だった。


「うんうん、これはなかなか」


しかし、俺はそんな店構えを頷きながら肯定する。

如何にも町のたこ焼き屋さんって感じで、いいじゃないか。

ここの人はよく分かってる。

変に肩ひじ張った店を悪いとはいわないけど、本来のたこ焼き屋さんってのはこういう雑で親しみやすい存在であるべきだと思う。

子供が気軽に立ち寄れるような、駄菓子屋と似た大らかな雰囲気。

それこそが大切なのだ。


それを見事に満たしているこの店に、俺の期待値は跳ね上がる。

いいぞ、これはとてもいい。

店の外にまで溢れている、鉄板で焼ける生地とソースの香り。

それらは俺を挑発するように鼻腔をくすぐっては、風に攫われ消えてく。

誘惑だ。

あぁなんて甘美な誘いだろう。

もう駄目だ、もう無理だ。

辛抱たまらん!


「すいません。青のりなしでたこ焼き三つ下さい」


タオルを頭に巻いた、これまた如何にもな店主に声をかけようと、いざ足を踏み出したところで矢谷さんに遮られた。

あ、あぁー!なんだなんだ邪魔立てか!

こんなにたこ焼きを欲している俺を待たせて罪悪感は湧かないのかい、あんた!


「あいよー。それじゃ合わせて四百五十円ね」


「はい」


やいのやいのと心の中で抗議する俺を他所に、矢谷さんが代金を手渡す。

それを受け取った店主は、手際よく白い容器にたこ焼きを詰めていく。


ひー、ふー、みー、よー、いー……やっつ。

やっつ!?

一パック八個入りで百五十円!?

おいおいおい、たこ焼き一個あたり十八円だぞ。

だ、大丈夫なの……?

俺は他人事ながら心配になった。

消費者観点から見れば学生でも気軽に買えるありがたい価格設定だけど、材料費、光熱費、店舗代、そして店主の生活まで考慮すれば安すぎるような気がする。


ちらりと伺う。

だが、愛想よくたこ焼きを渡す店主の顔に曇りはない。

それどころかその表情は自信に満ち溢れていた。

なるほど。

薄利でも店を維持出来るくらいに、売れているというわけか。


それならば様子見をしなくても、とりあえずで三パック買ってもいいかもしれない。

多く売れていることが味の保証になっているからだ。

それにもし多少不味くても、この程度の値段なら目を瞑ることが出来るだろう。

母さん父さんのお小言覚悟でいっちゃうか……?

えぇい!いったれ!


「すいませ―――」


「はい。これ追崎さんの分ね」


「―――ん……?」


矢谷さんは手に持っていた三パックの内、二パックを俺になんてことのないように差し出した。

突然のことに、俺はただ首を傾げる。


え、ちょ……えっ?

なに、ここの店って会員制かなにかなの。

一見さんお断り的なやつ?

だから、さっきから俺が注文するのを阻止してるの?

やだ、さっき親しみやすいだのなんだの言ったけど、こんなに敷居の高いたこ焼き屋さん初めてだよ。


「青のりはなし、だよね?」


「……い、いかにも」


衝撃を受けている俺は、何故か偉そうな口調で返してしまう。

でも矢谷さんはそんなことを気にも留めず、なかなか受け取らない俺の手を取って白いパックを掴ませようとする。


「ちょ、ちょっと待って。今、三百円払うから」


「ううん、出さなくていいよ。これ追崎さんへのご褒美だから」


「いやいや、駄目だって。金の貸し借りってのはこういった小さな金額から―――」


財布の中から硬貨を三枚取り出して、矢谷さんに向き直るとそこには地球があった。

あ、いや違う、たこ焼きがあった。

踊る鰹節と淡く漂う蒸気の向こうでは、つまようじを持つ彼女が真っ直ぐに俺を見つめている。


ふふっ、たこ焼きをこうして突き出せば俺がそれに従うとでも……?

困ったなぁ。

もしそう思われているのならば、僅かな間で随分と見縊られたものだ。

いいかい?

俺はたとえ好物のたこ焼きが目の前にあろうとも、やるべきことを貫く強い意志力を有しているんだ。

食べ物なんかに絶対負けない。

釣られはしないし、義務は果たす。

食べる前に金は払う。

それが三百円であっても、だ!


「んんー!?うまーい!なにこれ、超美味しいんですけどー!」


「でしょ?ソースの味を邪魔しない優しい出汁が絶妙だよね」


「そーっすね!あぁ鰹節の削り方もたこ焼きに合ってるぅー!―――んはっ!?」


その時、追崎幸治に衝撃が走る。

それは矢谷さんが新たに差し出したたこ焼きを、思わず口へ収めてしまう程の衝撃であった。


まだ三百円が残っているじゃないか!

そう、手の中には先と変わらず硬い物体が存在していたのだ。

な、なぜに……?

払うまで食べない、払ってから食べる。

そんな意思とは裏腹に、身体は矢谷さんが差し出すたこ焼きに齧り付いていた。


何が原因だ?

どうして金も払わず、たこ焼きを食べてしまったのだろうか……。

表情をこれでもかと蕩けさせた彼女が差し出す球体に齧り付きつつ、俺は冷静に自分の行動を分析する。

自分の身体面、精神面をあらゆる角度から精査し、暴挙へ至った道筋を探し出す。


「はい、どうぞ」


「ん、ありがとう」


渡されたコップに口を付ける。

火照った口内を平温のお茶が流れていき、後には汚れを知らぬ無垢な子供のような舌が残っていた。


うーん、分からん!

何が原因なのかさっぱり見当がつかなかった。

この俺の意志力を捻じ曲げるとは、まるで魔術だな。


しかしこのままでは、俺は欲望に忠実で非常に御しやすい男と勘違いされてしまうかもしれない。

それは許容出来ないことだ。

金を払う前にたこ焼きに齧り付いてしまったことは認めよう。

誘惑に負けた、認めよう。

だが、それだけは認めるわけにはいかない。

俺はそんな駄目な子じゃないのだ。


「あの、矢谷さ―――」


「はい、あーん」


「―――あむ」


俺は邪念を振り払うように頭を振った後、気を取り直してお金を渡そうとした。

しかし絶妙なタイミングで口元へ寄せられたたこ焼きを、なんの違和感なく受け入れしまう。

まるでそれが自然であるように、慣れた動作で齧り付く。

身体が無意識の内に動いていた。


「どう美味しい?」


俺は目を閉じ、たこ焼きを味わいながらこくこくと頷いた。

うぅむ、このたこ焼きは本当に美味い。

大当たりである。

たぶん、食べようと思えば五パックはぺろりといけてしまうだろう。

でも流石にそこまで食べると、お小言は免れない。

悩ましい。

食べたい、でも食べれない。

いや、でも、あと一パックくらいはいい……よね!

よし注文しよ!

俺は矢谷さんが店主に何か言っている様子を遠目に眺めながら、そう心の中で決意したのであった。






――――――――――――――――――――






翌日の朝。

今日も弟の和幸はいなかった。

俺が起きる前に部活へ行ったらしい。

所属しているわけでもなのに、朝早くからご苦労なことだ。

俺だったらそんなの絶対に耐えられない。

初日でもう勘弁して下さいもありうる。

まぁ、俺ならそもそも誘われることがないんだけどね!


「そしたら二人が―――って幸治、あんたちゃんと聞いてんの?」


誰にも必要とされ……強要されることなく、ゆっくりとした朝を迎えられるお兄ちゃんは、その点では和幸より恵まれていた。

試合に勝って勝負に負けた感はあるが、それでも恵まれているのは確かだ。

負け惜しみではない。

真実をありのまま語っているだけである。


「ウン、キイテルヨ」


「そう、ならいいわ。それで―――」


しかし、その恵みが今日に限っては俺に牙を剥いていた。

食卓には焼き鮭をちびちびと突く俺と、二日も前になる出来事を未だ惚気るように語る母さんだけ。

父さんはいつものように台所に立っていた。


和幸が不在の今、こうなってしまうと母さんの話し相手は俺一人だ。

いつも涼しい態度を崩さない母さんが、頬を緩ませて甘い声で語る内容を一手に引き受けなければならない。

嬉しそうな母さんには悪いが、正直勘弁して欲しかった。

だってもうこの話、三回目なんだよ。


「私の仕事ぶりを褒めてくれ―――」


「い、いってきます!」


俺は永遠と続く母さんの惚気話から逃れるように家を出た。

カゴに鞄を突っ込んでスタンドを外し、隣の空き地まで押して歩く。

俺は頬を撫でた。

さらりとした感触だけが手に残る。

あぁ、よかった濡れてない。

羨まし過ぎて、血涙が伝っていた気がするけど幻覚だったんだな。


「あっ、おはよ」


「……おはっす」


「だ、大丈夫……?なにかあったの?」


「みぎひだり」


「え?みぎひだり?」


「右と左で挟み撃ち。脳内ステレオ、立体音響……」


「……状況がさっぱりわかんないだけど」


俺を朝日と共に出迎えたのは、透き通る青空がよく似合う矢谷さんだった。

今日で三日目。

矢谷さんと俺の間で世話を任せる云々の食い違いが発生して、もうそれだけの時間が経ってしまっていた。

なんというか、ここまでくると切り出しにくくて仕方がない。


矢谷さんも矢谷さんだ。

あの程度のことなら校内案内をしてくれるだけで十二分なのに、それ以外にも色々と教えてくれたり気を使ってくれたりした上で、まだ世話を焼こうとしている。

昨日の帰り道なんかでは、何かして欲しいことを言ってくれとせがんでくる始末。


俺はとても心配になった。

どう考えても、もらい過ぎである。

このままいけば、今度は逆に俺が恩返しをすることになる。


恩返しをすること自体は別に構わない。

もらったのならば返すべきだろう。

しかし困ったことに、俺が矢谷さんに返せるものなんて特にないのだ。

料理が出来るわけでもないし、為になる情報を持ち合わせているわけでもない。

友達作りの協力ってのも、矢谷さんなら友達なんて沢山いるだろうし必要ないだろう。

たとえいなかったとしても、俺が近付かない方が捗るに決まっている。

ならば俺に出来る恩返しは精々、労働力として使ってもらうくらいしかない。


「優しくしてね……」


「え?……えぇぇぇぇ!?そ、それってなんのことっ!?え、ちょ、私どうしよう!?優しすればどうなるの!?何に発展させられるの!?ど、どこまで!?」


極度の混乱状態に陥りながら詰め寄る矢谷さん。

俺は曖昧な笑みでそれを誤魔化した。

これはまだ未然に防げる結末だ。

ならば今、語る必要はないだろう。

何故か余計に錯乱し始めた矢谷さんを横目に、俺は祈りを捧げる。

今日が三日天下の最終日でありますように。

年季の入った自転車に跨ると、どこかから歪な悲鳴が小さく鳴った。





 

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