第8話 さも当然とばかりにお迎え

 





今日から始まった授業という苦行を乗り越え、ようやく辿り着いた昼休み。

気怠げに沈んでいた空気が徐々に活気を取り戻し、各々が動き始めようとしたその時だった。


「お疲れさま、追崎さん。迎えに来たよ」


激震が走った。

そのたった一言で教室が揺れたのだ。

一斉に上がるざわめき。

まるでそれは波のようにうねり、飛沫を撒き散らし、俺達を飲み込まんと押し寄せる。


「あ、ありがとう?」


高波に揺られながら、俺はとりあえずお礼を言っておいた。

迎えに来てと言ったことはないし、迎えに行くとも聞いてなかったけど、それでも一応言っておく。

本当は二階の南階段で待ち合わせをしていたはずなのだけど……まあそれでも言っておく。


「ふふっ、それじゃ行こっか」


男所帯である工業科に現れた、鮮やか過ぎる紅一点こと矢谷さんは、そう言って俺の鞄を手に取った。

高波がまた一段と大きくなる。

そろそろ波浪警報を出すべきじゃないだろうかとそう思う。

被害が出ないうちに……ね?


そんな教室の空気などまるで意に介さない上機嫌な矢谷さんに、さぁさぁと促されて廊下へ出る。

なんとも楽しそうな彼女に付いて行くと、辿り着いたのは校舎の外周。

俺達以外は人っ子一人見当たらない、とても静かな場所だった。


「はい、どうぞ」


俺は昨日と同じく、矢谷さんが軽く払ったところへ勧められるがまま腰を下ろした。

今日も一人分の空白を空けて座った矢谷さんは、自分の鞄と俺の鞄からいそいそと弁当を取り出し広げている。

俺はそれを少し眺めた後、がっくりと項垂れた。

帰りづらい。

そう思ったからだ。


俺を迎えに来たのが男だったら、なんの問題もなかったんだ。

迎えに来たぞ、ありがとう、飯を食おうぜ、そうしよう。

そんな男同士のありきたりな会話ならば、クラスメイト達の目にも留まらなかっただろうし、耳にも入ることはなかったはずだ。

もしくは場所が廊下だったり階段であったり、男女が満遍なく存在する場所でもよかった。

そのどちらかならば以上終了、おーるぐりーんってやつだったのだ。


しかし実際来たのは矢谷さんで、矢谷さんはそれはもう見目麗(みめうるわ)しいお嬢さん。

しかも場所は男の巣窟、工業科。

それに加えて、俺はクラス替えで浮わつく教室でさえ際立って浮き出た異物。

春の新色、新装開店、新製品みたいなもんで良くも悪くも目立ちやすい。

そんな要素が重なってしまったのだ。

何も起こらぬはずはなく、である。


あの教室が今、どんな話題で持ちきりになっているのかを想像すると、憂鬱にならずにはいられなかった。

転校してきてまだ三日。

なのになんで俺はこんなに目立っているんだ。

しかもそれが、決していい方向じゃないのが悲し過ぎる。

今日のことと言い、初日の矢谷さん―――


「―――はっ!」


俺はその時になって、ようやく思い出した。

矢谷さんとの話の食い違い。

そうだ、世話をするだのなんだのの件をまだ訂正出来てないじゃないか。

敬語をやめる話で埋もれてしまい、事ここに至るまで綺麗さっぱり忘れていた。

旨い物は宵に食え、だ。

丁度よく隣に矢谷さんがいるのだから、この機会を逃す手はないだろう。

俺はあの時言えなかった訂正を今すべく、垂らした頭をすぐに上げた。


「……ごめん。迎えに行くの迷惑だったよね」


「えっ?あぁー……いや、まぁそんなことない、よ?」


地面から視線を移すと、そこには深刻そうな顔つきで謝る矢谷さん。

違うことを考えていた俺は、つい言葉を繕うのを忘れてしまった。


「あ、あの、ごめん。本当にごめんなさい」


矢谷さんの顔色が見る見るうちに青ざめる。


「違うの。困らせたかったんじゃない、んです。ただお弁当を、その……ごめんなさい!もうしない。もう絶対しませんから。ごめんなさい、本当にごめんなさい」


次第に表情が歪んでいく。

大きな瞳も薄っすらと濡れる。

今にも泣きそうな顔だった。

それでいて怯えるようにも、縋るようにも見えた。


積極的に距離を詰めてきたかと思えば、こちらの言動や態度に過敏なまで反応を見せる。

近付きながらも恐れ、怯えながらも離れない。

相反する行動と反応。

強制されていない状況でのそれは、あまりに不審だった。

……何か、裏があるのやもしれない。

思考の端にそんな可能性の泡がぷっかりと浮き上がった。


「ごめんなさい。許して下さい。もう絶対にしませんか―――」


「せいっ!」


「―――っ!?」


呪詛のように湿気た言葉を吐き出す矢谷さんへ、手加減した手刀をお見舞いする。

突然のことに困惑している様子の彼女は、頭に手を置いた状態で呆然と俺を見つめた。


驚いてる驚いてる。

俺は小さく頬が動くのを感じた。

その顔、なかなか面白いじゃないか。


「この金平ごぼう、味がよく染みてるけどここまでするのって手間がかかるもんなの?」


「えっ……う、うん。少しだけ」


程よい大きさで切り分けられたごぼうを口に放り込む。

味が染みていながらも、触感はまったく損なわれていない。

箸が自然と進んだ。

うむ、美味い。


「この小さいお好み焼き、何か入ってるな」


「……当たり。生地にマヨネーズを混ぜてるの」


「ははぁーそのお陰でこのコクが出ているのか。なるほど、いい工夫だ」


「あ、ありとう」


「お好み焼きはよく作るの?」


「うん。……私も好きだから」


「そうかそうか!なんだ矢谷さんも同志だったんだな!」


俺は晴れやかに笑った。

不純物を混ぜることなく、はははっと笑った。

それに釣られるように矢谷さんの表情が微かに綻んだ。

料理に強い思い入れがあるのだろう彼女のことだ、自身の腕前を褒められて嬉しいのだろう。


その後も俺が弁当の中身について聞くと、彼女は嬉々として説明してくれた。

数品の調理法を教えてもらった頃には、彼女の表情は随分と和らいでいた。

どうやら意識を逸らすことには成功したようだ。

しかし、あくまでこれは一時的な処置。

俺はいつの間にやら手に収まっているコップを傾けた。

む、今日は緑茶か。


「おや、これも美味しい」


「その出汁巻きは―――」


調理法を説明してくれている矢谷さんに勘付かれないよう相槌を打ちながら、俺は密かに思考に耽る。

彼女の不審な行い。

それが俺に対して後ろ暗いことを企てているとか、そういった類のものが由来なら別にいい。

裏がある、そうですか。

その程度にしか思わない。

しかし、他の理由ならば放っておけない。

命を助けたのなら、ある程度まで面倒は見るべき。

その信条に反する。


ちらり。

様子を伺った。

瑞樹姉さんのお陰で、出会った時に浮かべていた絶望と諦観の色は今はもう見えていない。

切迫した危機はないだろう。

だが、まだ何かが残っている。


少しばかり様子を見させてもらうか。

俺はそう結論を出すと、コップを置いて箸を取る。

これまた美味しそうな竜田揚げを口に入れて、その後に真っ白なご飯をかき込んだ。

頑なな恩返しの理由。

その疑問を心の端に置いたまま。






――――――――――――――――――――






俺は新たな人間関係を構築するのに、長い時間を要する類の人間だ。

水や食べ物、方言に風習といった変化にはすぐ適応出来る。

だけど人間関係だけはそうはいかない。

別に他人との交流が嫌いでもなければ苦手でもないのだが、どうにも時間が掛かってしまうのだ。

小学生や中学生の頃もそうであったし、転校した先の中学でも、一年通った高校でもそうだった。

誰も近寄ろうとしてくれない。

そのくらい初対面の相手にはすこぶる不人気な男なのである。


確かあれは、高校一年の頃だっただろうか。

転校した中学で唯一親しくなり、同じ高校に進学した親友に聞いてみたことがある。

なんでこうも初対面の人に避けられるんだろうか、と。

あの時の俺はこのままではいかんと思い立ち、原因が分かれば直せるだろうと、淡い期待を抱いて質問したのだ。


しかし彼曰く、「ただただ近寄りにくいからです。それに尽きます」とのことだった。

始めは真面目な親友の小粋な冗談だと思っていた。

でも彼は本気で言っていた。


まったくもって心外だった。

それまで、俺はどちらかといえば愛想がいい方だと自負していたからだ。

物腰も言葉遣いも横暴にならないよう気を使っているし、笑みだってちゃんと作れる。

間違いなく愛想のいい人のはずだ。

そんな人に対して近寄りやすいとまで感じなくとも、近寄りにくいとは感じないはずだと確信していた。


だからこそ当時の俺は、その親友の話に凄まじい衝撃を受けた。

それは自分が不当に評価されていることもさることながら、初対面の人々が俺に対して浮かべる表情の意味をその時初めて理解してしまったからだ。


当然、俺は落ち込んだ。

というより、半泣きになっていたのを今でもよく覚えている。

その後、俺は財布が空っぽになるまで親友をたこ焼きのやけ食いに連れ回した。

そうでもしないと、胸の内にたまったやるせなさを発散出来なかった。

まあ今思えば未熟も未熟、若気の至りってやつだ。

文句も言わず、俺の自棄にずっと付き合ってくれた親友の「ユキさんは一人ではありません。俺がいます」って言葉にほろりとしたのも含めて、今ではいい思い出だ。


そんな俺が転校した。

つまり、また初めからなのだ。

再び長い間、一人ぼっちの生活が始まるのかと、転校する前に俺は諦観にも似た予想していたのだが―――


「おいおいおい!お前どんなことしたんだよ!」


「なんでこんなに男がいんのにお前なんだ!?」


「あの人あれだろ!あの普通科のめっちゃ可愛い人だろ!?どうやって知り合ったんだよ!?」


「弁当作ってもらったのか!?食ったのか!?美味かったのか!?」


先生が去った後の放課後。

予想に反して、俺はクラスメイトの多くに机を包囲され詰め寄られていた。

むさ苦しいし、男くさい。

春の陽気を吹き飛ばす男だらけのこの空間では、謎の一体感が蔓延していた。


「どんな技を使った!吐け!あ、いや、そっちの吐けじゃない!」


「あの子の作った弁当が出てくるなら、それはそれで?」


「じゃあ俺が吐こう」


「いやいや、俺が吐く」


「なら俺が」


「お前らは購買のパンしか入ってねぇだろ!」


こうして親しくもない人達が気安く話しかけてくれるのは、俺にとって新鮮な出来事だった。

とても喜ばしいことだ。

昼休みにはどうなるかと憂慮していたけど、事はいい方向へ進んでいるのかもしれない。

これも工業科独特の雰囲気のお陰かも。

女性に対して見栄を張る必要がない状況というのは、男を穏やかにさせるものだ。

まあなんにせよ、これは好機である。

この流れに乗って気軽に話せる友人を作りたいところなんだけど、


「あ、あはは……」


俺は愛想笑いのような、それでいて苦笑いのような微妙な表情を浮かべていた。

ど、どうしようか……。

俺は困っていた。

話しかけてくれるのは嬉しいのだけど、その内容に問題があったのだ。


矢谷さんとの出会いのあらましなど到底話せるはずがない。

それは他言無用の個人情報。

口外していい範疇を超えている。

ならば弁当の件を話す、というわけにもいかない。

何故なら最終的にはどう知り合ったのかに行きつくからだ。

では適当な嘘で誤魔化す。

これも難しい。

転校早々に他クラスの生徒と昼ご飯を食べるなんて、どんな物語を描けばいいのか思いつかない。

そもそも自分のクラスにすら、友達がいない奴のそんな話を誰が信用してくれるのか。


駄目だ、口を開けばボロがでる。

なれば可もなく不可もなく作戦しかあるまい。

つまり―――


「ふふふ、あははー」


愛想笑い続行です……っ!

転校生であり、周囲が近寄りにくいらしい俺にとってこの状況は千載一遇の好機である。

しかし俺のとった行動は作り笑いを張り付けて、ただ机に座するのみ。

その姿、籠城を覚悟した城主の如く。


興奮冷めやらぬ男子達は、曖昧に笑うだけの俺に増々ヒートアップしていく。

弁当の彩はどうだったんだ、女の子との会話方法を教えてくれ、卵焼きは甘い派なのか、今日の運勢が悪いんだけどどう思う等々。

暴風のように吹き荒れる質問に、俺はただ翻弄されるばかり。

こちらの様子を気にも留めない男達はじわりじわりその包囲網を狭めていく。


こ奴等まさか、このままスクラム組もうぜの流れに……っ!?

ラグビー未経験にスクラムが組めるのか、そんな一抹の不安を抱き始めた時、包囲網後方から男達の慌てふためた声が聞こえてきた。


「なにしてるの」


生気溢れる者達がひしめくこの場を、涼やかな声が一瞬で支配した。

強固な男の壁で構成された包囲網に風穴が開く。

突如生まれた一本道。

それはまるで、何人たりとも侵すことの出来ない花道よう。

そしてそこから現れたのは威風堂々、絶対強者の貫禄を漂わせる美貌の女性。


「や、矢谷姐さん……っ!」


彼女は氷花の如く凍(い)てていた。

それは今まで嬉しそうにしたり、哀しそうにしたり、楽しそうにしていた彼女が俺に初めて見せる表情だった。

俺の元まで一直線で駆け付けると、彼女はその鋭き眼光で周囲を睥睨する。

喉元に刃物を押し付けるような剣呑極まる気配からは、静かなれど激しい敵愾心が滲んでいた。

思わぬ展開と只ならぬ様子に男達の喉が大きく上下する。


「おぉ……!」


一方、俺は庇うように立つ矢谷さんを感心しながら見つめていた。

すこいじゃないっすか矢谷姐さん……!

見れば、狭まっていた包囲網が矢谷さんに気圧されて、後ろへ後ろへと引き下がっている。

彼等に敵対心が微塵もないにしろ、これだけの人数を睨むだけで退かせるとは見事なものである。

一騎当千の働きだ。

その活躍、比類なし。

褒美は取らす、期待されたし。


さて戦況はひっくり返った。

そろそろ俺も鬨の声を上げながら奇襲をかけようと、腰を上げかけたところで気が付いた。

なんでこんな流れになってるんだ?

よく今まで気が付かなかったものである。

辺りを見渡す。

慄く男子生徒達。

なんだか物理的にも精神的にも、すごく距離を取られていた。

……だ、駄目だぁ―!?

これすぐどうにかしないと、俺の孤独が加速しちゃうやつじゃんよ!


「お、お迎えありがとう矢谷さん!じゃあすまんけど俺、用事があるから先に帰るよ!いや、ほんとごめんね!」


「お、おぉ……また明日」


「また明日っ!」


俺は鞄を手に取り、矢谷さんの背を押しながらいそいそと廊下へ向かった。

行く手にいた生徒達は蜘蛛の子を散らすように逃げていく。

ふふっ、悲しい……。

幸も不幸も紙一重。

いい方向に進んでいると思ったが、どうやら俺の方向感覚が狂っていただけのようだった。


「はぁ……疲れたぁ……」


工業科の教室が見えなくなり、人が疎らな南階段に差し掛かったところで俺は深い溜息を吐いた。

あぁ、やっと帰れる。

そう思うと心がふわりと軽くなった。

皆に話しかけてもらえたのはとても嬉しいこと。

それは嘘偽りない俺の本心だ。

だけどよく知りもしない人達に囲まれて質問の嵐を浴びせられては、いくら嬉しかろうと精神的に疲弊はする。

こんなに人から詰め寄られるなんて、生まれて初めてだから尚更だった。

正直なところ、矢谷さんが来てくれてラッキーだと思わなかったといえば嘘になる。


「大丈夫?……もしかして何かされた?」


「あぁううん、大丈夫。久しぶりの授業で疲れちゃって」


「ほんとに?」


「本当に。勉強得意じゃないからさ、なかなか堪えたよ」


心配そうにこちらを覗き込む矢谷さんに、俺は力なく首を振った。

本当ではないけど、嘘でもない。

別に彼等が特段何かをしたということはないんだ。

授業で疲れていた俺が勝手に疲れを溜めた、それだけのこと。

目を細めて訝しむ矢谷さんは、それでも不承不承といった様子で曖昧な言葉を受け入れた。


「……何かあったらすぐに言ってね。私が絶対、どうにかするから」


「ありがとう。そりゃ頼もしい」


誓いを立てるような真剣さでこちらを見つめる彼女に、俺は小さく笑った。


「じゃあそれだけ勉強を頑張った追崎さんには、美味しいたこ焼き屋さん紹介しましょう」


「えぇっ!?ほんまにっ!?」


「本当に、だよ」


「うはーそりゃ楽しみだなー!」


「ふふっ、じゃあ早く行こっか」


今度は俺が矢谷さんに背を押されて動き出す。

うっひょーたこ焼きだってさ!

足はとても軽かった。

まるで羽が生えたようだ。

晩飯前に買い食いし過ぎると、家で両親にあまりいい顔はされないのだが、美味しいたこ焼きが俺を待っているのでは仕方がない。

そう仕方ないのだ。


「先に言っておくけど、俺は最低でも二パックは食べるから。味によっては三パック目もありうる」


「うん、知ってる」


「はっはー!そうかそうか、知ってるか!」


昂りを表すように俺はうはは、と豪快に笑った。

気分は戦で快勝した武将である。

苦しゅうない苦しゅうない、たこ焼きあればどんな失敗もおーるおっけー!


「……ん?」


何か引っ掛かった。

はて、どこか可笑しかっただろうか。

少し頭を捻ってみるがピンと来ない。

……まあいっか。

たこ焼きがあればおーるおっけーだ。

たこ焼きに支配されてしまっている頭で難しいことを考えるのは止めて、俺は来るべき幸福の時に思いを馳せるのだった。





 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る